2022年4月30日土曜日

「子どもの詩」へのコメントに学ぶ

  【時々投稿をお願いしている吉沢先生に、今回も以下の投稿をお願いしました】

 2022年1月8日の投稿で、小学生の詩を集めた『小さな目』という本からいくつかの作品を紹介しました。この本には、小学生を対象に書かれたコメントが掲載されています。★1

 私はこのコメントにとても魅力を感じました。子どもの発想を認め、個性の表れた作品を評価する一方で、子どもの陥りがちな問題をストレートに指摘しているからです。

 今回は、そのような問題に対する評者のコメントに光を当てたいと思います。次の4点から紹介します。

(1) 人間には我慢してやらなければならないこともある

(2) 通信簿など心配しても仕方がない

(3) 形だけ整えて安心してはいけない。自分の本当に言いたい中身を見つけるべき

だ。

(4) 社会的な事実について、一足飛びに結論をだしてはいけない。

*****

(1) つらいことも我慢してやらなければならない

次の作品は小学校1年生のものです。★2


なつやすみ

       なかた かずま

これで

にっきをかくのが

しまいです

うれしくでたまりません

もう

にっきかいたか と

いわれません


→ これについて評者は、「このしには きらいなことをやりとげて ほっとした よろこびが でている。これは これでいい。」と認めた上で、「しかし うれしがってだけ いたのでは ダメだ。」と言います。評者は、毎日の生活で好きなことと嫌いなことを区別してみることを提案しています。ご飯やおやつを食べること、遊ぶこと、寝ることは好き。歯を磨いたり、学校へ行ったり、勉強したり、日記を書くことは嫌い。そして、次のように言います。

「こうして かぞえてみると きみが きらいなことは にんげんだけが やることだ。きみの すきなことは いぬやねこだって やっている。にんげんが にんげんとして りっぱに なるためには、すこしくらい きらいなこと つらいことも がまんして やらなくては いけない。」


(2) 通信簿など心配しても仕方がない

次の作品も小学校1年生のものです。★3


つうしんぼ

       きよの ひでお

ぼく たいていおこられるな

れんらくちょうに

かかれただけで

おこられるんだもの

ぼくのおかあさんは

ぼくのテスト

「みたくない」って

つうしんぼ

なんてんだろうな

ぼく とってもしんぱい


→ 評者は言います。「きよのひでおくんは 『つうしんぼ』を とても しんぱいしているが、そんなもの しんぱいしても しかたがない。わるかったら こんど しっかり やればいい。」

 なんどストレートなコメントでしょう。作品としての出来ばえ以前の問題として、そこに表わされている子ども自身のあり様を評者は心配し、助言しています。たかが通信簿ではないか、という評者の声が聞こえてきそうです。


(3) 自分でなくては作れない特別なものを書くこと

次の作品も小学校1年生のものです。★4


えんそく

       かわぐち のりこ

せんせい

はしがあるよ

せんせい

ばらがさいてるよ

せんせい

はんかちおとしちゃった

せんせい

つかれちゃった

せんせい

おべんとうにしてよ

せんせい

ばななはんぶんあげるよ


→ 評者は「いかにも とかいの子らしい きのきいた しだ。」とし、「せんせい」という言葉の繰り返しがリズムを作り出していることを認めつつも、次のように言います。

「でも この しには どうしても このひとでなくては つくれないという とくべつなものがない。どこの だれの えんそくにも でてくるようなことを ただ ならべてそれを「せんせい」で つないだだけだ。(中略)あなたのような しっかりした子は、もっと こころのこもった じぶんでなくてはかけないようなしを かいてほしい。」


(4) 一足飛びに結論を出してはいけない

次の作品は小学校6年生のものです。★5


さむらい

       工藤 順二

さむらいはどうして

きり合いをするのだろう

同じ日本人でありながら

きり合いをすることは

ばかげたことだ

たったひとつしかない

命を

むだにするなんて

ばかなことだ


→ ばかげているとわかっていてもきり合いをして命を捨てる武士がいるという現実をどうとらえるべきでしょうか。

「むかしは子どもがそんなことをいうと、へ理屈をこねるといってしかられたものだ。いまは子どもがこういう詩をつくると、さすがは現代っ子だ、はっきりしている、といっておとなたちは感心する。しかしこんなことでいい気分になっていたら大変だ。ものごとをなんでも表面からだけ常識的に解釈して、それでわかったつもりになっていたらとんでもない。」

 武士の命のやりとりには、それ相応の理由があってのこと。その時代の流れや、歴史的な事実を知りもせずに、一足とびに結論をだしてはいけない、と評者は言います。

*****

 子どもの気持ちを受けとめ、個性を認めることが大切であることは、言うまでもありません。と同時に、間違っていること、至らないことについて、それを指摘し正していくのも大人の大切な役割です。この本のコメントから私は、子どもに真摯に向き合い、しっかりした人間に育って欲しいという評者の思いを感じます。

*****

★1  コメントには、書いた人の名前が記載されていないため、本稿では「評者」という呼び方にしてある。

★2  ★3  ★4  引用の詩とコメントは、朝日新聞社編『ぼくらの詩集 ちいさな目 1ねん・2ねん』(あかね書房, 1964)より。

★5  引用の詩とコメントは、朝日新聞社編『ぼくらの詩集 ちいさな目 5ねん・6ねん』(あかね書房, 1964)より。


2022年4月23日土曜日

「2014年と2022年 〜読書家の時間/リーディング・ワークショップ8年間の実践で変わったこと・変わらないこと」

  リーディング・ワークショップの日本の教室での実践版をつくろうということで、2014年にプロジェクト・ワークショップ編『読書家の時間』が刊行されました。それから8年が流れ、今年、『読書家の時間』の改訂版が出版されることになり、現在、校正中です。

 8年前と比べると、教育の世界にも目に見える変化がいくつもあります。例えば、IT機器が教室内外での学びに登場する頻度は大きく増え、超アナログの私でさえも、恐る恐るオンラインの提出機能を使うことで、教室内で使う「紙」プリント類の量が格段に減ったりしています。カリキュラムや指導要領、学校に期待されることの変化を感じておられる方もいらっしゃることと思います。

 変化には柔軟に対応しつつ、子どもたちの学びにプラスになることは貪欲に取り入れられるといいのかもしれません。とはいえ、変化や新しいことに翻弄されないためには、それらを吟味できる視点も必要です。その土台にあるのは「一定期間、変わらなかったこと・大切にされ続けたこと・そこから発展してきたこと」と考えてもいいのかもしれません。

 『読書家の時間』改訂版では、ICT機器を自分の授業の指導で使うだけでなく、全校生徒と職員に対するICT機器関連の利活用指導も同時に行う必要に迫られるという厳しい状況に直面する教師も登場します。その中で、GIGAを追い風にして、子どもたちの学びをしっかり後押しする、目の覚めるような中学校の実践例を展開します。この教師は、何も考えずに用意されたプラットフォームに乗るのではなく、新しい技術が可能としてくれることを吟味しているのもよくわかります。そして、何よりも、子どもたちと一緒にICT機器使用のマナーも考えながら、それぞれが読み書きを楽しみ、成長できるように後押しすることを大切にしています。子どもたちのスマートフォン・トラブルが大幅に減ったという副次的な効果もあったそうですが、納得です。

 読書家の時間でこの8年間変わらず、大切にされ続けたことも見えてきます。改訂版で新しく加わった章の一つは、読む文化が一つの教室から教室の外へと広がっていく様子を描写しています。この章では、セクションの番号に「0(ゼロ)」という表記が使われています。0(ゼロ)」という表記を使った理由は、「読む文化」を広げるための前提となる項目を確認するため、とのことです。そして、その前提は実にシンプルです。以下に引用するように、この教師が担当しているクラスの子どもたちが、毎年、本を読むようになったのは、本を読む時間をつくっているからなのです。

 「リーディング・ワークショップを実施している教室では、「国語の授業」と「読書」が融合されています。つまり、国語の授業のなかに必ず「読む時間」があるのです。子どもたちは、それぞれ自分にあった本を選んでいます。教師が紹介した本、学校図書館で借りた本、友達からすすめられた本、自分のお気に入りの本など、多くのなかから選ぶことができます。そして、一人ひとりが本の世界に入り込むかのように、夢中になって読んでいます。読者があまり好きではなかった子どもも、教師による選書のカンファランス(第4章参照)を通して、少しずつですが自分に合う本が見つけられるようになり、興味をもつようになっていきます」

***** 

 ここしばらく、改訂版についてプロジェクト・ワークショップのメンバーとやり取りする中で、2014年刊行の『読書家の時間』ともうすぐ出版予定の『改訂版 読書家の時間』の両方の執筆に関わったメンバー2名に、この8年間についてさらに質問してみたくなりました。

 まずは、現在は横浜市で校長をしている広木先生です。先生自身の立場も校長に変化しています。「8年間で変わったこと」「変わらずに大切にしていること」を尋ねてみたところ、以下を挙げてくれました。広木先生は、8年前に自分の教室にあったヒロキ図書館を校長室に復活させ、校長となった今も、機会を見つけて読み聞かせしたり、子どもたちと本についてのやりとりを楽しんだりしています。

【変わったことは?】

・大人も子どももさらにデジタルでのコミュニケーションが進みました。小学生でもスマホを使いこなす子が大勢います。

・読書記録はデジタルノートで、紹介は写真を使ってできるようになりました。アンケートも楽々とれます。

・教師の平均年齢がさらに若くなりました。それもあって学年がチームとなって子どもにかかわっています。教科担任制も進んでいます。

・担任裁量で授業の工夫、挑戦が難しくなり、教科書に頼った授業が多いのが実情です。

・教科横断的な授業を行うことは当たり前になってきています。

・登校支援が必要な子どもが増加してきています。

【8年間で変わらないことは? 8年間を通して大切にし続けたことは?】

・読書の時間を確保すること、自分から本を選ぶことの大切さや楽しさを伝え続けること

・教師として、授業は自分でつくりだすもの、子どもの主体性に火をつけるかかわりを追求すること、がいかに楽しいかということ

・読む、書くはすべての学びにつながる力で、国語という教科に収めず、すべての学習場面で力をつけていきたいということ

・子ども同士の読みや考えの交流は、こちらが想像する以上に豊かで深いということ

・子どもを待ったり、任せてみたりする勇気をもつこと

 2014年版で、子どもたちが読むことに夢中になっている様子を見せてくれた、小学校で教える冨田先生には、8年前から現在に至るまで、「変わらないで大切にし続けたこと」と「そこから自分の中で、より発展してきたこと(より強く思うようになったこと)」を尋ねてみました。

【8年前から現在に至るまで、変わらないで大切にし続けたこと】

その子の大切にしているものを大切にするということです

「読書家の時間」や「作家の時間」には

その子が大切にしていることがとてもよく分かります

みんなそれぞれ学んでいるものが違うからです

【その中で「自分の中で、より発展してきたこと(より強く思うようになったこと)】

最近の教育界の潮流の中に、「資質・能力」とか「思考力・判断力・表現力」とか、「力」という字が目につきます

決して子どもたちの力を引き出そうとすること自体は悪いことであるとは考えませんが、

私が行っているワークショップ「読書家の時間」が「力」を引き出すために行っているという感じではありません

「読解力」とか「探究力」とかワークショップの文字の近くに並ぶと

最近では少し違和感を感じています


自分の良さに気づくこと

自分の良さに気づいてくれた人がいること

お互いに共に時間を過ごしたこと


こういう人間味に満ちた時間、空間、仲間があったことが

心の中でその子を温め続けるのではないかと考えています

「力」とかそういうものは

どちらかというと副次的なもので

夢中になって何かを作ること(欲を言えば仲間とできること)それ自体が

10年後20年後に宝物になると思います


究極言えば読み書きでなくてもいい

学校という場所に仲間と共に夢中になれるものがあったということが

その子のこれからの幸せにつながるのではないかと思います

*****

→ 冨田先生が答えてくれたことを見ていると、個々の違いに対応できるカンファランス・アプローチだからこそ、それぞれの子どもの学びをサポートできる、でもそれぞれの子どもは孤立していないことを、改めて思います。

 そういえば、2014年版には、以下のような箇所がありました。

「...それでも一つ言えることは、すべての子どもは、私たち教師が気付かない無限の可能性をもっていて、子どもたちが学習をするたびに、そこから滴り落ちて輝く「その子らしさ」を見せてくれるということです...                               

...

 教師が見たい部分だけ見られるように子どもたちが選択する機会を奪って、教師が指定した学習だけをやらせたり、主体性をもってやっているように見せかけたりしていたのでは、子どもは教師の都合にこたえるだけで、教師が望んでいるような姿しか見せてこなくなります...」(2014年版 198-199ページ)

→ また、一人ひとりの読み書きをサポートする中で、冨田先生は、10年後、20年後の宝物につながることを見ています。

2014年版の以下の箇所を思い出しました。 

 「読書家の時間は、子どもたちの「その子らしさ」をありのままに受け入れられる素地をもっているだけでなく、子どもたちが自分で読む力をつけていくことができる教え方・学び方であると思います。自分のやりたいことが実現できて、それを教師が一緒に手助けしてくれたり、自分の願いに近づける助言をくれたりする。実現できたことを、クラスの友達が一緒に喜んでくれる。そういったことが可能なのです」 (2014年版、200ページ)

*****

 改訂版、どうぞお楽しみに! また出版時期など最終的に決まりましたら、2014年版との違いなども含めて、改めてお知らせします。

2022年4月16日土曜日

おしゃべりな脳 ?

 「おしゃべりな脳」というタイトルにひかれて、チャールズ・ファニーハフの『おしゃべりな脳の研究―内言・聴声・対話的思考―』(柳澤圭子訳、みすず書房、2022年)という本を読みました。「内言(inner speech)」は発声を伴わない頭のなかの言葉のことで、非文法的で圧縮や省略を伴うもの。コミュニケーションのための言語としての「外言」が「内言」化し、思考の道具になるとしたのが心理学者のヴィゴツキーです。その「内言」と「聴声」(幻聴)とを関連づけることで、人間の創造性を説明することができるとは思いもよらないことでした。著者のファニーハフは「内言」について次のように言っています。 


 子どもの頃に内言がどう発言するかに目を向ければ、多様な形態と機能があることも腑に落ちる。子どもが他者と交わす会話が「地下に潜って」―つまり内在化されて―外的なやりとりの無音版を形成したとき内言が現れる、と考えるには十分な理由がある。これはつまり、言葉で行う思考には、他者と行う会話の特徴がいくつか含まれているということで、他者と交わす会話の特徴は、文化の交流様式や社会的規範によって形作られる。(『おしゃべりな脳の研究』17ページ)

 

 「内言」が社会的起源をもつというこのような考え方をもとに、この本では「言葉の芸術家と視覚芸術家の作品」を参照しながら、「創造力を発揮する重要な方法のひとつは、自己と会話することなのかどうか」ということが検証されます。そしてまた「人間の経験に登場するふつうでない声」すなわち「聴声(あるいは言語性幻聴)」が生まれる理由の考察がなされて、そのように「自分に聞こえる声」を「混乱した脳による無駄口」ではなく、「未解決の情緒的葛藤を知らせる過去からのメッセージ」として捉える可能性が語られます。

 「内言」が現れることで、私たちは「自分自身と話す」ことが可能になります。

 

自分自身と話すことは人間の経験のひとつであり、決して万人に起きることではないものの、精神生活の中でさまざまな役割を果たすらしい。ある重要な理論によると、脳内の言葉は心理的「ツール」として機能し、思考の中でいろいろなことをするのを助けてくれる。ちょうど、家の修繕作業が工具のおかげで可能になるようなものである。内言は、計画を立てたり、指示したり、励ましたり、疑ったり、言いくるめたり、禁じたり、省察したりできる。クリケット選手から詩人に至るまで、人はあらゆる形で、ありとあらゆる目的のために自分自身と話す。(『おしゃべりな脳の研究』16ページ)

 

ヴィゴツキーやミハイル・バフチンらの「対話」論を踏まえながら、ファニーハフは、「自分自身と話す」こと、すなわち「内的対話」こそが創造的な思考の契機になるという主張を展開します。小説家や芸術家へのインタビューをもとにして「内的対話」の働きに関する次のような考察が生まれます。

 

 本書で取り上げた経験の中には、私たちが内的対話と定義する範囲を少し広げるように見えるものもある。たとえば、小説家の創造的な思考は、相互的な会話より、立ち聞きか盗み聞きとの共通点のほうが多そうである。私たちがインタビューした作家で、登場人物とじかに語り合うと言う人はまれだった。私自身の小説執筆についていうなら、登場人物に返事をしてしまうと、そっと打ち明けてもらっている話がそこで途切れるような気がする(思い違いかもしれないが)。開放された駐車スペースのモデルは、精緻化させる必要があるだろう―いったん声が現れたら、対話で交流しなくても(おそらく社会的表象の特異な活性化によって)心の中に入ってこられるようなモデルへと。たぶん、人はこんなふうにほかの声を脳内に入らせることしかできないだろう。なぜなら、人には内なる会話の対話的構造があるからである。そして、それは人間としての発達の結果だからである。確かなところはわからない。しかし、これは少なくとも、古来から不可解だった創造性のプロセスに対する新たな考え方ではある。(『おしゃべりな脳の研究』266ページ)

 

 その創造性は、作家の創作行為ばかりでなく、「聴声」というかたちであらわれる言語性の幻覚を理解する鍵でもあるとファニーハフは述べています。いや、無から有を生み出すための「もがき」のなかに必ず立ち現れることだと言っているのです。作家の創作の場合は健全で、「聴声」は「病的」であるというような見方は、線引きできないところに線を引いているようなものだという主張でもあります。ファン・ゴッホやピーター・レイノルズといった、エリンさんが「理解の種類」の「メンター」として選んだ芸術家の言葉は、「内的対話」が創造的な思考を生み出すことを証していました(ファニーハフもファン・ゴッホと弟テオとの手紙のやりとりを取り上げています)。

 『理解するってどういうこと?』を書くときに自分の頭のなかで起こったことをエリンさんはつぎのように書いています。

 

障害を乗り越えるということは、自分自身の強さを知るということです。それを自ら選んで取り組もうが、そういう状況に投げ込まれてしまったのであろうが、難題に直面したことなる人ならだれでも、自分にどれほど理解する力があるかに気づくというのはどういうことなのかを知っていると思います。けれども、多くの場合、こうした意識を持つには、自分の内側からひっきりなしに聞こえてくる「自分にはできない」という反対の声に打ち勝たなければなりません。否定的な見方や自己懐疑という悪霊が、多くの人の内面にまだ巣食っているのです。この章の後半部分で述べることになりますが、本書に書いた言葉の多くは、私の頭のなかにこだまする「誰も気になんかしていないよ、エリン!」という合唱と闘いながら生み出されたものです。『思考のモザイク』を書いた後に、今度は私一人だけで本を書くということは、自分が下手な書き手であり、私のアイディアなどは誰の役にも立たないのだよと、ささやく声を抑えなければならない営みだったのです。私にとってそれは、自己懐疑という悪魔のような力との総力戦にほかなりませんでした。自己懐疑はもがきの一部なのです。そういうもがきとの闘い方を、誰かが若い頃に教えてくれていたらよかったのに、と思います。(『理解するってどういうこと?』157ページ~158ページ)

 

彼女も自分の内側の「声」と闘いながら書いていたわけです。ファニーハフによる「おしゃべりな脳」の研究は、私たちの頭のなかで起こる「理解の種類」の成り立ちを説明するものであることがよくわかります。エリンさんが示した「理解の種類」とは、「おしゃべりな脳」の働きのヴァリエーションだと言っていいのかもしれません。「もがく」という「理解の種類」を経験することは、自分のとらわれていたことがら・自分を束縛していた何かに気づくことでもあります。理解するということは、苦しみの源にある「物語」に私たちがたどり着く過程なのかもしれない。何かをわかろうとして「もがく」ことは、自分の抱える問題は何かを明らかにしようとする営みではありますが、むしろその問題がどんな「物語」をもっているのかというふうに考え直すことで「理解」に至る道を見つけることができるのかもしれません。そういうことをファニーハフの本は教えてくれます。

 

2022年4月9日土曜日

なんと素敵なノンフィクション(その3)〜作家ルイーズ・ボーデン

 3月4日、3月25日の投稿に引き続き、「なんと素敵なノンフィクション」その3です。これまでに書いてきたように、「なんと素敵なノンフィクション」という投稿を書き始めたきっかけは、ラルフ・フレッチャー氏の本Making Nonfiction From Scratch★を読み始めたことでした。

 そして、この本の中で紹介されている、子どもたちへのおすすめ絵本や作家を検索しているうちに、3月25日の投稿の最後で紹介した4冊(『しょうぼうていハーヴィー 〜ニューヨークをまもる』、『どこでもへっちゃら スーパーアニマル大全集 〜世界でいちばんつよいのはだれ?』『海時計職人ジョン・ハリソン 〜船旅を変えたひとりの男の物語』『戦争をくぐりぬけたおさるのジョージ 〜作者レイ夫妻の長い旅』を見つけ、町の図書館で借りてきました。この4冊のうち、最後の2冊の著者は、ルイーズ・ボーデンです。

 その中の『海時計職人ジョン・ハリソン 〜船旅を変えたひとりの男の物語』の書き出しは以下のようになっていて、ページを開いた途端、「うまいなあ」と思わずメモをとりたくなりました。

*****

18世紀のイギリスに、すばらしい時計を作った男がいた。

40年という歳月をかけて作った時計の数は、5個。

どれも船旅に強く、たいへん美しかった。

そして、そのうちのひとつは、世界を大きく変えたのだ。


男の名はジョン・ハリソン。彼が本書の主役だが、

ここには、天文学者、科学者、船長、国王、

何百年ものあいだだれにも解けなかった難問も、登場する。


それでは、ジョンの生い立ちから始めよう。

*****

 この続き(5ページ)は「ジョン・ハリソンは、1693年3月、イギリスのヨークシャーに生まれた」という文章です。でも、この最初の1ページの書き出しがあるおかげで、「1693年3月、イギリスのヨークシャーに生まれた」という、よくありそうな文章で始まる部分からも退屈せずに読めた気がします。

 こういう書き出しを見ていると、フレッチャー氏はノンフィクションで使えそうな要素として、例えば、以下を挙げていること(12〜16ページ)も納得できます。

・大胆な書き出し

・説得力のある人物描写

・注意を惹きつける詳細な情報

・正確な描写

・サスペンス/伏線(展開の暗示)

・暗喩と直喩

 また、フレッチャー氏が、読者を惹きつけるために、著者がどのような工夫をしているのかを、子どもたちに探させ、上手な書き出しを集める(12ページ)ことも面白そうです。こういう経験をたくさんすることで、子どもたちも、自分がノンフィクションを書くときに使える「技」のレパートリーが増えてくること、そして、ノンフィクションとフィクションで使える「技」の共通点にも目が向きます。

 ルイーズ・ボーデンの邦訳を検索しているときに、『ピートのスケートレース  〜第二次世界大戦下のオランダで』(ルイーズ・ボーデン/ニキ・ダリー/ふなとよし子訳、福音館書店, 2011年)という本も見つけました。ノンフィクションと思って読み始めたのですが、こちらはフィクションでした。

 そういえば、フレッチャー氏とのインタビュー★★の中で、ルイーズ・ボーデンは「ノンフィクションではなくて、史実に基づくフィクションにすることで、読者を惹き込む」という選択についても語っています。例えば、語り手を少女にして、その一人称で描くなど等です。『ピートのスケートレース  〜第二次世界大戦下のオランダで』も、ピートという少年の視点で話が進んでいきます。

 伝えたい事実がある、そしてそれを読者により伝わりやすくするために、フィクションという選択肢もできる。ノンフィクションを学びつつ、「ジャンルを変える」という選択肢を学ぶこともできそうです。

★Ralph FletcherのMaking Nonfiction From Scratch. Stenhouse Publishersから 2015年に出版されています。

★★上記の本では、『海時計職人ジョン・ハリソン 〜船旅を変えたひとりの男の物語』の著者ルイーズ・ボーデンへのインタビューに一つの章を割いています(25〜36ページ)。こういうプロのライターの経験から、折に触れてミニ・レッスンを考えていくこともできそうです。

2022年4月1日金曜日

ジャーナルをつけるという楽しい学び方

 読み書き教育に興味がある人に「この春休みのおすすめ読書」を紹介します。(間に合わない場合は、ゴールデンウィークに延ばしてください。)

 本は、ウォルター・アイザックソン著の『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(文藝春秋)です。彼は、『スティーブ・ジョブズ』や『アインシュタイン』についても書いている有名な伝記作家です。そして、ジャーナリストということもあって、彼の書き方は本人たちが残した様々な記録をベースに書きます。レオナルドの場合は、本人が残したノート=ジャーナルが中心です。

 レオナルドについて、克明に彼自身が残したノートから見えてきたレオナルド像を上下二巻で紹介してくれた後に、アイザックソンは現代人がレオナルドから何を学べるのかをまとめてくれています。そのうちの一つが「紙にメモをとること」です。

 「その死から500年が過ぎた今でも、レオナルドのノートは現存し(しかも、想像がつかないほど、高価な値段が付いています!)、私たちに驚きと刺激を与えています。私たちがノート(ジャーナル)に記録を残すと、今から50年後、孫の世代が驚きと刺激を受けるかもしれません。ツイートやフェイスブックの投稿では、そうはいきません」(下巻の最後、310ページ)

 学校で一般的に理解されているノートと、レオナルドがとっていたノートは根本的に違います(それもあって、タイトルではあえて「ジャーナル」を使っています)。後者は、自分が見たこと、考えたこと、聞いたこと、疑問や問い、したこと、これからすべきと思っていることなどなど(要するに、自分の好奇心の足跡!)を残すスペースです。記録しないと、そのほとんどは忘れられてしまいますから。レオナルドの大きな特徴は、その絵を描く才能と視覚思考の持ち主だったことから、文字よりもスケッチの方が多いぐらいであったことです。そして、彼の場合はテーマも限定されません。一人の人がよくこれまで多種多様なことに興味がもてたと凡人は思うほどの幅の広さです!(もちろん、限定することも可能ですが! それが、国語のために子どもたちがとる「作家ノート」や「読書ノート」であり、理科でとる「科学者ノート」であり、社会科でとる「市民ノート」や「歴史ノート」です。算数・数学の「数学者ノート」も可能でしょうか? 体育や音楽や家庭科のノートは?)

 

 レオナルドの場合は、「探究する」ため、自分が「学び続ける」ため、「楽しむ」ために、記録に残していました。「これについては出版する」のような書き込みも繰り返しあるようですが、結果的に彼はそれを実現させませんでした。「探究する」こと、「学び続ける」こと、「楽しむ」こと、「発見したり、再発見したりする喜び」を、ほとんどその死まで優先したので。

 板書のノート指導とは、ほぼ180度転換している、このジャーナルを子どもたちがレオナルドのようにつけられる指導をしてみませんか? 板書のノート指導が、子どもたちの宝物になることはあり得ませんが、ジャーナルの方は本人だけでなく、家族、知り合い、ひょっとしたら人類の宝物になる可能性をもっています!

 それを指導する際に参考になる本が今月末に出ます。

 http://www.tsukiji-shokan.co.jp/mokuroku/ISBN978-4-8067-1634-1.html

 この本は自然/野外に焦点を当てていますが、詳しく紹介されている探究の方法は、多くの分野でそのまま使えます。(まさに、レオナルドが自分のノートに残していたのと同じように!)