2018年7月21日土曜日

起こっていること と同じくらいに たいせつなのは 起こっていないこと。

 
 これは、エリンさんの『理解するってどういうこと?』第4章「アイディアをじっくり考える」の冒頭に掲げられた、ジョン・ストーンの「早朝の日曜日」という詩の一節です(111ページ)。この詩は、アメリカの画家エドワード・ホッパーによる同名の絵に捧げられた詩でもあります(ストーンという詩人の詩の既訳はないので、共訳者の吉田さんと二人で訳詩をつくりました)。

  「起こっていないこと」に捉える? どうすればいいのでしょうね? むずかしいことにように思えます。日々、テレビや新聞の報道で知り得ることは「起こっていること」でしょう。情報として私たちの目や耳に飛び込んできます。しかし、「起こっていないこと」は捉えようがありません。「わからない」と言ってしまえば、それで済んでしまいそうです。
  しかし、エリンさんは、何事も起こらないアメリカの日常の一コマを描いたホッパーの絵を読み解きながら、ストーンが言うように「起こっていないこと」が「起こっていること」と同じかそれ以上に「たいせつ」だと言うのです。「起こっていないこと」を捉えようとすることも理解の種類の一つで、それを「沈黙を使う、深く耳をすます」と名づけています。
  ジャーナリストの松原耕二さんの『本質をつかむ聞く力―ニュースの現場から―』(ちくまプリマー新書、2018年)は報道の現場で長くつとめた知見をもとにわかりやすい筆致で、まさにこの「沈黙を使う、深く耳をすます」理解のありようを具体的に伝えるものです。
 
   手に負えないほど膨大な情報に囲まれているうえに、フェイクニュースがひっそり と、  でも大量に紛れ込む。大統領は併記でデマをいい、官僚たちはせっせと公文書を隠したり、改ざんしたりする。何が本当で、何がデマなのか、もうわけが分からなくなってしまう。
  でもだからといって、呆然と立ち尽くしているわけにはいかない。見通しの悪い森の中で枝を払いのけながら歩くように、ひとつひとつ情報をさばきながら前に進むしかないのだ。
  そんなとき、出来るだけ道に迷わないようにするためには何が必要なのか。
  まずは静かに耳を澄ますことだと、ぼくは思う。(『本質をつかむ聞く力』13ページ)
 
 この本の「はじめに」の一節ですが、日々の報道ニュースに接しながら、多くの人が同じようなことを考えているのではないでしょうか。そして最後の一文に「静かに耳を澄ます」という言葉が使われています。エリンさんの言葉と同じですね。
一方、この本には人間の歴史のなかで「ジェノサイド(大量殺害)」がどうして起こったのかということについての考察もあります。その理由は一つに絞ることなどできないでしょうが、松原さんは、多くの人が「聞くことで傍観者になってしまう」ことが「ジェノサイド(大量殺害)」を間接的に導いたのだと言っています。それは「起こっている」ことを黙認して傍観者になることだとも解釈することができます。
  これに対して、松原さんが大切だと言う「静かに耳を澄ますこと」は、「起こっている」ことを黙認するのではなく、むしろ「起こっていないこと」すなわち「起こっている」ことの裏側で起こっているかもしれないことを想像し、そのことが表にあらわれないわけについて、深く考える行為を指していると考えることができるでしょう。それは表面的に聞こえていることを受け止めるだけでは済まされない行為です。ですから、次のようなとても重要なメッセージがこの本には盛り込まれています。
 
   起きた事実だけでは、人間の心は収まらない。
   頭では納得できても、心では納得できないことなど、いくらでもある。だから詩や小説とった芸術が生まれるのだと思う。
   人はいろいろな思いから、問いを発する。表面的な言葉ではなく、その問いの奧にあるものにぜひ耳を澄ましてほしい。(『本質をつかむ聞く力』128ページ)
 
  新しい刺激に対して反射的に反応する能力はついているのかもしれない。しかしその一方で、ぼくたちは複雑なものごとを聞く忍耐力と能力を失いつつあるのではないだろうか。(『本質をつかむ聞く力』138ページ)
 
  発された言葉や問いの「奧にあるもの」に「耳を澄ます」とは、言葉や問いを発した存在の意図や思いを理解しようとする行為です。そうした行為を一人ひとりが重ねることによって、お互いを理解しようとするコミュニティが生まれるのだと、松原さんは言っているのではないでしょうか。こうした松原さんの言葉には、「沈黙を使う、耳を澄ます」ことを大切な理解の種類の一つであるとしたエリンさんの考えと共通するものを認めることができるのです。

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