山本史郎さんの『翻訳論の冒険』(東京大学出版会、2023年)の第9章では関連性理論(特定の情況を背景とした発話者の「意図」と関連づけながら発話の「意味」を説明する理論)を使いながら「翻訳論」が論じられていて、大変面白く読みました。山本さんは「明意」(言語表現どおりの意味)と「暗意」(暗に意図されているもの)という概念を使いながら次のように述べています。
〈人間は発話された文の明意から、その時々の想定の中で推意を行って暗意に到達する。この暗意こそが「発話の意味」であり、それに達するのが人間の「理解」であるということになる。その際、計算がもっとも適切な形で(すなわち頭脳的コストが必要以上にかからずに)できるような情報・状況(すなわち関連性のもっとも高いもの)が選び出されることになる。〉(『翻訳論の冒険』107ページ、下線は原著のまま)
これは、誰かが書いたり、話したりしていることを「理解」する上でも重要な考え方であると思います。理解するということは、相手の話している言葉の表層だけを把握することではありません。文章や話のなかにその言葉や言い回しがなぜ選ばれているのか、その表現を選んだ著者や話者が何を伝えようとしているのかということを考えていくことです。
『理解するってどういうこと?』の第5章にある「読み・書きを学ぶ際の主要な構成要素」(表5・2)では三つの「表面の認識方法」と三つの「深い認識方法」が示されています。私はこの三列の上下が対比の関係になっていると考えます。「構文の領域」(表面の認識方法)と対になっているのは「優れた読み手・書き手になる領域」(深い認識方法)です。二つの説明の部分を下に引用します。
〈構文の領域―単語、文、段落、本や文章全体のそれぞれのレベルで言語構造を理解し(たいていは聴覚的に)、使用する(表2・3dを参照)。〉
〈優れた読み手・書き手になる領域―読んだり学んだりしたさまざまなアイディアに伴う多彩な経験。意味の共有と応用。話したり、書いたり、描いたり、演じたりといった手段を通して意味を組み立てること。特定の目的と聞き手・読み手に向けて書く。他の人とやりとりしながら考えたことを修正する。優れた読み手と書き手の習慣を使ってみる。〉
(ともに『理解するってどういうこと?』167ページ)
もちろん、意味を共有したり応用したりすることが大事だからと言って、「表面の認識方法」をまったく無視してしまっては「深い認識方法」が使えるようになる手前で理解することを諦めてしまうことになるかもしれません。だからと言って「表面の認識方法」に時間をかけすぎてしまうと、自分たちが読むものがいかなる意味をもつのかということ自体に無関心になってしまいます。大切なことは、エリンさんも言っているように「深い認識方法」「表面の認識方法」のバランスをとることです。「構文の領域」を学んでいる場合でも〈少なくとも指導時間の半分は、深い認識方法の指導にあてるべきです。すなわち、指導時間全体のなかで深い認識方法の指導にあてられる時間の割合を劇的に増やすべき〉(『理解するってどういうこと?』175ページ)だということになります。
山本さんの本には、エリンさんがこのようにいう根拠になるようなことが次のように述べられています。
〈すべて発話というものは、心に浮かんでいること、すなわち心の中に成立している表示(英語で言えばthought)を、言語による表示に展開する行為であるからだ。つまり、「思い」を言語化するプロセスは本質的に「表示の表示」であるということになり、これはすなわち「解釈的な」プロセスにほかならないのである。〉(『翻訳論の冒険』115ページ)
たとえば「構文の領域」を学ぶことの繰り返しでは、「発話」の表面的な言語表現そのもの(明意)を捉えることが「意味」を捉えることだというふうに、学習者は考えてしまうのではないでしょうか。そうなってしまうと、読むことや理解することの面白さを実感することはかなり難しくなります。だからこそ、山本さんの言うようにすべての「発話」は、「「思い」を言語化するプロセス」であり、「「解釈的な」プロセス」だということを認識することが必要になってきます。英語の授業や国語の古文・漢文の授業で「口語訳」をする場合に、山本さんの言っていることを意識できるかどうかということはとても重要です。
山本さんは「翻訳」について次のように言っています。
〈翻訳とは、任意の言語による表示(原テクスト)から遡って著者の心に生じている表示を翻訳者の心に再現し、それを別の想定の集合を持った人間に対して、別の言語を用いて表示するテクスト(訳テクスト)を作る行為である。その場合、原テクストと訳テクストは同じ命題を共有しているという意味で、類似の関係にある。〉(『翻訳論の冒険』132ページ)
吉田新一郎さんとやりとりしながら『理解するってどういうこと?』の翻訳作業を通してやろうとしたことも、おそらくこういうことだったのではないかと思います。「著者の心に生じている表示」を「翻訳者の心に再現」しながらつくられたのがこの本の「訳テクスト」です。辞書を引いて英語を日本語に置き換えるのではなく「翻訳」するということは、山本さんが言うように、原著者の「発話」をも「「解釈的な」プロセス」から生み出されたものとして「理解」することなのだと思います。エリンさんも「優れた読み手・書き手になる領域」を論じた部分の最後で次のように言っています。
〈私が、「最後の章のあらすじを書き出してみましょう」などと提案することはけっしてありませんが、「その作者なら考えたかもしれない別のいくつかの終わり方をみんなで論じましょう」という提案ならするかもしれません。その小説の終わり方について、その作者ならこう考えたかもしれない、いや、そう考えるはずがないということを、1時間ばかり話し合う素敵な時間をみんなで過ごすことができるからです。このように討論したり、話し合ったりするとき、私たちは、優れた読者なら自然に、かつ本当に活用している優れた読み手・書き手になる領域を使うことで、他の人たちのものの見方を通して各自の理解を高めたり深めたりしているのです。〉(『理解するってどういうこと?』183ページ)
山本さんがご自身の「翻訳」についての考えをまとめた言葉(翻訳論)と、ここでのエリンさんの言葉(理解論)が見事に響き合っていると思うのは私だけでしょうか。あるいは、私がまだ山本さんの言葉をきちんと理解できていないところがあるのかもしれません。しかし、山本さんの『翻訳論の冒険』は「理解とは何をどうすることなのか」という問いについて考える多くのヒントに満ちており、理解についての私の考え方を深めるように背中を押してくださる本でした。理解とは何かを考えるために、私の言葉でそれを「翻訳」してみようとする勇気を与えていただきました。
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