2015年12月18日金曜日

『理解するってどういうこと?』と『わかりあえないことから』


 『理解するってどういうこと?』の第7章「変わり続ける以上に確実なことはない」には、果てしなく対話する、エリンさんの家族のことが書かれています。支持政党を異にするエリンさんのおじいさんたち。そしてまた、エリンさんも夫とは支持する政党が異なります。しかし、この家族はけっして仲が悪いわけではない。支持するものが違うからと言って、それを敵視するようなことはなく、お互いの言いたいこととその根拠をできうるかぎり理解しようとしています。だから、この家族はとても仲が良くて、お互いのことがよくわかっているように見えます。

これはどういうことなのでしょう?

主義主張が異なるから物別れに終わる、ということはよくあることです。しかし「異なる」からこそ、わかろうとする意思が生まれる。これは、何も政治に関する話に限りません。私たちには、生きている時代も状況も異なる昔の絵や文章、外国の絵や文章を、わかったつもりになることも少なくありません。

 平田オリザの『わかりあえないことから』(講談社現代新書、2012年)に、次のようなことが書かれていました。


私たちは、「心からわかりあう関係を作りなさい」「心からわかりあえなければコミュニケーションではない」と教え育てられてきた。

 しかしもう日本人はわかりあえないのだ……と言ってしまうと身もふたもないので、たとえば高校生たちには、私は次のように伝えることにしている。

「心からわかりあえないんだよ、すぐには」

「心からわかりあえないんだよ、初めからは」

 この点が、いまの日本人が直面しているコミュニケーション観の大きな転換の本質だろうとわたしは考えている。

 心からわかりあえることを前提とし、最終目標としてコミュニケーションというものを考えるのか、「いやいや人間はわかりあえない。でもわかりあえない人間同士が、どうにかして共有できる部分を見つけて、それを広げていくことならできるかもしれない」と考えるのか。(『わかりあえないことから』207208ページ)


 この本がどうして『わかりあえないことから』というタイトルを付けられているのかを、読者としてわかったつもりになるような一節です。平田さんは、こうした考えを、「協調性」に変わる「社交性」と呼んで、「好むと好まざるとにかかわらず、国際化する社会を生きていかなければならない日本の子どもたちに、より必要な能力」の一つとして位置づけています。平田さんが使っている「共有する」という言葉はparticipateともshareとも訳せる言葉です(もちろん翻訳によって生まれた言葉なので、その逆なのでしょうが)。「共有する」ために「発信」し参加しなくてはならず(particiapte)、「共有する」ためにお互いの話を「聞き」「察し合う」ことが必要です(share)。そして、commnicateという英語にも「共感する、わかりあう」という意味があります。「共有する」を広げるために「共感する、わかりあう」ことが必要だ(communicate)ということにでもなるでしょう。

 『理解するってどういうこと?』第7章に書かれているキーンさんの家族のエピソードが伝えているのも、まさにこのことなのです。対話は、参加し、察し合い、共感し、わかり合うために重要な、さまざまな理解の種類の一つなのです。対話するからこそ「共有する部分を見つけて、それを広げていくことならできるかもしれない」のです。

それは「コンテクスト」を見つけていく努力にかかっているとも平田さんは言っています。平田さんが「コンテクスト」と言っているのは、通常の「文脈」「場面」という意味ではなくて「『その人がどんなつもりでその言葉を使っているのか』の全体像」ということです(『わかりあえないことから』161ページ)。私は、これがあるから「察し合う」(これも、平田さんが大切な能力として指摘していることです)ことが可能になると思いますし、文章や絵の意味をつくり出すことができると思います。

そういえば、『理解するってどういうこと?』の第4章「アイディアをじっくり考える」でサラという小学校の先生はエドワード・ホッパーの『早朝の日曜日』をみて、何も起こらないから全然何もわからないというような意味のことを言っていましたが、オードリーという先生と対話することで、この絵の意味をつくり出す方法を手に入れて、対話が終わるころには最初の頃とは真逆に、『ある日曜日の朝』ではいろいろなことが起こっていて、みるのがおもしろくなったと言っています。彼女は『早朝の日曜日』でホッパーがどんなつもりで描いているのかの全体像を察することができて、つまらないと思っていた絵をおもしろくてたまらない絵だと思えるようになったのでしょう。エリンさんの家族がお互いの魅力をお互いの言葉から感じとり、察し合い、ゆたかに暮らしているように。ホッパーの絵の解釈も対話による相互の理解も、すべて「わかりあえないこと」から始まっていたのです。

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