軽井沢風越学園で先生をしている澤田さん(あすこまさん)とずいぶん昔から仲良くさせていただいていて、「作家の時間」の実践の話や学校にまつわるあれこれ、おすすめの本(私にとってレストランのおすすめメニューのような、澤田さんのブログです。)など、情報交換をしています。先日も、長野県の池の平湿原や浅間山の外輪山で雪をかき分けながら、一緒に山行をしてきました。澤田さんと振り返り話をしながら山道を歩いていると、澤田さんと僕の「作家の時間」のスタンスには違いがあることがいつも分かります。
雪を纏った浅間山 |
⚪︎一人ひとりの表現する力をつける「作家の時間」
澤田さんの「作家の時間」は、子どもたちに「表現する力をつける」ためにあります。ここでいう力とは、単純に上手に表現できることばかりではなく、意欲的に自己表現を楽しむことも含まれます。澤田さんは、自身が小学生の頃から、自分で小説を創作して、自分自身を書くことで表現することを楽しんで育ちました。言葉の中に、自分の未だ見ぬ断片を見つけ、言葉の中に、自身の表しきれない思いを込めてきました。
澤田さん自身のなかで柱となっているのは、自分は国語教師であるという矜持です。風越学園に赴任する前は国立中高一貫校の国語の先生をされていました。国語という教科を見つめ続け、その可能性を信じ、それを最大限に発揮しようと努力を積み重ねています。国語についての知識や技術、経験をストイックに修練させて、国語学習に関するアイデアの引き出しを増やし、整理整頓された紅茶屋さんの引き出しのように、ずらりと学習材がストックされています。私はその圧倒的な量に、ただただ嘆息し、彼の背後にあるこれまでの時間を思い描いて、尊敬をしています。
澤田さんの「作家の時間」は、その経験と目の前の子ども(もしくは、子どもたち)の学習に合致する国語を選び出し、ウィットに富んだデコレーションをして提供します。窓に詩を描く実践などは、澤田さんの姿勢が表れた清々しい風景だと思います。澤田さんのこれまでの国語に対する向き合い方によって、そのような豊かな学びの情景が立ち現れます。
窓からの景色に詩を描く |
https://askoma.info/2024/01/27/10000
そして、読み書きの共同体を作り、まずは自分が率先して学ぼうとする姿勢をモデルとして、そのエネルギーで共同体のメンバーである子どもたちを巻き込んでいきます。自分自身が言葉を楽しむことで、言葉の楽しさや言葉のある生き方の素晴らしさを、自身の活動をもってして伝播させていくのです。
澤田さんは本当に国語が大好きなのです。アフター登山の楽しみの一つ、ソフトクリームの山頂を切り崩しながら、ぽやっと呟いていました。「作家の時間の教師という仕事は天職である」と。
⚪︎子どもを認めるためにある「作家の時間」
一方で、僕の「作家の時間」の主眼は、「子どもを見る」ことにあります。ここでいう見るとは、子どものことを知ることでもあり、これまでの子どもを認めることでもあります。僕は、特別支援学校と保育士の両親をもち、その仕事場を垣間見ることで、「子どもって、本当にいろいろな子がいる」ことを見てきました。大学では、発達障害と診断され学校で上手く馴染めずに苦しむ子どもたちの遊びの場を作ったり、彼らの家庭教師をしたりすることで、いろいろな子どもたちの表情を見てきました。
僕の中で目指しているものは、「子どもの専門家」なのだと思います。絵を通して、遊びを通して、子どもの発達を見る専門家がいるように、僕は、子どもたちの学習を通して、子どもを見ようとします。例えば、「なぜこの子は、文字を書かないで話して表現することに拘るのだろう」と考え、その子が一番エネルギーが発揮できる学習環境を作ろうとします。また、その子が「にゃんこ大戦争」が好きと言えばアプリをダウンロードし、「カラピチのもふくん」が推しと言えばYouTubeをチェックします。(もちろん、その子たちの熱量には到底かないませんが。)そして、「カラピチ」や「にゃんこ」のチャンネルから、その子の良さが発揮できる学習を展開することができないかを考えます。子どもの内側から、子どもがどんな世界を覗いているのかを、僕も一緒に見たいとできるだけ努力をします。
残念ながら、国語に関しての知識で、澤田さんと比肩することは到底できません。しかし、澤田さんも認めてくれるように、僕自身の「作家の時間」は「子どもの見ている景色を見る」ツールとして、大きな力を発揮するように思います。
⚪︎分かち合えない「作家の時間」を分かり合う
澤田さんとは、膝まで雪に埋もれながら山道を歩いて、同じ教室という場所に立ちながら、全く違う景色を見ていることを何度も確認し、お互いに「分かち合えない空間」があることを理解します。お互いにそこだけは譲り合わないのが、あとで振り返っても笑えてくるほどに可笑しくなります。けれど、僕自身も国語という分野について少しでも研鑽を積もうと、澤田さんの今年の実践から自分ができそうなものがないかを考えますし、澤田さん自身も「もう少し子どもに興味をもとうかなー」と振り返るそうです。
それと同時に、僕たちがお互いに共感することも多くあります。例えば、「子どもに(促すことも含めて)教えること」と「子どもの今を認めること」とが、時に教師にとってアンビバレントな状態になり、自分自身を苦しめることがあるということです。僕たち教師は、右手に理想を、左手に現実を握りしめて、右へ左へ徘徊しながら、子どもにとって本当に良いこととは何かを探し続けています。それが、澤田さんはより右に、僕はより左に、軸足の重心が傾いただけであって、どちらにとっても「作家の時間」は、有効に働くのだろうと思います。
⚪︎「作家の時間」の姿を学び合う
実践者の数だけ、「作家の時間」の姿があるように思います。正しい形はないですし、自分の積んできた経験でしか呼び起こすことができない「作家の時間」があります。まずは、「作家の時間」を行う先生方が、自分自身の「作家の時間」を俯瞰して見ることができるように、お互いの実践を擦り合わせることが必要になるでしょう。そのような場を提供できたら、本当に良いと思います。
⚪︎澤田さんの新刊出ます
澤田さんは4月下旬に、中高生向けの「書くこと」の入門書、『君の物語が君らしく 自分をつくるライティング入門』を刊行予定です。軽井沢風越学園での「作家の時間」をもとに書かれた本だそうです。ぜひご覧ください。
山行の記録はこちらになります。
右手に理想を、左手に現実を、そしてウロウロと揺れながら、真ん中をすすんでいく。でもその道は自分にしかつくれない道です。
返信削除よくわかります。
すごく励みになるブログでした。
コメントありがとうございます。
削除誰も足跡をつけていない雪原に立つと、いつも目の前にあったトレースの価値に気づくことができます。けれど、自分たちにとってそのトレースが正解かどうかなんて、誰もわからない。地図とコンパスを頼りに、道って自分で作っていくんだと、雪山で考えました。
誰もトレースをつけていない雪原を見た時に感動は、計り知れないものがあります。