リーディング・ワークショップの日本の教室での実践版をつくろうということで、2014年にプロジェクト・ワークショップ編『読書家の時間』が刊行されました。それから8年が流れ、今年、『読書家の時間』の改訂版が出版されることになり、現在、校正中です。
8年前と比べると、教育の世界にも目に見える変化がいくつもあります。例えば、IT機器が教室内外での学びに登場する頻度は大きく増え、超アナログの私でさえも、恐る恐るオンラインの提出機能を使うことで、教室内で使う「紙」プリント類の量が格段に減ったりしています。カリキュラムや指導要領、学校に期待されることの変化を感じておられる方もいらっしゃることと思います。
変化には柔軟に対応しつつ、子どもたちの学びにプラスになることは貪欲に取り入れられるといいのかもしれません。とはいえ、変化や新しいことに翻弄されないためには、それらを吟味できる視点も必要です。その土台にあるのは「一定期間、変わらなかったこと・大切にされ続けたこと・そこから発展してきたこと」と考えてもいいのかもしれません。
『読書家の時間』改訂版では、ICT機器を自分の授業の指導で使うだけでなく、全校生徒と職員に対するICT機器関連の利活用指導も同時に行う必要に迫られるという厳しい状況に直面する教師も登場します。その中で、GIGAを追い風にして、子どもたちの学びをしっかり後押しする、目の覚めるような中学校の実践例を展開します。この教師は、何も考えずに用意されたプラットフォームに乗るのではなく、新しい技術が可能としてくれることを吟味しているのもよくわかります。そして、何よりも、子どもたちと一緒にICT機器使用のマナーも考えながら、それぞれが読み書きを楽しみ、成長できるように後押しすることを大切にしています。子どもたちのスマートフォン・トラブルが大幅に減ったという副次的な効果もあったそうですが、納得です。
読書家の時間でこの8年間変わらず、大切にされ続けたことも見えてきます。改訂版で新しく加わった章の一つは、読む文化が一つの教室から教室の外へと広がっていく様子を描写しています。この章では、セクションの番号に「0(ゼロ)」という表記が使われています。0(ゼロ)」という表記を使った理由は、「読む文化」を広げるための前提となる項目を確認するため、とのことです。そして、その前提は実にシンプルです。以下に引用するように、この教師が担当しているクラスの子どもたちが、毎年、本を読むようになったのは、本を読む時間をつくっているからなのです。
「リーディング・ワークショップを実施している教室では、「国語の授業」と「読書」が融合されています。つまり、国語の授業のなかに必ず「読む時間」があるのです。子どもたちは、それぞれ自分にあった本を選んでいます。教師が紹介した本、学校図書館で借りた本、友達からすすめられた本、自分のお気に入りの本など、多くのなかから選ぶことができます。そして、一人ひとりが本の世界に入り込むかのように、夢中になって読んでいます。読者があまり好きではなかった子どもも、教師による選書のカンファランス(第4章参照)を通して、少しずつですが自分に合う本が見つけられるようになり、興味をもつようになっていきます」
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ここしばらく、改訂版についてプロジェクト・ワークショップのメンバーとやり取りする中で、2014年刊行の『読書家の時間』ともうすぐ出版予定の『改訂版 読書家の時間』の両方の執筆に関わったメンバー2名に、この8年間についてさらに質問してみたくなりました。
まずは、現在は横浜市で校長をしている広木先生です。先生自身の立場も校長に変化しています。「8年間で変わったこと」「変わらずに大切にしていること」を尋ねてみたところ、以下を挙げてくれました。広木先生は、8年前に自分の教室にあったヒロキ図書館を校長室に復活させ、校長となった今も、機会を見つけて読み聞かせしたり、子どもたちと本についてのやりとりを楽しんだりしています。
【変わったことは?】
・大人も子どももさらにデジタルでのコミュニケーションが進みました。小学生でもスマホを使いこなす子が大勢います。
・読書記録はデジタルノートで、紹介は写真を使ってできるようになりました。アンケートも楽々とれます。
・教師の平均年齢がさらに若くなりました。それもあって学年がチームとなって子どもにかかわっています。教科担任制も進んでいます。
・担任裁量で授業の工夫、挑戦が難しくなり、教科書に頼った授業が多いのが実情です。
・教科横断的な授業を行うことは当たり前になってきています。
・登校支援が必要な子どもが増加してきています。
【8年間で変わらないことは? 8年間を通して大切にし続けたことは?】
・読書の時間を確保すること、自分から本を選ぶことの大切さや楽しさを伝え続けること
・教師として、授業は自分でつくりだすもの、子どもの主体性に火をつけるかかわりを追求すること、がいかに楽しいかということ
・読む、書くはすべての学びにつながる力で、国語という教科に収めず、すべての学習場面で力をつけていきたいということ
・子ども同士の読みや考えの交流は、こちらが想像する以上に豊かで深いということ
・子どもを待ったり、任せてみたりする勇気をもつこと
2014年版で、子どもたちが読むことに夢中になっている様子を見せてくれた、小学校で教える冨田先生には、8年前から現在に至るまで、「変わらないで大切にし続けたこと」と「そこから自分の中で、より発展してきたこと(より強く思うようになったこと)」を尋ねてみました。
【8年前から現在に至るまで、変わらないで大切にし続けたこと】
その子の大切にしているものを大切にするということです
「読書家の時間」や「作家の時間」には
その子が大切にしていることがとてもよく分かります
みんなそれぞれ学んでいるものが違うからです
【その中で「自分の中で、より発展してきたこと(より強く思うようになったこと)】
最近の教育界の潮流の中に、「資質・能力」とか「思考力・判断力・表現力」とか、「力」という字が目につきます
決して子どもたちの力を引き出そうとすること自体は悪いことであるとは考えませんが、
私が行っているワークショップ「読書家の時間」が「力」を引き出すために行っているという感じではありません
「読解力」とか「探究力」とかワークショップの文字の近くに並ぶと
最近では少し違和感を感じています
自分の良さに気づくこと
自分の良さに気づいてくれた人がいること
お互いに共に時間を過ごしたこと
こういう人間味に満ちた時間、空間、仲間があったことが
心の中でその子を温め続けるのではないかと考えています
「力」とかそういうものは
どちらかというと副次的なもので
夢中になって何かを作ること(欲を言えば仲間とできること)それ自体が
10年後20年後に宝物になると思います
究極言えば読み書きでなくてもいい
学校という場所に仲間と共に夢中になれるものがあったということが
その子のこれからの幸せにつながるのではないかと思います
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→ 冨田先生が答えてくれたことを見ていると、個々の違いに対応できるカンファランス・アプローチだからこそ、それぞれの子どもの学びをサポートできる、でもそれぞれの子どもは孤立していないことを、改めて思います。
そういえば、2014年版には、以下のような箇所がありました。
「...それでも一つ言えることは、すべての子どもは、私たち教師が気付かない無限の可能性をもっていて、子どもたちが学習をするたびに、そこから滴り落ちて輝く「その子らしさ」を見せてくれるということです...
...
教師が見たい部分だけ見られるように子どもたちが選択する機会を奪って、教師が指定した学習だけをやらせたり、主体性をもってやっているように見せかけたりしていたのでは、子どもは教師の都合にこたえるだけで、教師が望んでいるような姿しか見せてこなくなります...」(2014年版 198-199ページ)
→ また、一人ひとりの読み書きをサポートする中で、冨田先生は、10年後、20年後の宝物につながることを見ています。
2014年版の以下の箇所を思い出しました。
「読書家の時間は、子どもたちの「その子らしさ」をありのままに受け入れられる素地をもっているだけでなく、子どもたちが自分で読む力をつけていくことができる教え方・学び方であると思います。自分のやりたいことが実現できて、それを教師が一緒に手助けしてくれたり、自分の願いに近づける助言をくれたりする。実現できたことを、クラスの友達が一緒に喜んでくれる。そういったことが可能なのです」 (2014年版、200ページ)
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改訂版、どうぞお楽しみに! また出版時期など最終的に決まりましたら、2014年版との違いなども含めて、改めてお知らせします。
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