2016年7月29日金曜日

「作家ノート」という生き方


いま、4人で『ライティング・ワークショップ』の著者の一人のラルフ・フレッチャーが、それをする時の必需品の『A Writer’s Notebook(作家ノート)』について書いた本をメールでのブッククラブで読みあっています。

この本を最初に読んだのは、10年近く前のことです(この本自体は、20年前に出ています!)が、一人で読むのと比較して、四人で読むと広がりや深まりがまったく違います。一人で読むよりは時間は掛かりますが、それから得られるものは何倍にも増幅しますから、このやり方はオススメです。(まだブッククラブの経験のない方は、友だち2~3人に声をかけて、ぜひ試してみてください! 進め方のヒントがほしい方は、下のコメント欄に書くか、吉田=pro.workshop@gmail.comまで連絡ください。)

今回読んで、引っかかったところをいくつか紹介します。

1) 作家ノートをもって、気づいたことをいろいろ書き続けるということは、「好奇心をもって人生を眺めてごらんという、人の本質に関わる」ことだと、つくづく思います。それが作家の存在であるわけなのですが、同じでレベルで読書ノートをつければ読書家であり、数学者ノートなら数学者であり、科学者ノートなら科学者であり、市民ノートや歴史家ノートなら社会科を学ぶ人であり、スケッチブックに描き続けるなら画家であり・・・・と思うのですが、その一番大切な部分に目を向けず、その代わりに教科書に目を向けすぎているのが日本の学校教育になってしまっています。
 この作家ノート等を書き続けるということは、作家(読書家、数学者、科学者・・・)のような生き方までも可能にしてくれます。ちなみに、私の場合は、このWW&RW便りの他にも、ギヴァーとPLC(授業改善/学校改善)のブログを書いています(=そのためのノートをつけています)から、ある意味では「WW&RW的な生き方」「ギヴァー的な生き方」や「PLC的な生き方」を可能にしてくれているのかもしれません。少なくとも、そういう視点で物事を見続けることを可能にしてくれていることだけは確かです。
なお、作文教育(や読書感想文)などは、すでに教師が分かっていることを書かせる場合がほとんどですから。好奇心も、人の本質もあったものではありません。あるのは、いったい何でしょうか?

2) もちろん、普通の人も日々の生活の中で、考えたり、感じたり、気づいたりしていますが、それらを書き留めず、やりすごしてしまうので、そのほとんどは忘れてしまうというか、消えていきます。しかし、書き手/作家は、それらをA Writer’s Notebook(作家ノート)に書き留めます。それによって、人生を二度(あるいは数度)生きるチャンスが与えられます。
  しかし、そのためには「書き留める」と「読み直す」という行為が大切なわけです。後者については、5)で触れます。

3) 大きく書くのではなくて、小さくが強調されています。「神は細部に宿りたもうGod is in the details」です。これは、俳句や短歌に通じる部分があります。
 さらには、「A single detail can sometimes give a window into a person’s whole life.p.4)=一つの具体的な描写が、時にはひとりの人の人生全体の窓を提供してくれる」です。
 それほど、細部は大切!!

4) 作家ノートは、「孵化器」という比喩も分かりやすいです。そこでじっと寝かせることによって、アイディアが育つのをじっと待つことの大切さです。しかも、当然のことながら、必ずしもすべての「卵」が孵って発育するわけではありません!
 ある意味では、「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」的な発想は大事です。(発育した結果が「出版」という形で「お披露目」します。)

5) 作家ノートは、現在の自己を「無数の、過去に存在した自分の集合体」として捉えられる媒体と表現した人がいましたが、私もその通りだと思いました。
  それは、読むものに対する自分の接し方から確実に言えます。同じ本でも、読む時を変えると読めるものが違うことがあります。それは、自分が変わっているから起こりえることです(退化しているのではなく、成長している、と捉えたいですが?!)。前に読んだときには気づけなかったことに気づける自分になっているのですから。この辺のことについては、『「読む力」はこうしてつける』の第3章に詳しく書いてありますので、興味のある方はぜひご覧ください。)
  この辺の議論を発展させると、国語の読みの解釈でいわゆる正解的な解釈があり、それはある権威というか研究者たちによって認められた解釈であることが多いと思うのですが、それと私たち常人というか生徒たちはどう接すればいいのか、という問題が出てきます。研究者たちにとっても、ある時点での解釈があり得る?(彼らの解釈も固定されるということはないはずで!! 彼らも成長しているわけですから。)そして、常人/生徒たちにも、ある時点や異なる時点の解釈があっていいはずで! ということは、「正解って何だ」ということになりませんか?

以上を読んで、作家ノート(および、ブッククラブ)に興味が持てた方は、ぜひ試してみてください。両方とも、とても大きな価値がありながらも、これまでの国語教育ではその価値を認めてこなかったものです。


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