ピューリッツアー賞も受賞している優れた書き手であったドナルド・マレー★は、大学で書くことを教え始めた当初、学生の作品に丹念に書き込み、いかに入念に書き込んでいるのかを、同僚に見てほしいと思ったぐらいだったそうです。マレーにとっては、学生の書いたものに書き込むことは、容易い、楽しい作業だったようです。(158ページ、1979年)
しかし、「いかにそれが楽しいものであっても、責任ある教師として、生徒のものである学びを教師が行なってはいけない。私が書き込むのであれば、それは自分の書いたものに対してであり、生徒の書いたものに対してではない」(161ページ、1979年)と、マレーは思うようになります。また、マレーの学生への関わりかたも、「学生が自分の書いたものをどんどん良い下書きにできるような方法で、自分で自分の書いたものに反応できるようにする」(160ページ、1979年)ことへとシフトしていきます。
英語を教える私は、学生の書いた英語の間違いを直し、必要と思われるコメントもたくさん書き込んできました。朱を入れ過ぎて、学習者の意欲をそいでしまったこともあります。マレーとは異なり、私の場合は、直したり、コメントを書いたりするのは「容易い、楽しい作業」ではありません。辞書その他を調べたりして勉強もします。書かれている情報に首を傾げながら整理しようとすると、時間も手間もかかり、きりがありませんし、何でこんなわかりにくいものを出すの?とカリカリしたりもします。
「教師が頑張りすぎると、結局、学んでいるのは、生徒ではなくて教師だよ」と耳にすることもありますが、自分が添削した経験を考えると、実感としてよくわかります。しかし、教師の添削についての私の理解は、これまで、「教師の労は多いけど生徒の学びは少ないから、あまり効率がよくない」という、ごく単純なものだった気がします。
でも、マレーの本を読んでいると、「効率がよくない」だけでなく、おそらく教師の善意からとはいえ、「生徒の書いたもの」を「教師のもの」にしてしまうという問題を考えさせられます。マレーは「無責任にも、生徒の書いたものを誠実に直すことで、生徒の作品の推敲も教師がしてしまう」ことに気づき、一見、親切そうに見えるものの、それは破壊的であることを示唆しています(マレー、1969年、140ページ)。
とはいえ、マレーも、いくつかの出来事を経て考えた結果、提出されたものに書き込むのをやめたときには、かなり葛藤したようです。校正すべき綴り等の間違いもありますし、中には焦点が定まらないもの、構成ができていないもの、書き手の声がないものなどもあります。(161ページ、1979年)
「書き手の学生が、何を言いたいかをまだ見つけていないのに、どうやって教師は、書き手の書いた言葉を変えるのか? 書き手は、まだ自分が何を強調したいのかがはっきりわかっていないのに、どうやって教師は句読点を打てるのか? 書き手は、読者が誰なのかまだ決めていないのに、どうやって教師は語調・言葉遣いに疑問を投げかけるのか?」とマレーは自分に問います。(161ページ、1979年)
「書き手の学生が、何を言いたいかをまだ見つけていないのに、どうやって教師は、書き手の書いた言葉を変えるのか? 書き手は、まだ自分が何を強調したいのかがはっきりわかっていないのに、どうやって教師は句読点を打てるのか? 書き手は、読者が誰なのかまだ決めていないのに、どうやって教師は語調・言葉遣いに疑問を投げかけるのか?」とマレーは自分に問います。(161ページ、1979年)
また、マレーは、教師や編集者が、書き手の最初の下書きに書き込むことがあり、その問題にも言及しています。最初の下書きを書いた段階では、書き手はまだ自分が伝えたい意味を見つけられていないことが多いです。ですから、その段階で他者が行う修正は、その書かれたものはこういう意味だろうと考える、その他者自身の思い込みから来ている、そして、書き手が意味を作り出すということを書き手から奪ってしまっている、とマレーは指摘します。(89ページ、1981年)
「自分が書く題材を見つける」ことも「その題材を書くことで自分の思考を形成すること」も、それぞれの書き手にしかできない、と考えるマレーですが、もちろん、放任しているわけではありません。
例えば、マレーは、生徒の責任の一つとして、題材を探すことをあげていますが、「教師は、他の書き手たちがどうやって題材を見つけているのかを示す。どのように視点を定めていくのか、どのように認識するのかを、示すこともできる。でも、生徒の世界を生徒の目で認識することは、教師にはできない」(140ページ、1969年)というように、教師ができること、できないことをはっきりさせています。
マレーは自分のカンファランスを振り返った論文のタイトルに「聞く目」(the listening eye)という言い方を使っています。(157ページ、1979年)
この表現を見て私なりに思ったのは、次のことです。おそらく、マレーは、プロの書き手として、修正できる点を山のように見つけられる「鋭い目」で生徒の作品を見ることができる。でも、その目を使い始めたとたん、それは生徒の作品ではなく、マレーの作品になってしまうので、その自分の目を使わない。そうではなくて、「生徒の目」で、まだこれから生徒が見つけ出していく意味を見ようとする。そのためには、カンファランスでも、教師が話す前に、生徒に聞くことが必須。
書くことを学ぶ教室で、それぞれが自分の考えを作り出し、それをお互いに読む(出版する)ことの価値。マレーはそこに以下のような可能性を感じているのかもしれません。
「民主主義は、それぞれが自分の言葉に責任を持っている、様々な声が混じっているところから築かれる。賢明な国語の教師が歓迎するのは、一人ひとりの生徒が、それぞれの書き方で、それぞれの関心を表現する中で生まれる声、相反する多様性があるいろいろな声である」(140ページ、1969年)
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★ドナルド・マレー(Donald M. Murray)については、3月13日の書き込みで紹介していますので、ご参照ください。なお、本文中の引用は、マレー自身が自分の書いた論文等を選んで作った本、Learning by Teaching: Selected Articles on Writing and Teaching(Boynton/Cookから1982年に出版)よりです。上に記載したページ数はこの本でのページ数、出版年は、最初に出版された年を記しています。引用の場合は、私のざっと訳ですので、お気付きの点があれば教えていただけますと、ありがたいです。
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