2024年10月12日土曜日

フィクションを書く 〜ライティング・ゾーンを知っている生徒たち

【書いているプロセスが幸せ!】

 圧倒的な充実感を何とか伝えようと、両手を大きく広げながら話し、話している間に、手の間隔がどんどん広がっていく。中学生のグレイソンは、フィクションを書いているときの自分を伝えようと、目一杯の身振り手振りで、次のように語っています。

「フィクションを書くとき、頭の中はいろいろなトピックを探求している。これまでに観た映画とか読んだ本とか何か他のこととかを、結びつけながら、アイディアが出てくる。書き始めると、脳がこんなに大きくなっていく(手を使ったジェスチャーで大きさを示している)。書き続けていくと、どんどん大きくなっていく(ジェスチャーがさらに大きくなる)。それは、もっとたくさんの言葉やアイディア、この作品をもっと良くできることで、脳がいっぱいに満たされていくから」

 上の描写は、ニューハンプシャー大学でライティングを長年教えたトーマス・ニューカーク(Thomas Newkirk)氏による、フィクションを書くことについての本『Writing Unbound: How Fiction Transforms Student Writers』(Heinemann, 2011)の112ページに出てきます。(また、以下のページ数も、この本のページ数です。)

 フィクションを書くのが好きな他の生徒は、「外の世界から得た情報をすべて取り込んで、混ぜ合わせ、マッシュアップして、自分だけのものを作り上げるんだ。その世界で、何が起こるのかを決めるのは自分だ」(111 ページ)と言っています。

 本の世界に入り込んで、読むことに没頭する状態であるリーディング・ゾーンがあるように、ライティング・ゾーンに入って執筆に没頭する生徒たちもいます。ある生徒は、「書いているときは本当に幸せだったけれど、完成するまで自分がどれだけ幸せだったのかわからなかった」(43ページ)と、フィクションに取り組む時間自体にも大きな魅力がある様子が伝わってきます。

【読み書きにおけるフィクションのギャップ】

 教室の図書コーナーにはフィクションの本が溢れていても、教室で生徒たちがフィクションを書く時間は、あまり多くないかもしれません。

 それは、教師自身、フィクションを書いた経験が少ない、生徒が書こうとするフィクションは質の低い娯楽作品の真似になる、経験の浅い書き手は作品の筋をうまく作れず、計画性のない、やたら長い作品になる、暴力シーンなど好ましくないテーマを書くことへの懸念がある、大学進学や自分のキャリア形成を考えている生徒にはフィットしないように感じる(4-9ページ)等、いろいろな理由がありそうです。

 またフィクションを書く時間があっても、制限が多い場合もあるようです。「暴力シーンを書くのは禁止」みたいなルールがあったり、中には、「学校で禁止されていることは、フィクションの登場人物は行ってはいけない」(!)という教室まであるそうです。生徒が読むフィクションには、一定の暴力シーンが登場することがあるにもかかわらず、です(6ページ)。

 教室でのフィクションの扱いについては、読むことと書くことにおいて、使う時間も、制限の度合いも、かなりの差が生じているようです。

【邪魔なフィルターだらけ? 開かれた自由な場が少ない教室でのライティング】

 ニューカーク氏によるこの本は、多くの生徒たちへのインタビューが土台となっています。フィクションを書くのが好きな生徒たちのライティング・ゾーンは、自由で開かれた場のようです。しかしながら、それは「教室の外」にあることが多い!のです(43ページ)。

 ニューカーク氏は、フィクションを書くのが好きな生徒たちへの、ほぼ全てのインタビューで中心的なテーマとして出てきたのは、決まったやり方、評価基準であるルーブリック、成績評価、他の生徒との比較などが存在しない、開かれた場(open space)への渇望だったと指摘します(44ページ)。 

 「先生が何を求めているかは分かっている」けど、「設定、キャラクター、プロットなど、フィクションの書き方に関するルーブリック(評価基準)を与えないで!」(117ページ)という生徒もいます。

 「徐々に」責任を移行していくモデルではなくて、「直ちに」責任を生徒に渡して!("immediate release of responsibility")と言う生徒もいます。教師が決めた線路の上しか走れないのはやめて、ということのようです(46ページ)。

→ 教師は、フィクションを書くことを"助ける"ために、あらかじめ決められた図などに書き込むことで準備させたり、物語の構造を指定したり、評価基準となるルーブリックを提示したりすることもあるかと思います。でも、生徒にとっては、それらはライティング・ゾーンに入る邪魔になっていると感じることも少なからずあるようです。

 教室の生徒が読者になることすら、邪魔な「フィルター」と感じている生徒もいます。

 エヴァは、「学校で何かを書くと、それが誰かに読まれることがわかっていて、完璧なものにしなければならないとか、みんなに納得してもらわなればならないとか、そういう心配のようなものを感じる」(107ページ)と言います。エヴァは教師については、「生徒がクリエイティブであるかどうかや、与えられた課題に沿っているかどうかについて、教師自身の意見を持ち込む」、また、「同じ学校の同じ年齢のクラスメートと比べる」ことなどから、自分の読者として最適かどうかは、疑問だと考えています(107ページ)。

【教師がより良い読者になるためにできること?】

  イーサンは、担当のリーフ先生(Linda Rief)を、自分にとって、助けになる読者として受け入れているようです。それは、自分がホラー小説を書いているときに、「他の教師だと、『他には何が起こりうるかな』とか言って、違う方向に導こうとするが、リーフ先生は、いつも、自分が書こうとすることをサポートしてくれる」からだと言います。そして「教師は、自分の意に沿わないかもしれない作品についても、読む準備ができていて、教師が大いに気に入っている作品を評価するのと同じように、自分の好みに合わない作品も評価できる」ことが必要だと言います(120ページ)。

→ そういえば『ライティング・ワークショップ』のカンファランスのセクションに、「教師自身の傾向や好みを知る」というセクションがあり、そこに以下のように書かれています。

「それぞれの教師は書かれたものについて様々な好みを持っています。[中略] 教師の好みを超えた範囲で書かれた子どもたちの作品の価値を偏りなく評価するためにも、教師は自分の傾向や審美眼を認識しておくことが重要になります」(『ライティング・ワークショップ』78ページ)

 ニューカーク氏も、「ルールやルーブリックの項目に従っても、それらは限られた狭い視野でのことなので、何も新しいものは見えない」と言います。せっかく、生徒が自分なりの新しい世界を作りあげていても、もともとある項目ありきで、生徒の作品をその中に無理やり入るように眺めているわけです。それを防ぐためには 教師は注意力 (attentiveness)が必要で、「私たちが注意深く、テキストの中の瞬間、テキストの斬新さ、生徒の特異性に完全に心を開いていれば、教師として前に進んでいける」(116ページ)と言います。

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 こうやって見ていくと、フィクションを教えることは、教師にとっては、面白いチャレンジになりそうな気がします。つまり、「書き手の意図を理解した上でのカンファランス」「それぞれの書き手の個性に気づく」「自分の好みを超えた範囲で作品の価値を偏りなく評価する」などは、どのジャンルの作品を教えるときにも心に留めておきたいことだからです。それらを教師に、よりはっきり教えてくれるのが、フィクションのように思えます。

2024年10月4日金曜日

フリーライティングを試してみよう!

 東京都の公立中学校で「科学者の時間」を中心に据えた理科を教えている井久保大介先生が、原タイトルがWriting without teachers(教師のいらない/いない方がいい書く指導)という本の書評を書いてくれましたので、紹介します。

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 文章を書くことが苦手だと思っている人がいたら、『自分の「声」で書く技術――自己検閲をはずし、響く言葉を仲間と見つける』(ピーター・エルボウ著)で紹介している「フリーライティング」という手法を試してみてください。フリーライティングとは、紙とペン(もしくは無題のドキュメントとキーボード)を用意して、10分間、頭の中に浮かんだことをとにかく書いてみる、という手法です。そのとき、文法の間違いや意味の分からない文を修正したりする必要はありません。とにかく思ったことを、ただひたすら文章にするという練習です。それではこれから10分間、私がフリーライティングをしてみます。(長くなるので最初の5分だけ載せます。)


フリーライティングっておもしろい。なんだか体と手がつながったみたいだ。書くということはとても身体的なことなのかもしれない。というか手で書いているわけだから身体的だ。でもなんだか書き方を教わるときって、頭で書けと言われる。もしかしたら頭で書いていないじゃないだろうか。いや、頭も身体だとすれば、すごく全体的な行為なのではないだろうか。そもそも心を体を分けて考えること自体、すごく西洋的、というか医学的?な考え方なんだろうか。おなかがすいた。おなかがすくというのも身体的だ。これも心で感じているけどその大元は体にある。おなかがすくっていうのもすごく面白い感覚だ。だって胃の中を視覚的に見ているわけではないのに、なんだか感覚的にすいているという気持ちになる。もしかしたら、他の人のお腹すくという感覚って違うんじゃないか。ひとそれぞれ?だから文字を書く時のからだの動きって人それぞれちがうんだろうなあ。みんなもやってみればいいのに。やってる人とやってない人では書くという行為のとらえ方が全然違う気がする。そういえば体と心を一緒にして呼んでいるような人がいたような。。。「こらだ」とか。誰だっけ?医学のひとだっけ?覚えていない。。。教育学のデューイも探究したいときってお腹がすいたような感覚だって言ってたような。体は不思議だ。おなかすいたー。


 このように、10分経った後には、自分が考えていたことが活字として目の前に現れます。もちろん、改善の余地がたくさんある文章が出来上がります。ただ少なくとも、自分は文章を書けないのではなくて、書けないと思わせる何かがある、ということに気づくでしょう。

 私がフリーライティングをやってみたとき、自分がいかにいろいろな制約を受けながら文章を書いているかに気づかされました。そして、文章を書けないように制約を課しているのは、何を隠そう自分自身だったのです。その制約はどこからやってきたものかといえば、おそらく自分が受けてきた教育が根っこにあるような気がします。文法だったり修辞だったり、文章をうまく書くために自分が学んできたことが、皮肉にもかえって制約になっていたのです。うまく書こうとするほど、自分の書くスピードと思考の幅をどんどん制約しているのです。

 同じようなことが私の教えている理科でも起きている気がします。理科は科学的に思考する方法を一般化して、それを授業で教えるために、教師はあれやこれやと試行錯誤します。実験には目的が大事だ、予想をしなければいけない、実験の結果を表やグラフにして、考察は結果を根拠に書かなければならないなどなど。教師が大事だと思う科学的な思考のプロセスを教えようとすればするほど、子どもたちは自分がこれまで培ってきた好奇心や探究心とはかけ離れた方向に理科の授業を認識してしまうのです。子どもたちは、自分たちの好奇心や探究心を開放すれば、自らどんどん学ぶことができる存在です。子どもたちは対象に触れたり遊んだりしながら、無意識の中でこうしたい、ああしたいと目的を持ち、どうなるか予想をわざわざ立てなくても推論して試し、膨大なトライアンドエラーを繰り返して遊ぶことで、対象を認識していきます。子どもたちはもともと科学者です。科学的な思考の素地をすでにちゃんともっているし、いつも科学者のように、そして探検家、芸術家のように遊んで学んできているのです。その素地を生かさないように学べと教えるのが、学校で学ぶ理科の授業であったとしたら皮肉なことです。

 文章を書く、という行為に置き換えてもそれは言えることです。私たちは普段から無意識に言葉で考え、頭の中は膨大な言葉であふれては消えてをくりかえしています。その中からほんのごく一部を選んだ言葉を使って話をします。それは子どもも大人も同じです。その考えていることを形として文字に表せば書くという表現は容易なわけです。おそらく、もともと誰もが作家であるはずなのです。しかし多くの人が、自分の頭の中の言葉を無意識に自己検閲することによって、書くという行為にまで至らないのです。その状態を、頭に文章が浮かばない、だから私は書けない、と認識しているのです。

 それはまるで、作家である自分とは別に、自分の言葉をいつの間にか勝手に添削する編集者と、思い浮かんだ考えを手厳しく評価する批評家が頭の中に同居しているような感じでしょうか。どちらも私の分身である編集者と批評家の声によって、作家としての言葉を失ってしまうのです。

 自分の言葉で書けるようになるということは、自分の分身ともいえる編集者と批評家の声とどううまく付き合えるようになるか、ということなのではないでしょうか。そのなかでも、いったん彼らの声に耳を貸さずに、生まれてくる言葉をそのまま書くためのトレーニングが、フリーライティングという手法です。

 まずは10分間、ペンかキーボートを手にとって、書き始めてみてください。絶対にスラスラ書けますから!