2024年2月23日金曜日

比べてみれば違いが見える お互いの「作家の時間」の学びの姿

 軽井沢風越学園で先生をしている澤田さん(あすこまさん)とずいぶん昔から仲良くさせていただいていて、「作家の時間」の実践の話や学校にまつわるあれこれ、おすすめの本(私にとってレストランのおすすめメニューのような、澤田さんのブログです。)など、情報交換をしています。先日も、長野県の池の平湿原や浅間山の外輪山で雪をかき分けながら、一緒に山行をしてきました。澤田さんと振り返り話をしながら山道を歩いていると、澤田さんと僕の「作家の時間」のスタンスには違いがあることがいつも分かります。


雪を纏った浅間山


⚪︎一人ひとりの表現する力をつける「作家の時間」


 澤田さんの「作家の時間」は、子どもたちに「表現する力をつける」ためにあります。ここでいう力とは、単純に上手に表現できることばかりではなく、意欲的に自己表現を楽しむことも含まれます。澤田さんは、自身が小学生の頃から、自分で小説を創作して、自分自身を書くことで表現することを楽しんで育ちました。言葉の中に、自分の未だ見ぬ断片を見つけ、言葉の中に、自身の表しきれない思いを込めてきました。

 澤田さん自身のなかで柱となっているのは、自分は国語教師であるという矜持です。風越学園に赴任する前は国立中高一貫校の国語の先生をされていました。国語という教科を見つめ続け、その可能性を信じ、それを最大限に発揮しようと努力を積み重ねています。国語についての知識や技術、経験をストイックに修練させて、国語学習に関するアイデアの引き出しを増やし、整理整頓された紅茶屋さんの引き出しのように、ずらりと学習材がストックされています。私はその圧倒的な量に、ただただ嘆息し、彼の背後にあるこれまでの時間を思い描いて、尊敬をしています。

 澤田さんの「作家の時間」は、その経験と目の前の子ども(もしくは、子どもたち)の学習に合致する国語を選び出し、ウィットに富んだデコレーションをして提供します。窓に詩を描く実践などは、澤田さんの姿勢が表れた清々しい風景だと思います。澤田さんのこれまでの国語に対する向き合い方によって、そのような豊かな学びの情景が立ち現れます。

窓からの景色に詩を描く


https://askoma.info/2024/01/27/10000


 そして、読み書きの共同体を作り、まずは自分が率先して学ぼうとする姿勢をモデルとして、そのエネルギーで共同体のメンバーである子どもたちを巻き込んでいきます。自分自身が言葉を楽しむことで、言葉の楽しさや言葉のある生き方の素晴らしさを、自身の活動をもってして伝播させていくのです。

 澤田さんは本当に国語が大好きなのです。アフター登山の楽しみの一つ、ソフトクリームの山頂を切り崩しながら、ぽやっと呟いていました。「作家の時間の教師という仕事は天職である」と。


⚪︎子どもを認めるためにある「作家の時間」


 一方で、僕の「作家の時間」の主眼は、「子どもを見る」ことにあります。ここでいう見るとは、子どものことを知ることでもあり、これまでの子どもを認めることでもあります。僕は、特別支援学校と保育士の両親をもち、その仕事場を垣間見ることで、「子どもって、本当にいろいろな子がいる」ことを見てきました。大学では、発達障害と診断され学校で上手く馴染めずに苦しむ子どもたちの遊びの場を作ったり、彼らの家庭教師をしたりすることで、いろいろな子どもたちの表情を見てきました。

 僕の中で目指しているものは、「子どもの専門家」なのだと思います。絵を通して、遊びを通して、子どもの発達を見る専門家がいるように、僕は、子どもたちの学習を通して、子どもを見ようとします。例えば、「なぜこの子は、文字を書かないで話して表現することに拘るのだろう」と考え、その子が一番エネルギーが発揮できる学習環境を作ろうとします。また、その子が「にゃんこ大戦争」が好きと言えばアプリをダウンロードし、「カラピチのもふくん」が推しと言えばYouTubeをチェックします。(もちろん、その子たちの熱量には到底かないませんが。)そして、「カラピチ」や「にゃんこ」のチャンネルから、その子の良さが発揮できる学習を展開することができないかを考えます。子どもの内側から、子どもがどんな世界を覗いているのかを、僕も一緒に見たいとできるだけ努力をします。

 残念ながら、国語に関しての知識で、澤田さんと比肩することは到底できません。しかし、澤田さんも認めてくれるように、僕自身の「作家の時間」は「子どもの見ている景色を見る」ツールとして、大きな力を発揮するように思います。


⚪︎分かち合えない「作家の時間」を分かり合う


 澤田さんとは、膝まで雪に埋もれながら山道を歩いて、同じ教室という場所に立ちながら、全く違う景色を見ていることを何度も確認し、お互いに「分かち合えない空間」があることを理解します。お互いにそこだけは譲り合わないのが、あとで振り返っても笑えてくるほどに可笑しくなります。けれど、僕自身も国語という分野について少しでも研鑽を積もうと、澤田さんの今年の実践から自分ができそうなものがないかを考えますし、澤田さん自身も「もう少し子どもに興味をもとうかなー」と振り返るそうです。

 それと同時に、僕たちがお互いに共感することも多くあります。例えば、「子どもに(促すことも含めて)教えること」と「子どもの今を認めること」とが、時に教師にとってアンビバレントな状態になり、自分自身を苦しめることがあるということです。僕たち教師は、右手に理想を、左手に現実を握りしめて、右へ左へ徘徊しながら、子どもにとって本当に良いこととは何かを探し続けています。それが、澤田さんはより右に、僕はより左に、軸足の重心が傾いただけであって、どちらにとっても「作家の時間」は、有効に働くのだろうと思います。


⚪︎「作家の時間」の姿を学び合う

 

 実践者の数だけ、「作家の時間」の姿があるように思います。正しい形はないですし、自分の積んできた経験でしか呼び起こすことができない「作家の時間」があります。まずは、「作家の時間」を行う先生方が、自分自身の「作家の時間」を俯瞰して見ることができるように、お互いの実践を擦り合わせることが必要になるでしょう。そのような場を提供できたら、本当に良いと思います。


⚪︎澤田さんの新刊出ます


 澤田さんは4月下旬に、中高生向けの「書くこと」の入門書、『君の物語が君らしく 自分をつくるライティング入門』を刊行予定です。軽井沢風越学園での「作家の時間」をもとに書かれた本だそうです。ぜひご覧ください。



山行の記録はこちらになります。



2024年2月17日土曜日

翻訳論を理解のために「翻訳」してみる

  山本史郎さんの『翻訳論の冒険』(東京大学出版会、2023年)の第9章では関連性理論(特定の情況を背景とした発話者の「意図」と関連づけながら発話の「意味」を説明する理論)を使いながら「翻訳論」が論じられていて、大変面白く読みました。山本さんは「明意」(言語表現どおりの意味)と「暗意」(暗に意図されているもの)という概念を使いながら次のように述べています。

〈人間は発話された文の明意から、その時々の想定の中で推意を行って暗意に到達する。この暗意こそが「発話の意味」であり、それに達するのが人間の「理解」であるということになる。その際、計算がもっとも適切な形で(すなわち頭脳的コストが必要以上にかからずに)できるような情報・状況(すなわち関連性のもっとも高いもの)が選び出されることになる。〉(『翻訳論の冒険』107ページ、下線は原著のまま)

 これは、誰かが書いたり、話したりしていることを「理解」する上でも重要な考え方であると思います。理解するということは、相手の話している言葉の表層だけを把握することではありません。文章や話のなかにその言葉や言い回しがなぜ選ばれているのか、その表現を選んだ著者や話者が何を伝えようとしているのかということを考えていくことです。
 『理解するってどういうこと?』の第5章にある「読み・書きを学ぶ際の主要な構成要素」(表5・2)では三つの「表面の認識方法」と三つの「深い認識方法」が示されています。私はこの三列の上下が対比の関係になっていると考えます。「構文の領域」(表面の認識方法)と対になっているのは「優れた読み手・書き手になる領域」(深い認識方法)です。二つの説明の部分を下に引用します。

〈構文の領域―単語、文、段落、本や文章全体のそれぞれのレベルで言語構造を理解し(たいていは聴覚的に)、使用する(表2・3dを参照)。〉
〈優れた読み手・書き手になる領域―読んだり学んだりしたさまざまなアイディアに伴う多彩な経験。意味の共有と応用。話したり、書いたり、描いたり、演じたりといった手段を通して意味を組み立てること。特定の目的と聞き手・読み手に向けて書く。他の人とやりとりしながら考えたことを修正する。優れた読み手と書き手の習慣を使ってみる。〉
(ともに『理解するってどういうこと?』167ページ)

 もちろん、意味を共有したり応用したりすることが大事だからと言って、「表面の認識方法」をまったく無視してしまっては「深い認識方法」が使えるようになる手前で理解することを諦めてしまうことになるかもしれません。だからと言って「表面の認識方法」に時間をかけすぎてしまうと、自分たちが読むものがいかなる意味をもつのかということ自体に無関心になってしまいます。大切なことは、エリンさんも言っているように「深い認識方法」「表面の認識方法」のバランスをとることです。「構文の領域」を学んでいる場合でも〈少なくとも指導時間の半分は、深い認識方法の指導にあてるべきです。すなわち、指導時間全体のなかで深い認識方法の指導にあてられる時間の割合を劇的に増やすべき〉(『理解するってどういうこと?』175ページ)だということになります。
山本さんの本には、エリンさんがこのようにいう根拠になるようなことが次のように述べられています。

〈すべて発話というものは、心に浮かんでいること、すなわち心の中に成立している表示(英語で言えばthought)を、言語による表示に展開する行為であるからだ。つまり、「思い」を言語化するプロセスは本質的に「表示の表示」であるということになり、これはすなわち「解釈的な」プロセスにほかならないのである。〉(『翻訳論の冒険』115ページ)

 たとえば「構文の領域」を学ぶことの繰り返しでは、「発話」の表面的な言語表現そのもの(明意)を捉えることが「意味」を捉えることだというふうに、学習者は考えてしまうのではないでしょうか。そうなってしまうと、読むことや理解することの面白さを実感することはかなり難しくなります。だからこそ、山本さんの言うようにすべての「発話」は、「「思い」を言語化するプロセス」であり、「「解釈的な」プロセス」だということを認識することが必要になってきます。英語の授業や国語の古文・漢文の授業で「口語訳」をする場合に、山本さんの言っていることを意識できるかどうかということはとても重要です。
 山本さんは「翻訳」について次のように言っています。

〈翻訳とは、任意の言語による表示(原テクスト)から遡って著者の心に生じている表示を翻訳者の心に再現し、それを別の想定の集合を持った人間に対して、別の言語を用いて表示するテクスト(訳テクスト)を作る行為である。その場合、原テクストと訳テクストは同じ命題を共有しているという意味で、類似の関係にある。〉(『翻訳論の冒険』132ページ)

 吉田新一郎さんとやりとりしながら『理解するってどういうこと?』の翻訳作業を通してやろうとしたことも、おそらくこういうことだったのではないかと思います。「著者の心に生じている表示」を「翻訳者の心に再現」しながらつくられたのがこの本の「訳テクスト」です。辞書を引いて英語を日本語に置き換えるのではなく「翻訳」するということは、山本さんが言うように、原著者の「発話」をも「「解釈的な」プロセス」から生み出されたものとして「理解」することなのだと思います。エリンさんも「優れた読み手・書き手になる領域」を論じた部分の最後で次のように言っています。

〈私が、「最後の章のあらすじを書き出してみましょう」などと提案することはけっしてありませんが、「その作者なら考えたかもしれない別のいくつかの終わり方をみんなで論じましょう」という提案ならするかもしれません。その小説の終わり方について、その作者ならこう考えたかもしれない、いや、そう考えるはずがないということを、1時間ばかり話し合う素敵な時間をみんなで過ごすことができるからです。このように討論したり、話し合ったりするとき、私たちは、優れた読者なら自然に、かつ本当に活用している優れた読み手・書き手になる領域を使うことで、他の人たちのものの見方を通して各自の理解を高めたり深めたりしているのです。〉(『理解するってどういうこと?』183ページ)

 山本さんがご自身の「翻訳」についての考えをまとめた言葉(翻訳論)と、ここでのエリンさんの言葉(理解論)が見事に響き合っていると思うのは私だけでしょうか。あるいは、私がまだ山本さんの言葉をきちんと理解できていないところがあるのかもしれません。しかし、山本さんの『翻訳論の冒険』は「理解とは何をどうすることなのか」という問いについて考える多くのヒントに満ちており、理解についての私の考え方を深めるように背中を押してくださる本でした。理解とは何かを考えるために、私の言葉でそれを「翻訳」してみようとする勇気を与えていただきました。

2024年2月10日土曜日

「引きちぎって、ゴミ箱に捨てた本 〜強い印象を与えた本、何度も読み直す本など」

「Sさんは本を完読したことを後悔した。明け方まで寝付けず、早起きすると机の上の『女の一生』を両手でつかむと真ん中で引きちぎり、すぐゴミ箱に投げ捨てた。本棚に置いておくのも気分が悪かったのだ」(『古本屋は奇談蒐集家』★1 287ページより)

 今日は3名の本好きの人たちが書いてくださった「強い印象を与えた本」の紹介です。それは、上記の迫力あるSさんのエピソードから、「本って、こんなに強い印象を人に与える」ことができるものなのか、と思い、他の人たちに強い印象を与えた本について知りたくなったからです。また上のエピソードから、本は「最も忍耐強い協力者」(★2)という言葉も思い出しました。以下の紹介でも、「引きちぎる」までは行かなくても、「思わず途中で閉じてしまった/閉じたくなった」本も登場しますし、「10年に1度位のペースで読み返している」本も登場します。

1)【最初は、『読書家の時間』の執筆メンバーで、本が大好き、そして野球少年/球児だった都丸先生から、「自分の人生になくてはならない野球の本について」の紹介です。今、手元にあるのは平成11年発行の11版だそうです。】

 子どもの頃から現在に至るまでずっと野球が好きなので、野球の技術に関する本や野球マンガを数多く読んできました。そんな野球好きの自分が、野球に関する本の中で最も影響を受けた一冊です。

『野球のメンタルトレーニング』

ハーベイ・A・ドルフマン,カール・キュール 著

白石 豊 訳

大修館書店

原題は THE MENTAL GAME OF BASEBALL 

 自分がまだ高校球児だった頃に、野球部顧問の先生に借りた本です。野球の専門書ですが、投げる、打つ、走るといった技術についての本ではありません。野球選手のメンタル面に焦点を当てた本です。初版は平成5年。なぜ先生が本書を貸してくださったのかは分かりませんが、当時の自分は精神面の弱さがプレーに影響しており、それを見兼ねてのことだったのかもしれません。

 この本から学んだことは、よいイメージをもつことがよいパフォーマンスにつながること、困難な状況でも考え方や態度を変えることで、解決の糸口が見つけやすくなること、恐怖心を乗り越える方法、失敗から学ぶこと、学ぶ(自分を変える)ことの重要性などです。

 メンタル面の強さがあり、常によいイメージをもっている選手の方が満足のいく結果を残すことができる。実際にプレーする中で、身をもって体験したため、自分にとってなくてはならない一冊になりました。今、手元にあるのは平成11年発行の11版です。いつ購入したかは忘れましたが、これまでに何度も読んでいます。読み返す度に、自分にとって大切なことを発見できる本です。

 今回読み直して印象に残ったのは、野球殿堂入りしたカール・ヤストレムスキー(ボストン・レッドソックスで1967年に三冠王)が語ったことです。

「僕は今でも、バッティングのことを考えない日はない。これまで一度だって、これでもうバッティングがわかったなんて思ったことがないもの。みんなもっと自分に正直にならなきゃいけないんじゃないだろうか。僕だって三振したり凡打してしまうこともしょっちゅうだけど、工夫に工夫を重ねるしかないじゃないか。変わることを怖がっているようじゃあ、とても一流にはなれないね。」

 野球に関することだけでなく、自分の仕事や生き方につながるヒントをもらえる本なので、今後もページを開く機会があると思います。

2)【次は、本ブログで特別支援学級での作家の時間の実践などを投稿し、『読書家の時間』や『社会科ワークショップ』の著者である冨田先生です。紹介してくださった三冊は、いずれも「思わず本を閉じてしまった/閉じたくなった」ことがあるそうです。本は読み手を本の中に引き込みながら、時には、簡単に読み続けられない思いにさせることも、よくわかります。】

 僕は『神々の山嶺』(夢枕 獏、集英社文庫)と言う本にとても強い印象を受けたことがあります。今でも登山が好きなのはこの本の影響もあるかもしれません。フランスでは相当影響が大きかったらしく、アニメ映画も大人気だったそうです。遭難をして、怪我をしながら救助を待つシーンなどが危機迫るように感じられ、思わず本を閉じてしまったこともありました。山の遭難の恐怖を感じるとともに、命ギリギリのところまでチャレンジするかっこ良さも同時に感じた本です。

 窓際のトットちゃんの映画も話題になっていますが、私としては『トットちゃんとトットちゃんたち』(黒柳 徹子、田沼 武能、講談社青い鳥文庫) も非常に印象に残っています。教師になって間もない頃、電車の中で読みながら思わず本を閉じてしまいました。世界の貧困の苦しさ、自分がいかに恵まれた環境で育っているのか、突き刺さるようなメッセージで、世界の貧困のために何かできることはないか、考えました。

 最後に『はてしない物語』(ミヒャエル・エンデ、岩波書店)も、思わず読みたくなくなって閉じてしまった本の一つです。そして1時間後、必ずまた本を開いてしまいます。バスチアンがファンタージエンのモンデンキントに呼ばれて物語の中に入っていったシーンや、アトレーユとバスチアンがどんどん記憶を失ってしまうシーンなどは、思わず本を閉じたくなってしまうような気持ちだったことをよく覚えています。この本は10年に1度位のペースで読み返している本です。もうそろそろまた読まないと。

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→ 冒頭で紹介した『古本屋は奇談蒐集家』に登場する、『女の一生』を引きちぎって捨てたSさんが、『女の一生』を読んだのは、高校時代、大学入試に失敗した後です。その後、人生経験を積み重ねる中で、「一生のトラウマであり、自分を縛り付けてきた『女の一生』をもう一度読んでこそ、その本からやっと解放されると考え」て、その本を新たに購入します。「読もうとすると手が震えた」そうですが、読んでみると、以前とは全く違う感情が生まれたそうです(『古本屋は奇談蒐集家』290-291ページより)。『はてしない物語』を10年に一度ぐらい読み直す冨田先生も、次回読まれる時、どういう違う感情が生まれるのかな?とも思います。

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3)【次は本ブログに時々投稿をお願いしている吉沢先生です。準備段階のメールのやり取りで、一番最初に思い浮かんだのは『夜と霧』(ヴィクトール・E・フランクル、新版 みすず書房 2002年)だったそうです。「でも、紹介するとなると、『そりゃあそうでしょう』という気になります。私が紹介するまでもない。有名すぎるし、あの本を読んで衝撃を受けない人っているのでしょうか」ということで、『夜と霧』は、吉沢先生の紹介リストから落ちました。最終的に選ばれた以下の三冊のうち、『「フクシマ」論』と『力なき者たちの力』は、「こんな機会でもなければ、人にはあまり薦めない種類の本」だそうです。】


開沼博『「フクシマ」論―原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社、 2011年)

原発が立地する地域(原子力ムラ)の人たちは、原発の危険にビクビクしながら暮らしているのか、というとそうではありません。「そりゃあ原発で働けるのが一番だ」「原発は危ないっていうけど、気にしてもしょうがない」というのが大勢です。では、放射線の危険性を主張する反対運動の考えは間違っていて、原発を推進する行政、官僚のやり方が正しいのか、というとそういうわけでもない。----では何が問題なのか。

原子力ムラと原子力を推進する「中央」の行政・産業界。この関係を、抑圧するものと抑圧されるもの、または加害者と被害者、といった二項対立で見ようとすると見落としてしまう現実があるのです。それは、ムラと「中央」を仲介する、「地方」行政の存在です。「地方」行政は、「中央」の意向を汲んで、自発的に寄り添おうとしていくのです。それが人々の暮らしを支え、戦後の経済成長を支えてきたのです。

私にとって衝撃だったのは、このような関係性がシステムとして仕組まれているということです。「科学技術が未来を切り開く」「経済成長が社会を豊かにする」という価値観を共有することで、国民みんなでそのシステムの支えてきたのです。

片田敏孝『人が死なない防災』(集英社新書、2012年)

 著者は、学校で津波被害のための防災講演会をする時、子供たちの目の前で、ハザードマップを破り捨てるところから話を始めるそうです。「え!」と思うかもしれませんが、「ハザードマップを信じるな」というのが、著者の主張です。東日本大震災では、このハザードマップゆえに、津波は到達しない(だろう)とされていた地域の人々が逃げ遅れて亡くなりました。被害が起きてから、「行政は何をやっているのだ!」と怒っても意味がないのです。人間の想定には限界がある。自然は人間の想定を超える、というところに立つ必要がある、と著者は言います。

 

ヴァーツラフ・ハヴェル(阿部賢一訳)『力なき者たちの力』(人文書院、2019年)

 著者は劇作家ですが、冷戦下、共産主義政権によるチェコスロバキアで抵抗を続け、ビロード革命を成功に導いた中心的人物の一人で、革命後、初代の大統領に選ばれました。著者は、私たちを縛っている社会体制を「ポスト全体主義」と名付けました。これは、どこかにいる悪魔が独裁権力を振るっている社会ではありません。「精神的・倫理的な高潔さと引き換えに、物質的な安定を犠牲にしたくない」という人々の欲望につけこむ形で、高度な監視システムと個人の生を複雑に縛るルールをいきわたらせる社会だ、と言います。国民一人一人が、大勢の流れに逆らわないことで、安定した暮らしをしたい、そのためには自分の尊厳を捨てても仕方がない、という意識が、全体主義を支えてしまう、と著者は言います。私たち一人一人の意識を問うという意味で、この本も大きな衝撃でした。

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 おまけで、最後に私も二冊紹介します。

 一番、最近、強い印象を与えてくれた本は、この年末年始で読んだ『アルジャーノンに花束を』です。有名な作品にもかかわらず、題名しか知りませんでしたので、かなり最後の方まで「どう終わるのだろう」と思いながらページを繰っていました。途中で自分の感情が揺さぶられ、でも、その揺さぶられる中で自分の中にある偏見に気付くこともありました。

 読み終わってまず思ったのは、「私にとってはこのタイミングで読めてよかった」でした。最近の自分の個人的な経験が、この本に惹き込まれたり、この本と対話するのを助けてくれたのがよくわかったからです。

 知的障害の人に対して知能指数と高めるための手術を行うというトピック等、ジャンルはSFになるようです。SFは私はあまり得意ではありませんが、それでも十分に楽しめました。読んでいる途中で、この本の場合、もし、読み終わる前に、書評やあらすじなどに触れてしまうと、読む楽しみが半減しそうな気がして、「絶対、見ない!」と決めて、最後までドキドキしつつ読みました。

 なお、私が読んだのは地元の図書館で借りた1975年にBantamから出版された版(英語)で、それを見ると最初の出版は1959年のようです。最初に出版されて60年以上! この間、邦訳も[新版]が出たりといくつかのバージョンがあるようで、かなり長く読み継がれている本です。

 二冊めは、『イン・ザ・ミドル』(ナンシー・アトウェル、三省堂 2018年)。翻訳に関わった本であり、翻訳したのは第3版です。最初に読んだのが第2版。全部を何度も通読する、というよりは必要に応じて、折に触れ、あちらこちら開いてきました。第2版は、私の書き込みが多すぎて読みづらくなり、新しく購入して、二冊もっているぐらいです。著者はライティング/リーディング・ワークショップの優れた実践者の一人ですが、ライティング/リーディング・ワークショップの具体的な方法だけでなく、著者自身の失敗から学んだ、教える側の論理と学ぶ側の論理のギャップなど、私にとってはいつも「学ぶことはどういうこと?」と、問いかけてくれる本です。今、同じ著者の 『The Reading Zone 』(★3) の第2版を読み直しているのですが、子どもたちが教室で「ひたすら読む様子」に圧倒されます。そういえば、今回、吉沢先生が紹介リストから落とした『夜と霧』は、私はアトウェルの教室の子どもたち(中学校1、2年の年代)が読んでいることがきっかけで、初めて読みました。

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★1 『古本屋は奇談蒐集家』ユン・ソングン (著), 清水 博之 (翻訳) 河出書房新社 2023年

★2 『なぜ、学んだものをすぐに忘れるのだろう?』(フランク・スミス(著)、橋本直美ほか(監修、翻訳)大学教育出版 2012年の44ページに以下の文があります。

「著者は、どんなに子どもに甘い両親と比較しても、子どもたちや幅広い世代の読書にとって、最も忍耐強い協力者であると言えよう。学習者が一七回続けて物語を読みたくても、難しい文章をとばしても、頻繁に間違った解釈をしても、ある部分に戻り続けても、著者は決して異議を唱えることはない」

★3 The Reading Zone: How to Help Kids Become Passionate, Skilled, Habitual, Critical Readers (Scholastic Professional) 2016年 第1版の著者はアトウェル (Nancie Atwell)、この2版は同じ学校の教師であり、アトウェルの娘でもあるAnn Atwell Merkel との共著


2024年2月2日金曜日

教師も、生徒も、もっとブッククラブ(読書会)を!

 教員研修には、過去40年ぐらい興味をもち続けていますが、ここ10年ぐらいは多様にある方法(40以上はあります!)のなかで確実に一番効果的かつ効率的だと思うようになっているのがブッククラブです。★

 ブッククラブ(読書会)は、その対象が教師だろうと、生徒だろうと、次のような流れで行われます。

①何冊かの本のなかから「これ!」というものを各自が選択し、②事前に読んで、③話し合いに参加し、読み終わった後は、④自分とは同じ本を選ばなかった人たちに向けて本の宣伝(書いて紹介)をします。

 最後の成果物をつくる義務があることを、ブッククラブを始める前に示唆しておくのとおかないのでは、結構本の読み方の質が異なる場合はありますから、気をつけてください。自分が何らかのアウトプットをしなければならないことが分かっていたら、それ相応のインプットが必要になりますから当然です。

①選べる本は、参加者の興味関心がもてるものであることは言うまでもありません。子ども対象の場合は、教師や大人の思いこみの選書や、教師対象の場合は、企画者(ないし講師)の思いこみの選書では、参加者がかわいそうです。真に「自分が選んでよかった」と思えるものがあることが、参加者がエイジェンシー/エンゲージメント/コミットメントを発揮しながら参加できる条件です。

②および③は、無理のない範囲で、読み進めます。本の分量/厚さにもよりますが、一回で全部をカバーするよりも、何回かに分けて読み進んだ方が、中身の濃いやり取りができます。また、その過程で人間関係も築けます。

④互いが読み合った本を紹介し合うのは、自分たちが読んだ内容について再確認し、そのいい点を他の参加者に知ってもらう機会です。成果物をつくることで、自分が読んだ内容を再度考える機会が提供されるだけでなく、他の参加者に伝えるために、特に大事な点をまとめる必要もあります。「達成感」を味わう場です。「お祝い」の場というか。雰囲気がよかったなら、次の本を選択して、新しいグループでブッククラブが再度スタートするかもしれません。

 教師対象の場合は、③の本に内容についての話し合いをするところは、いくつかの工夫がこらせます。

 みんな忙しいので、会える時間を調整する代わりに、オンラインで筆談をするのをおすすめします。これなら、各自が考えたことも(話し合いでは流れて消えてしまいますが)すべて記録に残りますし、話す以上に考えて書きます。メンバー構成によっては、話し合いよりも中身の濃いやり取りも可能です(ここの部分が、他の教員研修の方法よりもおすすめする理由です。相互に濃密なフィードバックが相互にある研修は、そう多くはありませんから)!

 可能なら、できるだけ知り合いだけでメンバーを構成しない努力をすることもおすすめします。知った人同士だと、言えること/書けることに限界がある(というか、互いに自己規制をかけてしまう)からです。言いたいことが言えないと、中身の濃い(継続的な)やり取りは期待できません。教師のブッククラブは、基本的に自分の実践をよくするために行いますから、本音で言いたいことが言える(書きたいことが書ける)中身の濃い継続的なやり取りが不可欠なのです!

 さらに、ブッククラブは教師が(生徒も!)いろいろな新しいテクノロジーを試してみる機会も提供してくれます。特に教師の場合は、やり取りをして、お互いの実践を少しでもよくすることが目的ですから、授業でも使えるアプリ等を、自分たちのブッククラブでまずは実験してみることができます!

 これなら、産休の先生や一時休業している人も、参加しやすいと思いませんか。オンラインで書くやり方なら、時間や場所すら関係ありません!

 ④の終わり方も、単に成果物を紹介し合って終わりでなく、自分の本ないし他の参加者のアイディアをもらって、実際に自分がとる行動計画を立てるところまでやることもできます。この方が、子どもたちのためになることは間違いありませんので、ぜひ挑戦してみてください。それは、個人レベルでも、チーム・レベルでもできます。

 この最後のアクション・プランを立てる要素を組み入れることで、読んで終わり(知識としては知ったが、行動しないの)ではなく、自分たちの常に究極の目的であるよりよい授業や活動を生徒たちに提供することを実現できるのです。

 一冊一冊の本は(選書がよければ、なおさらですが)、新しい情報と実践への扉を開いてくれます。一人ひとりの参加者は、本の内容に関連した多様な経験や知識等を提供してくれます。そして、数人(3~5人でのやり取りがおすすめです)でのやり取りは、一人で読むのでは考えられない新しい気づき、発見、そして実践をもたらしてくれます!

★ 逆に、一番効果と効率がよくないのが、研究授業+研究協議アプローチです。効果的な22の研修の方法を紹介されている『「学び」で組織は成長する』(光文社新書)には、これは含まれていません! 確実に、いい授業の普及よりも、悪い(してはいけない)授業の普及に過去何十年も貢献し続けている方法と言えます。そして、指導案がその目玉の一つと位置づけられているように、教師主導の授業の見本のようなものでもあります。

参考: https://www.edutopia.org/article/5-steps-book-studies-teacher-professional-learning

    『読書がさらに楽しくなるブッククラブ』