2022年4月16日土曜日

おしゃべりな脳 ?

 「おしゃべりな脳」というタイトルにひかれて、チャールズ・ファニーハフの『おしゃべりな脳の研究―内言・聴声・対話的思考―』(柳澤圭子訳、みすず書房、2022年)という本を読みました。「内言(inner speech)」は発声を伴わない頭のなかの言葉のことで、非文法的で圧縮や省略を伴うもの。コミュニケーションのための言語としての「外言」が「内言」化し、思考の道具になるとしたのが心理学者のヴィゴツキーです。その「内言」と「聴声」(幻聴)とを関連づけることで、人間の創造性を説明することができるとは思いもよらないことでした。著者のファニーハフは「内言」について次のように言っています。 


 子どもの頃に内言がどう発言するかに目を向ければ、多様な形態と機能があることも腑に落ちる。子どもが他者と交わす会話が「地下に潜って」―つまり内在化されて―外的なやりとりの無音版を形成したとき内言が現れる、と考えるには十分な理由がある。これはつまり、言葉で行う思考には、他者と行う会話の特徴がいくつか含まれているということで、他者と交わす会話の特徴は、文化の交流様式や社会的規範によって形作られる。(『おしゃべりな脳の研究』17ページ)

 

 「内言」が社会的起源をもつというこのような考え方をもとに、この本では「言葉の芸術家と視覚芸術家の作品」を参照しながら、「創造力を発揮する重要な方法のひとつは、自己と会話することなのかどうか」ということが検証されます。そしてまた「人間の経験に登場するふつうでない声」すなわち「聴声(あるいは言語性幻聴)」が生まれる理由の考察がなされて、そのように「自分に聞こえる声」を「混乱した脳による無駄口」ではなく、「未解決の情緒的葛藤を知らせる過去からのメッセージ」として捉える可能性が語られます。

 「内言」が現れることで、私たちは「自分自身と話す」ことが可能になります。

 

自分自身と話すことは人間の経験のひとつであり、決して万人に起きることではないものの、精神生活の中でさまざまな役割を果たすらしい。ある重要な理論によると、脳内の言葉は心理的「ツール」として機能し、思考の中でいろいろなことをするのを助けてくれる。ちょうど、家の修繕作業が工具のおかげで可能になるようなものである。内言は、計画を立てたり、指示したり、励ましたり、疑ったり、言いくるめたり、禁じたり、省察したりできる。クリケット選手から詩人に至るまで、人はあらゆる形で、ありとあらゆる目的のために自分自身と話す。(『おしゃべりな脳の研究』16ページ)

 

ヴィゴツキーやミハイル・バフチンらの「対話」論を踏まえながら、ファニーハフは、「自分自身と話す」こと、すなわち「内的対話」こそが創造的な思考の契機になるという主張を展開します。小説家や芸術家へのインタビューをもとにして「内的対話」の働きに関する次のような考察が生まれます。

 

 本書で取り上げた経験の中には、私たちが内的対話と定義する範囲を少し広げるように見えるものもある。たとえば、小説家の創造的な思考は、相互的な会話より、立ち聞きか盗み聞きとの共通点のほうが多そうである。私たちがインタビューした作家で、登場人物とじかに語り合うと言う人はまれだった。私自身の小説執筆についていうなら、登場人物に返事をしてしまうと、そっと打ち明けてもらっている話がそこで途切れるような気がする(思い違いかもしれないが)。開放された駐車スペースのモデルは、精緻化させる必要があるだろう―いったん声が現れたら、対話で交流しなくても(おそらく社会的表象の特異な活性化によって)心の中に入ってこられるようなモデルへと。たぶん、人はこんなふうにほかの声を脳内に入らせることしかできないだろう。なぜなら、人には内なる会話の対話的構造があるからである。そして、それは人間としての発達の結果だからである。確かなところはわからない。しかし、これは少なくとも、古来から不可解だった創造性のプロセスに対する新たな考え方ではある。(『おしゃべりな脳の研究』266ページ)

 

 その創造性は、作家の創作行為ばかりでなく、「聴声」というかたちであらわれる言語性の幻覚を理解する鍵でもあるとファニーハフは述べています。いや、無から有を生み出すための「もがき」のなかに必ず立ち現れることだと言っているのです。作家の創作の場合は健全で、「聴声」は「病的」であるというような見方は、線引きできないところに線を引いているようなものだという主張でもあります。ファン・ゴッホやピーター・レイノルズといった、エリンさんが「理解の種類」の「メンター」として選んだ芸術家の言葉は、「内的対話」が創造的な思考を生み出すことを証していました(ファニーハフもファン・ゴッホと弟テオとの手紙のやりとりを取り上げています)。

 『理解するってどういうこと?』を書くときに自分の頭のなかで起こったことをエリンさんはつぎのように書いています。

 

障害を乗り越えるということは、自分自身の強さを知るということです。それを自ら選んで取り組もうが、そういう状況に投げ込まれてしまったのであろうが、難題に直面したことなる人ならだれでも、自分にどれほど理解する力があるかに気づくというのはどういうことなのかを知っていると思います。けれども、多くの場合、こうした意識を持つには、自分の内側からひっきりなしに聞こえてくる「自分にはできない」という反対の声に打ち勝たなければなりません。否定的な見方や自己懐疑という悪霊が、多くの人の内面にまだ巣食っているのです。この章の後半部分で述べることになりますが、本書に書いた言葉の多くは、私の頭のなかにこだまする「誰も気になんかしていないよ、エリン!」という合唱と闘いながら生み出されたものです。『思考のモザイク』を書いた後に、今度は私一人だけで本を書くということは、自分が下手な書き手であり、私のアイディアなどは誰の役にも立たないのだよと、ささやく声を抑えなければならない営みだったのです。私にとってそれは、自己懐疑という悪魔のような力との総力戦にほかなりませんでした。自己懐疑はもがきの一部なのです。そういうもがきとの闘い方を、誰かが若い頃に教えてくれていたらよかったのに、と思います。(『理解するってどういうこと?』157ページ~158ページ)

 

彼女も自分の内側の「声」と闘いながら書いていたわけです。ファニーハフによる「おしゃべりな脳」の研究は、私たちの頭のなかで起こる「理解の種類」の成り立ちを説明するものであることがよくわかります。エリンさんが示した「理解の種類」とは、「おしゃべりな脳」の働きのヴァリエーションだと言っていいのかもしれません。「もがく」という「理解の種類」を経験することは、自分のとらわれていたことがら・自分を束縛していた何かに気づくことでもあります。理解するということは、苦しみの源にある「物語」に私たちがたどり着く過程なのかもしれない。何かをわかろうとして「もがく」ことは、自分の抱える問題は何かを明らかにしようとする営みではありますが、むしろその問題がどんな「物語」をもっているのかというふうに考え直すことで「理解」に至る道を見つけることができるのかもしれません。そういうことをファニーハフの本は教えてくれます。

 

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