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私は、長いこと中学校や高等学校で英語を教えてきました。新年度になるたび、新しい教科書が「私をきちんと扱わないとダメですよ。」と私にささやきかけてきます。しかし、どうも魅力を感じられない。今回は、そんな教科書にまつわる体験談です。
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ある高校3年生用の英語の教科書★に、ムハマド・ユヌス氏の創設したグラミン銀行を扱った章がありました。ムハマド・ユヌスは、「マイクロ・クレジット」という少額ローンのシステムを創始し、2006年にノーベル平和賞を受賞した経済学者です。
本文の内容のあらましは以下の通りです。(もとは英文ですが、ここでは日本語で紹介します。★★)
セクション1
1972年、ユヌスがバングラディシュの大学の経済学部長になるところから始まります。故国の貧困の現実を目の当たりにしたユヌスは村人たちの中に入っていきます。
「私は、村の非常に貧しい人々と話すことに決めた。なぜ人々は生活を変えることができないのか? 私は人々に会って話し、質問をし続けた、経済学者としてではなく、教師としてでも研究者としてでもなく、ただ一人の人として、隣人として。」
セクション2
ユヌスは、村で竹の腰かけを作る女性に出会います。彼女は、竹を買うお金がないため商人からお金を借ります。商人は安い値段で竹の腰かけを買い上げ、貸したお金を差し引きます。彼女の手元に残るのは1日にわずか2セント。
ユヌスは村の実態を調べました。商人に借金をしていて、稼げるはずのお金を受け取っていない人がいないかどうか。そして、42人がそのような境遇にあり、必要とするお金が総額で30ドルであることを知ります。
「私は恥ずかしい感じがした。ここに、30ドルで42人の人々が最低生活賃金を得るのを可能にする現実の生活実態があった。それなのに、私達の社会は個人と中小企業にその種の少額ローンを提供することができなかった。」
ユヌスは銀行家に会いに行きます。銀行家は笑って言いました。「私達は貧しい人々にはお金は貸せません。金を借りるには担保を持たなければならないからです。」
セクション3
銀行家と話をしても埒があかないと知ったユヌスは、自分の名義でいくらかのローンを組み、借りたお金を村の人々に貸すことにします。村の人々が返してきたお金で、ユヌスは銀行に返済するわけです。結果はどうなったか。
「人々は私が彼らに作った貸付金を返し、それで、私はより多くのお金を借りることができて、貧しい村人により多くの貸付金を作ることができた。システムはますますより大きくなった。」
ユヌスは銀行家に言います。「うまくいっているんです。あなたはおっしゃいましたよね、彼らは返済しないと。でも、どうです。彼らは返済していますよ。」
ユヌスはこの実験的な試みを広げていき、最終的には政府の認可を取り付けグラミン銀行を設立します。そして、このマイクロクレジットの手法は全世界に広がっている、ということで本文は締めくくられます。
わたしの疑問
素朴な疑問が湧きました。「どうして村人はユヌスにちゃんと返済したのだろう?」
ユヌスに人望があったから? 村人たちは正直でいい人たちだったから?
しかし、それでは「システム」ということにはなりません。「そのシステムはどんな仕組みなのだろう?」「マイクロクレジットの手法って、どんな手法なの?」
しかし、そのことは書かれていないのです。
本を読む
私は本を読んでみました。ムハマド・ユヌス&アラン・ジョリ(猪熊弘子訳)『ムハマド・ユヌス自伝(上)(下)』です。★★★
書かれていました。
「私たちはゆっくりと、独自の、 “貸付-回収メカニズム”を作り上げた。私たちは、事業を成功させるための鍵は、借りる人々にグループを組んでもらうことであるとわかった。
貧しい人々は一人だと、あらゆる種類の危険にさらされていると感じてしまう。だがグループの一員になることで、守られているという感覚を得られるのだ。グループの一員になれば、グループの支援が得られ、同時にグループからの圧力も受ける。
さまざまな仲間からの圧力を感じながら、グループの一人ひとりは、クレジット・プログラムのより大きな目標に向かって、仲間と同調して歩んでいけるのだ。」
グループ? どういうことでしょう?
ローンを申し込みたい人は、グループを組むために、仲間にしたい人のところへ行き、銀行がどんなことをしてくれるかを説明し、仲間になってくれるよう説得しなければなりません。そうして5人のメンバーが揃うと、銀行はそのグループに対して貸付を行うのです。
「私たちはまず、グループの中のメンバー二人ずつに融資する。最初の二人が6週間以内にきちんと金を返すことができたら、今度は次の二人が借り手になることができる。グループの代表が借りられるのは五人の中の最後だ。」
「グループの力学というのは重要だ。というのも、ローンが認められるためにはグループの全メンバーの賛成が必要であり、その過程で、グループはローンに対する道徳的責任を感じるようになるからだ。だから、グループの中で問題に直面したメンバーが現れたら、そのグループは一丸となって、その人の問題を前向きに解決しようとするようになる。」
なるほど。だから、貧しい村人にとって、ローンを組むことは大変なことですね。責任が伴いますし、もし返済できなかったら、という恐れも大きいでしょう。
「最後に、グループの一人が勇気を振り絞ってローンの申し込みをする日が来る。最初のローンは12ドルから15ドル程度である。彼女にはそれ以上の額など想像もできない。」
「ようやく彼女はその15ドルのローンを手にする。ぶるぶる震える彼女の手の上で、金はキラキラ輝いている。涙が頬を伝って流れ落ちてくる。これまでの人生でこんな大金を見たことがなかったからだ。」
そして、返済の時がきます。
「借り手が最初の返済をきちんとすることができたときの興奮といったらすさまじいものである。自分が稼いで返済できるということを、自分自身に対して証明できたからである。そして二回目の支払い、三回目の支払いと続きていく。返済は、彼女にとってはまるで興奮するドラマそのものなのである。自分自身の才能の価値を見いだすことに対する興奮であり、その興奮が彼女をとらえて離さないのである。」
「グラミンのローンは単に現金を手渡すだけではない。」とユヌスは言います。「自己発見や自己開発の旅へのチケットのようなものでもあるのだ。借り手は自分自身の可能性を探し始め、内側に秘められていた創造性を見出すのであった。」
感動しました。単なるお金の貸し借りを越えたもの。人と人がどうつながるか。そのつながりの中でどう自立するか。支え合いながら、どう責任をとっていくか。その哲学があります。人間に対する洞察があります。
銀行のキャッシュカード一枚。一人孤独にATMを操作して、お金を借りることができてしまう世の中です。「便利になったものだ」とかつての私は思ったものですが、この本を読んでからは、それはあまりに寂しい、と感じるようになりました。
教科書とどう付きあうか
このような感動的な話が、教科書の本文には書かれていません。一番面白いところが省かれている、と感じてしまいます。
でも、教師は言います。「詳しいことはともかく、本文の中身をきちんと理解しておくのですよ。大事な単語も覚えましょう。」と。私もそうでした。
しかし、その詳しいこと、細部にわたる具体的なことこそが面白いのです。そこを省いて、概略的にまとめてしまって体裁を整えるから教科書は面白くない。
どうして、詳しいこと、細部にわたる内容を省くのでしょう。
おそらく教科書の編集者はこう言うでしょう。「限られた紙幅の中で、こんな細部にわたる記述を盛り込むことはできません。」
検定教科書には、指導書という分厚い本がついています。上に述べたようなエピソードを、指導書に盛り込むべきだという考え方もあります。それをもとに教師が教室で説明できるからです。
まあ、そのような具体的な情報がまったくないよりかは、良いことかもしれません。しかし、私としては、「そんなに頑張らなくてもいいよ。」と言いたくなります。
私は、教科書の本文に対する疑問を解決したくて、ユヌスの自伝を読み、彼がどのような現実に直面し、どう考え、どう行動したかを知りました。それにふれた私の感動は、「疑問が解決できてよかったなあ。はい、教材研究終わり。」というレベルを越えたものでした。教科書のそとへ踏み出したことで、想像もしなかった出会いを体験したのです。★★★★
「とにかく、教科書のレッスン○○までカバーしなくちゃ」と頑張ることで、生徒たちの興味、関心、疑問に付き合うことが無視されるとしたら、本当に残念なことです。
「教科書はそこそこにして、面白い本を読みましょうよ。『ムハマド・ユヌス自伝』、むちゃくちゃ面白かったよ。」
こんなふうに言えれば、だいぶ肩の力が抜けるのではないでしょうか。★★★★★
★ CROWN English Reading New Edition(三省堂, 2009)。これは私が授業で使っていた教科書ではなく、ユヌスのことを取り上げようと思って、いろいろ教材を探していたときに見つけたものです。
★★「 」に引用している日本語訳は、「旧・高校英語教科書レビュー」のウェブサイトからのものですが、若干、私が手直ししています。
★★★ムハマド・ユヌス&アラン・ジョリ(猪熊弘子訳)『ムハマド・ユヌス自伝(上)(下)』(早川ノンフィクション文庫, 2015)。上巻の229〜238ページから引用しています。
★★★★例えば、マイクロ・クレジットのあらましについては、インターネットで調べることもできます。しかし、ユヌスの思いや村人たちの姿にふれ、ワクワクする体験をするには、やはり本を読みたいものです。
★★★★★教科書との新たな付きあい方についての新刊が出ています。リリア・コセット・レント(白鳥信義・吉田新一郎訳)『教科書をハックする----21世紀の学びを実現する授業のつくり方』(新評論, 2020)。単なる教科書批判ではなく、授業のあり方そのものを見直す手がかりを与えてくれる好著だと思います。
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