2018年11月17日土曜日

「わかる」とは「待つこと」




  『河岸忘日抄』や『めぐらし屋』など、語り手や登場人物のなにげない日常の舞台から書き起こして、展開の意外性とわかりやすくも巧みな文体で読者を巻き込む小説を世に送り出している堀江敏幸さんに、『いつか王子駅で』という作品があります。たまたま、仕事で、京浜東北線の「王子」や「東十条」に立ち寄ることがよくあったので、この小説も、タイトルにひかれて読みました。お気に入りの一冊です(先の二冊と同じで、新潮文庫所収)。

 神奈川の桐光学園で各界を代表する7名がおこなった生徒向けの講義の内容を収めた『続・中学生からの大学講義3 創造するということ』(ちくまプリマー新書、201810月)に、堀江さんは作家・フランス文学者として、『いつか王子駅で』の創作過程に触れた20ページほどの「あとからわかること」という文章を寄稿しています。

 もともと『書斎の競馬』という一風変わった文芸雑誌から依頼された連載であったことや、連載タイトルを決めてほしいと急に言われ、ちょうど聞いていた楽曲がビル・エヴァンズの『いつか王子様が』だったので、『いつか王子駅で』というタイトルにしたことなど、おもしろく読み進めていたところ、次のような言葉がありました。



 『いつか王子駅で』を文庫本にするとき、何年ぶりかで全編を読み返してみました。

 すると、書いた当時は気づいていなかったことがわかってきたのです。(113ページ)



 おっと、と思いました。作家自ら自作を読み返して思い当たった「わかる」「わからない」問題。堀江さんは「わかる」ということはこういうことかもしれないと、二つのことを書きます。一つは「あのときにこういう書き方をしたのは、こんな経緯で、こういうふうに感じていたからだろう」と「問い直したくなること」です。堀江さんのこの文章自体がその「問い直し」の実践です。

 もう一つは「どのようにして作品ができあがったのか、自分でもわからないという事実を確認できること」です。



 にもかかわらず、作品は、確実にそこにある。これはどういうことか、ずっと考え続けています。あとから考えて、わかるか、わからないか。それは、振り返って新しい疑問をどう自分にぶつけ、積み重ねていくか、模索の繰り返しです。(114ページ)



 作家自らが自作の推敲に触れた言葉です。創作過程の一コマだと考えればそれで済んでしまいそうですが、そうではありません。よく考えてみると、ここで行われているのは自作についての「読み」や「解釈」です。本や文章を「わかる」「わからない」ということも、基本は同じです。堀江さんが言うように「終わりがない」ところも、創作と同じ。「読み」や「解釈」にも終わりはありません。そういう目で彼のこの文章を読み進めると、本や文章を読んで理解する際にも起こることばかりが書かれているということに気づきます。こんな素敵な一節に出会いました。



 皆さんの先輩が書いた作品を読むと、何か自分のではない力がふっと乗り移って、その瞬間言葉にしないと永遠に失われてしまう感情や光景を逃さずに書いたな、と感じられるものがあります。ジャンルは問いません。短歌や詩、小説や評論、何にでも起こり得ます。こうした状態は長続きしないかもしれないし、二度と還って来ないかもしれません。けれど、逃さなかった言葉が目の前にあるとき、それは書いた人だけの言葉ではなく、それを読んでいく読者の、みんなの言葉になるのです。/言葉にみんなの気持ちが乗り移ったとき、その言葉が光り始める。そういう言葉に出会うために、僕は書く仕事だけではなく、読む仕事もたくさんやらせてもらっています。(120ページ)



 自作の解説だと思って読んできた文章だったのですが、いつしかわたくしは、けっしてそれにとどまらない広がりと励ましを感じていました。読み書きすることは、そのことにとどまらないで、もっと大きな読み書きの共同体に属することだということを、上の文を書き写しながら、稀代の読み手でもあるこの作家の言葉に気づかされ、ハッとしました。堀江さんには『本の音』(中公文庫、2011年:単行本は晶文社刊、2002年)などの書評集もたくさんあります。「理解すること」と書くことが密接に結びついているのです。



 僕はどんな人や物に対しても、かならずおもしろいところがある、と思ってしまう人間です。本に対してもおなじです。九割方だめでも、一割の良質なノイズを見出そうとする。すると、楽しくなるんです。つまらない、趣味に合わないといってすぐ閉じるのではなく、何かハッとするノイズが見つかるかもしれないと信じて、はじめから順に、飛ばさないで、最後まで読むんです。つまり、待っているんです。読むことも待つことだし、書くことも待つことなんです。(123124ページ)



 「あとからわかること」は、作家が創作の過程について述べた文章だと思って読み始めたのですが、このように「理解する」「わかる」についての秀逸な見解を満載した文章でもあります。「わかる」こともまた「ノイズ」を聴き取りながら「待つ」ことなのだと、深く肯かざるを得ません。「良質のノイズ」を見出そうとしながら、言葉に耳をすます…『理解するってどういうこと?』の第4章「アイディアをじっくり考える」で探究される「沈黙を使う、深く耳をすます」という「理解の種類」です! エリンさんも「待つ」人なのです。これも「あとからわかること」の一つ。






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