『理解するってどういうこと?』の第6章には、「ジャンルと作品の多様性」を扱った箇所があります。211ページの表には「多様なジャンルに気づく」とあって、19のジャンルが並んでいます(これはアメリカの高校1年生を受け持つ先生たちに、自分の受け持つ高校1年生が読み書きで親しんでいてほしいジャンルは何かと尋ねたアンケート調査の結果で、優先度の高かった順に並べられています。なぜか「伝記」が一番多く、生徒たちがよく読んでいるはずのトールキンの作品が含まれるジャンル(ファンタジー)は最下位でした。大人の期待と生徒の好みのズレを示したようなものでもありますが、しかし幅広いジャンルの本を読んでほしいと思っていることはわかります。エリンさんは、自分の読書経験を振り返っても、ほんとうに多種多様なジャンルの本や文章を読んでいて、それは大人ならみんなそうだとも言っています。それなのに、どうして限られたジャンルの本や文章しか授業で扱わないのだろうとエリンさんは問いかけています。この問いはアメリカに限られたことではありません。「ジャンル」の特質を意識させることが少ないのはむしろ日本の国語教育にもあてはまります。読むことの学習で学ぶジャンルと言えば、小説か評論文・論説文がすぐに思い浮かぶでしょうが、ほかはどうでしょうか?
法学者・木村草太さんとSF作家・新城カズマさんの対談『社会をつくる「物語」の力―学者と作家の創造的対話―』(光文社新書、2018年)にはこのことを考えるきっかけとなる一節があります(この本にはトールキンの『指輪物語』についてのお二人の読みと解釈が繰り返しあらわれます)。たとえば「フェイクニュース」(嘘のニュース)をめぐる次のようなくだり。
新城 ですよね。そもそもフィクションとフェイクニュースは本当に区別できるのかっていう問題もあります。つまり、近代小説の起源は、おおよそ18世紀か17世紀後半ぐらいのヨーロッパになるんですけども、最初のころは、新聞記事と短編小説って、実はほとんど区別がなかったんですよ。
要するに、「どこそこで何とかいう夫人が殺された! なんという残虐、なんという悲劇!」みたいな「扇情的な報道」と、ほとんど同じ内容の「どこそこでナントカ婦人が殺されました。おお、なんという悲劇でしょう!」っていう「小説」が、同じ新聞の違うページに載っていて、しかも同じ人が書いていたりする。ちなみに『ロビンソン・クルーソー』で有名なダニエル・デフォーが書いてたんですけど!(笑)
ジャーナリズムと文学だけでなく、近代的な科学実験の報告、株の取引情報、保険の宣伝、不動産広告なんかまで、ほぼ同じ人たちによる同じ紙面でのやり取りの中から生まれた兄弟みたいなもの。そういう意味では、フェイクニュース問題って、小説の問題でもあるんですよね。
木村 そうですね。フェイクニュースにも、たとえば「クリントンってこんな奴っぽくない?」っていう評論としての側面もあるんですよね。「クリントンってこういう世界に置いたらこういうことしそうじゃない?」っていう小説も書ける。
新城 トランプ氏なんか個性が強烈なので、「歩く小説」みたいな人。
木村 確かに、評論としてのフェイクニュースと小説の境は、法的には区別がつくけれど、難しいかなとは思いますね。
新城 ええ。新聞報道と小説が・・・・・・あるいは事実を吟味する手法とフィクションを楽しむ技術とが、実はほぼ同じ出自であるっていうことを、もうちょっとまじめに考えておかないと、今後また思わぬところで足をすくわれるかもなぁ、と思いますよ。(82~83ページ)
要するに、「どこそこで何とかいう夫人が殺された! なんという残虐、なんという悲劇!」みたいな「扇情的な報道」と、ほとんど同じ内容の「どこそこでナントカ婦人が殺されました。おお、なんという悲劇でしょう!」っていう「小説」が、同じ新聞の違うページに載っていて、しかも同じ人が書いていたりする。ちなみに『ロビンソン・クルーソー』で有名なダニエル・デフォーが書いてたんですけど!(笑)
ジャーナリズムと文学だけでなく、近代的な科学実験の報告、株の取引情報、保険の宣伝、不動産広告なんかまで、ほぼ同じ人たちによる同じ紙面でのやり取りの中から生まれた兄弟みたいなもの。そういう意味では、フェイクニュース問題って、小説の問題でもあるんですよね。
木村 そうですね。フェイクニュースにも、たとえば「クリントンってこんな奴っぽくない?」っていう評論としての側面もあるんですよね。「クリントンってこういう世界に置いたらこういうことしそうじゃない?」っていう小説も書ける。
新城 トランプ氏なんか個性が強烈なので、「歩く小説」みたいな人。
木村 確かに、評論としてのフェイクニュースと小説の境は、法的には区別がつくけれど、難しいかなとは思いますね。
新城 ええ。新聞報道と小説が・・・・・・あるいは事実を吟味する手法とフィクションを楽しむ技術とが、実はほぼ同じ出自であるっていうことを、もうちょっとまじめに考えておかないと、今後また思わぬところで足をすくわれるかもなぁ、と思いますよ。(82~83ページ)
「事実を吟味する手法」と「フィクションを楽しむ技術」とが「実はほぼ同じ出自」という指摘にはハッとさせられます。わたくしたちはこの「事実を吟味する手法」と「フィクションを楽しむ技術」を別物と考えることが少なくないのではないでしょうか。国語の授業のなかでも、前者は説明的文章や評論文で、後者は文学作品(フィクション)で学ぶものという固定観念がありはしないでしょうか。木村さんと新城さんの対話はその固定観念を崩して考えてみることの重要性を教えてくれます。
そして、「読むジャンル」を制限してしまったら、ほぼ確実に新城さんたちが指摘することに気づく機会は失われてしまいます。ここで肝心なのは、ジャンルの境目の区別をつけることは木村さんの言うように一応可能だけれども、その境目の根拠はそれほど強固なものではないということです。
『理解するってどういうこと?』の217ページには「ジャンルの性質と特徴に焦点を当て」「子どもたちがそのジャンルを読み、学習し、書くための豊かな機会を提供すること」を目的として「ジャンル学習のガイドライン」が示されています。その目的は「ジャンル」の境目を意識させることではなく、むしろ「ジャンル」の境目が実は曖昧であり、多彩なジャンルの本を読み書きすることで子どもたちの理解の幅を広げていくことにあります。新城さんの言う「事実を吟味する手法」と「フィクションを楽しむ技術」とが「実はほぼ同じ出自」であることの発見もそういう営みから生まれるはずです。そのような営みによって、二人が話題にしているように、「ジャンル」の違う文章を同じ人が書けるという事実をしっかりと見極めることができるのです。そのように考える姿勢こそ「クリティカルな」(大切なことを見極める)姿勢だと言っていいのかもしれませんね。
そして、「読むジャンル」を制限してしまったら、ほぼ確実に新城さんたちが指摘することに気づく機会は失われてしまいます。ここで肝心なのは、ジャンルの境目の区別をつけることは木村さんの言うように一応可能だけれども、その境目の根拠はそれほど強固なものではないということです。
『理解するってどういうこと?』の217ページには「ジャンルの性質と特徴に焦点を当て」「子どもたちがそのジャンルを読み、学習し、書くための豊かな機会を提供すること」を目的として「ジャンル学習のガイドライン」が示されています。その目的は「ジャンル」の境目を意識させることではなく、むしろ「ジャンル」の境目が実は曖昧であり、多彩なジャンルの本を読み書きすることで子どもたちの理解の幅を広げていくことにあります。新城さんの言う「事実を吟味する手法」と「フィクションを楽しむ技術」とが「実はほぼ同じ出自」であることの発見もそういう営みから生まれるはずです。そのような営みによって、二人が話題にしているように、「ジャンル」の違う文章を同じ人が書けるという事実をしっかりと見極めることができるのです。そのように考える姿勢こそ「クリティカルな」(大切なことを見極める)姿勢だと言っていいのかもしれませんね。
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