2022年3月19日土曜日

「薪割り台」に狙いを定める

 文章を書き進めながら、ほんとうに自分が書きたいことはこういうことだったのか、もう少し別のことではなかったのかと、書き手はしばしば思うものです(現に、いつもこのブログに掲載する文章を書こうとするときのわたくしもそうです)。

『理解するってどういうこと?』の「はじめに」で、エリンさんは、授業のアイディアを満載した「ハウツー」本を書くことなら比較的簡単にできるとわかっていたと言って、しかし、そうすることはできなかったと述べ、その結びの部分で次のように書いています。


 こうして自分の関心が、自分でも完全には書きつつあることのすべてをわかってはいない、別の本を書くことにあると気づくに至ったのです。自分がいままさに格闘しているさまざまな概念について書きたかったのです。つまり、子どもたちが学ぶということはどういうことなのかということについて、(私が指し示すのではなく)読者が自ら考える豊かな機会となるような本を書きたかったのです。私自身が教えるというよりもむしろ学ぶ本、そのなかに大きな問いを提示することができるような本を書きたかったのです。その過程で、自分自身に挑戦するような本を書きたかったのです。(『理解するってどういうこと?』viiiページ)

 

 この「はじめに」はこの本の他の部分よりも後に、おそらく一番最後に書かれた文章だと思います。こういう内容を最初に書くことはむずかしいことだと思うからです。むしろ、一冊の本をつくり終えた後にわかったことが書かれていると言っていいでしょう。書き手が「自分の関心」をおぼろげながら理解するのは、きっとすべてが終わった後、しばらく経ってからなのかもしれません。

 アニー・ディラード著(柳沢由実子訳)『本を書く』(田畑書店、2022年:パピルス、1996年)は主にフィクションを書く行為について書かれたものですが、この本にはほんとうに書きたかったことがどうして書き終えた後にわかるのかということを教えてくれる次のような一節があります。

 

 進行中に作品を完全なものにできない理由は、創造的執筆のとるべきかたちは書かれていく過程でのみ明らかになるからだ。それまでの文章は、どんなに磨かれて見かけがよくても使いものにならなくなる。全体を見通せる作家は、作品全体のコンテキストにおいて一文節がどのような意味あいをもっているかがわかってはじめて、作品のねらいを強調するために細部を調整することができる。(『本を書く』57ページ)

 

 これがフィクションを書く行為に限らないことであることは、エリンさんの「はじめに」の言葉が証明しています。「それまでの文章は、どんなに磨かれて見かけがよくても使いものにならなくなる」とは厳しい言葉ですが、「書かれている過程」で「創造的執筆のとるべきかたち」すなわち自分がほんとうに書きたかったことがあらわれるということは、すべての書く行為にあてはまることでもあると思われます。ディラードの言葉は辛辣ですが、書き手として呻吟することを続けた書き手の言葉として真実味があります。

 『本を書く』にはこのような宝物のような言葉がたくさんあるのですが、ほんとうに書きたかったことを書き手が探し当てる状況をものがたる一節もあります。「薪割り」についての夢についての記述です。

 

ある晩、私は夢を見た。それは天なる力が薪割りの方法を私に教えるものだった。狙いを定めるのだ(決まっているじゃない!)、薪割りの台に、と夢は告げた。本当である。狙いを、薪割り台に定めるのだ、木そのものではなく。そうすれば木のてっぺんを削るのではなく割ることができる。薪割り台の上に乗っている木を、まるで透明なものであるかのように素通りしなければ、その仕事をきれいに片づけることはできない。だが、こうすると、極寒の中、いとも簡単に一日に必要な分の薪をわずか二、三分で割ってしまうので、全然からだは暖まらない。暖かくなるたった一つのチャンスを逃してしまうのだ。/薪割りのコツは、私が夢から学んだ唯一の“役に立つこと”だった。(『本を書く』7273ページ)

 

 『本を書く』にはこのような比喩がたくさん使われています。「狙い」を「木のてっぺん」にではなく「薪割り台」に定めることが「薪割りのコツ」だと言うのですが、そしてその通りにやれば実際に「薪」は面白いように割れるものでもありますが(田舎に育ったわたくしも経験したことであります。最初は斧がぶれそうで少し怖いですが。カボチャやスイカを割るときもまな板の一カ所に狙いを定めるといいです)、もちろんディラードが言っているのは、薪割りそのもののことではありません。これが書き手として「役に立つこと」だと言うのです。文章を書くうえでの「薪割りの台」とは何か、それが見つかれば、「透明なものであるかのように素通り」するようにして書きたかったことを表現することができるということになります。

 エリンさんが「自分の関心」に気づいたのも、こうした営みの積み重ねがあったからではないかと思います。「薪割り台」が見つかってそれに狙いを定めることができたからこそ、「子どもたちが学ぶということはどういうことなのかということについて、(私が指し示すのではなく)読者が自ら考える豊かな機会となるような本」ができあがったと言っては言い過ぎでしょうか。ディラードの「薪割り」の比喩は理解行為にも応用することができます。理解するための方法を知るだけでは薪割りで「木のてっぺん」を狙うようなものだということになります。それだけではなくて、理解するための方法を使って自分が手に入れたこと(理解の成果)を出し合うことによって、理解するための「薪割り台」を見つけて、それに狙いを定めること可能になるのではないでしょうか。★

Kylene Beers & Robert Probst(2013) Notice & Note: Strategies for Close Reading, Heinemann.という本で提唱されている「理解のための道標」は、精読を促す「薪割り台」であると言うことができるかもしれません。

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