2010年11月26日金曜日

こんな共有の時間の使いかたは、いかがでしょうか?

 みなさんはWWの最後の時間の共有の時間は、どのように使われていますか?

 やはり、定番の作家の椅子に子どもが座り、現在、取り組み中の作品を発表する。
それについて、質問やコメントをもらったりする。それが多いのでしょうか。

 共有の時間で、どういうふうに質問やコメン トしたらいいのかも学べますね。

  『ライティング・ワークショップ』 26-29ページを見直していて、上
のような感じの共有の時間、改めていいなあと思います。

 最近、リーディング・ワークショップ(RW)の本の中で共有の時間について読ん
でいて、以下のような共有の時間も、学年やクラスによっては、時には悪くないか
も?と思いましたので、書き込んでみます。

(なお今日参照するRWの本の出典情報は、このブログ の最後に書きます)。

 WWを実践されている人の中には、RWを実践されている人も多いと思います。

 RWをされている人は、共有の時間をどのようにもっておられますか?

 私は、「その日に読んだものをみんなに紹介する」という時間として使うことが、
時々あります。

 今日参照しているRWの本でも、その本の著者たちは、以前はRWの共有の時間を、本の紹介に使っ
ていたようです。

 しかし、本の紹介だけだと、明日以降の読みにつながるスキルや効果的な読み方を
学べない、と思ったそうです。

 そこで、現在は、読み手としての子どもたちに焦点をあて、例えば、読んでいて混乱
したこととか、今日うまくいった効果的な読み方とか、そういう読み方に関わること
を共有で取り上げるようです。

 ひたすら読む時間に、子どもたちをよく観察して、例えば

「読んでいて、全く分からなくなった人はいますか? そのときのことを教えてくだ
さい」

 みたいな質問をするようです。

 そしてその質問について、みんなの考えを共有する。

☆ 共有の時間を「本を紹介する時間」から、上記のように、「読むことについての
具体的な質問を出し、その質問についての皆の考えを共有する」ことに変えること
で、「共有の時間から、明日以降の読みにつながりそうな読み方を見出せることがで
きる」ということです。

→ さて、RWからWWに戻ります。

 上をWWに応用すると、共有の時間で「書くことについての具体的な質問を出し、
その質問についての皆の考えを共有する」ことを加えることで、「共有の時間から、
明日以降の書きにつながりそうな書き方を見出せることができる」ということになり
ます。

 たとえば作家の椅子に座った子どもにみんなが助言やコメントをする。

 そして、いつものそのような共有の時間のあとに、その子の持っている書くことへの課題を
「その子のその作品にしか使えないこと」から、「より一般化した、他の子どもの他の作品にも応用可能
なトピック」に先生が言い換えて、そのトピックについて、みんなの意見を共有す
る、そんな時間はいかがでしょうか。

 例えばある子どもが共有した、ある作品に終わり方について、みんなが質問したり、コメントをし
たりします。

 その後で、「自分あるいは他の人の書いた作品で、いいな、と終わった終わりかた
には、どんなものがあるのかを出してみよう」みたいな共有です。

 「ユーモアで終わる」、「質問で終わる」等々、その作品に限らない終わり方がいろいろ出ることで、明日以降
の書くことに使えそうなことが出てくるのではないでしょうか?

 また、そこで出たことを模造紙に書いて貼っておくと、時々、それを参照する子どもも出てくる
のでは?

 上のようなことを、RWの共有について読んでいて、WWに応用可能では?と思いました。

(上の、リーディング・ワークショップの共有についての箇所は、Day-to-Day
Assessment in the Reading Workshop: Making Informed Instructional Decisions
in Grades 3-6
 (Franki Sibberson, Karen Szymusiak) Scholastic Prof Book
Div (2008/03) 155-157ページからです。 )


2010年11月21日日曜日

「自立した書き手を育てる」 vs. 「作文嫌いを克服する」

 「作文嫌いの克服」というタイトルで、書かない子/書けない子へのサポートの事例を見つけました。(http://www.ilec.jp/data/essay_bn/essay_060.html)

 『ライティング・ワークショップ』や『作家の時間』がとっているアプローチとは随分違うな~、と思いました。「作文嫌いの克服」アプローチは、作文という課題を与えられて書くときの対応にはなるかもしれませんが、自分から進んで書く/自立した書き手になることは最初から考えていないようで...もちろん、90分二回という時間制限の中での試みですから。

 あなたなら、同じ時間制限の中だったら、どうしますか?
 さらには、時間の制限自体があることをどう思いますか?
 子ども(たち)に、「自分から進んで書く/自立した書き手」になってもらうために何をするのがベストだと思われますか?

 どうも、方法論の良し悪しよりも、そもそもの目的の設定が問われているようです。
 このことは、作文/書くことに限らず、読解/読むことや聞くこと・話すことの国語の他の領域はもちろんのこと、すべての教科・領域に言えることのような気がします。
 要するに、最初のボタンの掛け違えの問題です。それがズレていては、あとでどれだけがんばっても、目的を達成することは至難の技ですから。

2010年11月19日金曜日

書かない子をどうサポートするか (3)

10月8日10月22日に続いての3回目です。

⑨(教室ないし学校の)外に出て、自分が興味・関心が持てる題材をリストアップする。
作家・詩人・ノンフィクションライター・ジャーナリストたちは、観察することからスタートします。好奇心をもって、普通の人が見逃してしまうようなことに注意をして、書く題材を集めています。何の変哲もない日常に起こっていることが、見方を変えるととてもおもしろいことになります!!
私自身、俳句(というよりは川柳のレベル)や詩を書き始めてまだ2ヶ月経たないのですが、外に出た時の方が部屋の中にいるときよりも、いろいろなことが思い浮かびます。「書くことは五感が大切なんだ」ということに、改めて気づかせてくれています。

⑩ フリー・ライティング★
滑らかに、スムースに書けるようにするための練習です。
書けない子たちは、まだぎこちない状態にあります。「自分は書けるんだ」というイメージがまだないからでしょう。それを崩すためにも、スムースに書けているイメージを自分のものにすることが大切です。
最初は、5分から。徐々に伸ばしていき、ゆくゆくは30分ぐらい書けるようにします。

フリー・ライティングをする際に
◆ すること
・ リラックスする。
・ とにかく書く。止まらない。
・ なんでも頭に浮かんだことを。
・ 書いたことを共有したいかどうかは、個々人の判断。
◆ してはいけないこと
・ 考える。(→筆=鉛筆に考えさせる!)
・ 計画したり、自分を批判する。
・ 修正する。
・ 言語事項や文法や漢字の間違い等は考える。
・ 誰かに邪魔される。(→気が散らない環境に自分をおくことの大切さ)
・ 止まって考える。

とにかく「止まらない」のがポイントです。書くことが浮かばない時は、「書くことがない」や「わからない」や「浮かばない」や「......」などを繰り返し書き続けます。

同じ方法だけでやり続けないで、バリエーションも大事です。たとえば、
・ 通常のやり方で、テーマをいろいろ変える。
・ 教室や学校の外に出てやってみる。
・ 体験したことについて、共通のテーマで書く。

多様な作品(というよりは、下書き)がたくさんできてくるので刺激になります。「こんなんでいいんだ!」という感覚を持ってもらうことが、フリー・ライティングの目的です。

ちなみに、⑨と⑩は書ける子や書ける大人も使っている方法です。

★ これは、Peter Elbowという人が、彼これ40年ぐらい前に開発した方法です。
なお、フリー・ライティングもWWも、筆に語らせるアプローチを大切にしています。私たちが作文や小論文等で習ったのは、題材が決まったら、次の段階で「構想を練る」ことでしたが、フリー・ライティングやWWではそれをしません。書くことがあらかじめ決まっていては、書く最中になんの発見もないからです。ある意味では、書くことがすでに決まっていることを単に書き出すだけ、というのは書くことを億劫にする要因にもなります。WWの「下書き」やフリー・ライティングでは、書きながら自分の頭の中からどんなことが浮かび出してくるのかを楽しみながら書きます。もし、書いた内容が気に入って、「出版」までもっていきたいと判断した時は、「修正」の段階で、読み手にわかりやすいように再構成すればいいわけですし、「校正」することで読み手に読みやすい文章にすればいいわけですから。
フリー・ライティングが紹介された本は、『Writing Without Teachers』と『Writing With Power』の2冊です。(http://www.geocities.jp/deepbreathinghp/freewriting.htmを参照)

2010年11月12日金曜日

自分もメンター?

 メンター(師匠のような人)から学ぶ、これはWWの学びのポイントの一つだと思います。

 さて、子どもたちにとってメンターは? と言われると、まずはプロの作家(の作品)が浮かぶ人も多いのではないかと思います。

 つまり、メンター・テキストです。WWでは教えるのは先生だけでない。世界中の
すべての作家が先生になりうる、ということです。(7月30日10月1日に扱いました。)

 メンターは、世界中のプロの作家だけではありません。もちろん、教室の中にいる人、つまり先生や他の子どもたちもメンターになれます。

 今回、In the Company of Children という本を読んでいて面白いなと思ったのは、 「自分自身もメンター」ということを、WWで教えることでした。

 
「自分自身もメンター」とはどういうことなのかと言いますと、自分が書き手としてよくできている点に気づき、 そのよくできている点を基にして、書き手としてさらに成長するということです。

 子どもたちは、自分の書き手としてのよくできている点に、自分では意外に気づいていないようです。

上の本の著者Joanne Hindley 氏は、時々、それぞれ自分の作家ノートを見て、自分の書き手として優れているところ、誇りに思えるところを見つけるように言うそうです。

 見つけたあとには、どうしてそこを選んだかも書いてもらうそうです。

 これは、自分の書いたことを、違う視点で読み直すということでもあります。

 自分がよくできていることを見つける・気づくことで、達成感を持って、自分の書い たものを見直すことができますし、そこから将来書く作品にも、再度使いたいという 作家の技に気づくかもしれません。

 また、自分の書いたものを見直すことで、そこから、さらに将来へのプロジェクト (例えば、ある作品を書き直すとか)が出てくることもありそうです。


 さて、自分自身がメンター、ということからは少し離れたことも、以下、書き込みます。

 書いたものを見直してよくできている点に気づくというのは、もちろん、クラスメイトの書いたものを見るときにも使えます。

 クラスメイトだけではくて、時には学年を飛び越えて行ってもいいかもしれません。

 上の本で、Joanne Hindley 氏は、3年生の子どものクラスに6年生に来てもらうという 活動も紹介しています。

 6年生の子どもは、3年生の子どもに読んであげる箇所を自分で選び、なぜ、そこを選 んだのかを話します。

 また、3年生の子どもには、その6年生が書いたものを配り、「うまく書けていると思う点に下線をひいて、なせ、その箇所を選んだのかを書いてもらったりもしています。

 そして6年生の子ども(メンター)から学んだことで、(3年生の)自分の目標にできることをみつけてもらったりもしています。たとえば「細かい点の描写がちゃんとできるようにな りたい」などがでてきています。

 以上、Joanne Hindley著、In the Company of Children 
Stenhouse 1996)、 34-39ページを基に、紹介しました。

 なお、ここ何回か、ブログに書き込むと、迷惑メール扱いになって、メルマガに配信されないことが続いていました。ハンドルネームを変えてみたら?とご助言をいただき、今回、akkr より graphyに変えました。これでうまく送付できるといいのですが。

2010年11月5日金曜日

いい本は少なくとも2回楽しめる

 今朝、通勤のとき、地下鉄の乗換駅に到着したのに気づきませんでした。幸い、人が多く降りる駅だったためか、発車間際に気づいて、慌てて下車し、無事、乗換ました。

 乗換駅から注意が逸れていたのは、『ライティング・ワークショップ』(新評論、2007年)の共著者の一人、ラルフ・フレッチャー氏が書いた 
Walking Trees という本をパラパラ読んでいたのですが、途中から、その本にすっかり引き込まれてしまっていたからです。

 今朝、読んでいた本は、フレッチャー氏が書くことを、子どもたちと先生に教えた(具体的にはいろいろな学校に実際に行って実施した教員研修)1年(1985−86年)について書かれたものでした。

 なぜ、最初、パラパラ見ていただけの本に、電車の乗換駅を乗り過ごしそうになるほど、途中からこんなに引き込まれてしまったのかを考えてみました。

 いくつか思い当たる点を書いてみたいと思います。

○ 文章構成の上手さ、特に構成の順番

 ある章は、なんと「死」についての章です。子どもたちが死についてどういう態度で、どのように考え、また、死について書くことでそれを理解しようとしていること、などが子どもたちの作品からみえてきます。

 まだ小さい子どもたちが、父親の自殺や祖父が射殺されたことなどを書いています。子どもたちの直面している、かなり深刻な現実も見えてきます。

 でも、この章の最後は、少しユーモアをまじえて死を扱っている子どもの話でしめくくられています。しかもその子どもが、他の子どもと、その作品についてしっかり「書き手同士」の会話もしているのです。

→ この章で登場する作品やそれにまつわる話の順番が変わるだけで、この章から受ける印象は、かなり違うものになると思いました。

○ 事実の切り取り方(あるいは選択)の上手さ
 
 同じ章で、赤ちゃんの弟がなくなったことを書いた子どもの作品に、先生が大きく上に赤で GOOD! と書いていることが紹介されています。

 フレッチャー氏は、先生に「こういう作品に先生が、GOOD! と書くこと」に疑問を投げかけています。

 先生は、この子どもが今まで書いた作品と比べても、これは「よく書けている」点を評価しているのですが、フレッチャー氏は、まずこの作品を書いた子どもの気持に寄り添っているのがよく分かります。

 このように実際に教師が行ってしまったことが正直に書かれています。

 これは、他の教師だけでなくて、フレッチャー氏自身も、自分の教員研修者としての、うまくいかない点や現実も書かれています。

→ いいことだけを書いているわけでもないし、悪いことだけを書いているわけでもないし、その切り取り方と量と質がとてもいいのです。

○ 題の付け方が上手い。

→ 単に読者をひきつけるだけでなくて、氏の言いたいことが、その題に象徴されていることが、最後の章をつかって説明されています。

○ やはり、終わり方が上手い! です。

*****

 と、ここまで書いて、
今日の題に書いた「いい本は少なくとも2回楽しめる」ということを考えました。

 もちろん、一回は読み手として。

 もう一回は、書き手として、です。

 後者ですが、子どもたちに「大好きな本」を挙げてもらって、「その大好きな本」を書き手の目から見て、いいところを考えてもらう、というのも、WWで、時には行ってみるのもいいのでは? と思いました。

 もちろん、いいところを考えるときに、ジャンル別に分けてもいいと思います。

 もし、同じ本を好きな子どもが複数いれば、「書き手として一緒にその本を眺めていいところを考える」ことをしてみると、きっと違うポイントも出てくると思います。

 「あ、あの人はこんないい点に気付いていた」と、複数の目でみれることは、書き手だけでなくて、読み手としての成長にもつながるように思いました。

*****
なお、上に書いたことの出典情報は以下です。
Ralph Fletcher著 Walking Trees、 Heinemann, 1991
詩についての章は139-154ページ、題について説明している章が201ー215ページ、そして見事な終わりはエピローグ217−222ページです
*****

 余談です。このブログを書いていて、フレッチャー氏の上手さの一つに、「終わり方がある」と思いました。

 各章の終わり方だけでなく、本全体の終わり方も見事なのです。素晴らしい着地です。

 着地が決まってから書いているのかな?と思えるぐらいです。どうやってこの見事な着地を決めたのかと、興味津々です。

 しかし、着地の見事さに気付いたからといって、すぐにそれが使えるーー(例えば、このブログでいい着地ができる)わけでもありません。このあたりは、「スキーの滑り方」のビデオを見るだけでは、滑れないのと同じなのかもしれません。

2010年11月1日月曜日

Nさんの作品

みなさんこんにちは。岩瀬です。
WWの実践、その後いかがですか?

さて、このWW便り、ボクもこれから発信していこうと思います。
よろしくお願いいたします。

さて、ボクのクラス(小4)の「作家の時間」。

この日作家のいすに座ってくれたのは、Nちゃん。
読者である子どもたちに大人気の作品となりました。
どのあたりが人気の秘密だと思いますか?
皆さんがカンファランスするとしたら、どんなところをほめますか?
どんなところにアドバイスしますか?

ちなみに最近のミニレッスンでは、あまんきみこさんの

「車のいろは空のいろ」

をみんなでブッククラブで読んだので、その本を使いました。

あまんさんは登場人物の心の中の呟きを(   )で書きます。

それを扱ったので、きっとNさんはそれを多用しているのだろうと推測しています。


ボクは、Nちゃんのこの作品が大好きです。

ではお読みください!



                   *   *   *


「え”-!!」

今日は土曜日!!私は友達と遊ぶ約束をした。

○○くんと△△ちゃんだ。○○くんとは、5年生にいる○○○○くんのこと。

△△ちゃんは、1年生のときに私の小学校にいた友達。

遊びは虫取り。森の中で虫を探す。

なんて盛り上がっている場合じゃない。

私は昔から夏に森で虫取りするのが大嫌い!

理由は、「カ」にはさされるし、たまにオオスズメバチがでるし、へんなちっさい虫は大群でとびまわっているからだ。

ぜったい森なんか入りたくない。

でも行かなくちゃいけない。集合する時間になってその場所に集まった。

集合場所にいくとちゅうで、私はこう思った。

「なんで森ー!?林でいいじゃん」

私の一番きらいな森のパターンは、うっそうとしているジャングルみたいな暗い森。

そして私たちは自転車に乗って森へ向かった。

向かっている途中で、私はこんなことを考えていた。

「うあーじごくの森がどんどん近づいてくるー。サイアクじゃん。」

こんなへんなことを思いながら、道路わきを走っていた。

「ねー林じゃだめなの?」

「だめにきまってるじゃん。だって森じゃないとかぶとむしとかいないもん。あ、ついた」

私は森を見てホッとした。その森は人もけっこういて、虫もあまりいなそうな森のような公園だったからだ。

そのとなりには、ジャングルみたいなお墓のある、すごくコワイ森があるからだ

私はよかったーと思いながら、森みたいなよくわからない公園に向かって歩いていった。



そうしたら、○○くんがこう言った。

「どこ行くんだよー森はあっちだよ!」

と言っておはかのあるコワイ森のほうをゆびさした。

そして私はこう言った。

「エーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!」

そうしたら次は△△ちゃんが言った。

「当たり前だよー。だってあんなに幼稚園生とかちっちゃい子がいるところに、4年生がいたら変じゃん。

 もしそこにうちらが入ったら目立つよー!。てつ、行こ。」

△△ちゃんは○○くんのことを、「てつ」と呼ぶ。私もよく「てつ」と呼ぶ。

でも今はそんなこと考えている場合じゃない。

○○くんと△△ちゃんがコワイ森に入っていく。

「ねー、もう早く来ないと先いっちゃうよ!」

私はいやでいやでしかたがなかった。

だってこんなところ、1回も入ったことがないところだったんだから。

(おそろしい・・・・)

と私は思う。

でも○○くんと△△ちゃんが、

「早く来てよ!」

っとうるさく言うので、しかたなく、恐ろしい森へと入っていった。



私は森の前で少しだけ立ち止まった。

でもあとの2人は、すんなりと森へ入っていく。

(意味がわからん・・)

森へ私も入っていった。

となりの公園には、たくさんの楽しそうな子達の声がいっぱいひびいているのに、私たちが今いる森はしんとしている。

(せめて、光でもさしこんでくれればいいのに)


私はたくさんならんでいる木をみながら○○くんと△△ちゃんについていった。そのとき。

「ぷーん ぷーん」

なんと、私は大っきらいな、ちっさい変てこな虫の大群の中にいた。

2,3秒たつと虫の大群はにげていった。

(逃げたいのはこっちのほうだ!)

私は思った。


そしてまた森の中を私たちは歩いていった。

そしたらなんかの昆虫がひっくり返って、身動きがとれなくなっている。

私はその昆虫をもとどおりにしてやった。

その虫はうれしそうにどっかに消えていった。

でも私はぜんぜんうれしくない。

だってさっきひっくり返っていた虫はゴキブリだったから・・・・

つまりそのゴキブリをもとどおりにしてやったとき、私はゴキブリのおなかをさわっていたことになる。

(なんかわるいことやったかなー。バチがあたったのかなあ)

ゴキブリを・・・・



            *  *  *


WWのミニレッスンで、今までのクラスの子の作品を読み聞かせすることもあります。

同年代の子が書いた作品、というのはとても刺激になるようです。

機会があったらこの作品もぜひクラスで読み聞かせてみて下さいね。


ではまた!