【時々投稿をお願いしている吉沢先生に、今回も投稿していただきました。】
「現代詩は難しい、何を言っているのかわからない」という声をよく聞きます。私もそう思いますが、一方で、「難しいけど、この詩いいよねえ」と言いたくなる詩もあります。難しいし、よく分からない部分もあるけれど、何か魅力かある、感動する。----そんな詩との出会いを私は大事にしてきました。
今回は、私がそのような出会いを経験した詩を紹介しながら、むずかしい詩をどう読み解くかについて、お話したいと思います。
私の使う手法は、次の3つです。
○事実関係をおさえる。
○比喩や擬人化された表現について考える。
○質問を見つける。
この3つのそれぞれについて、確からしい答えが得られることもあるでしょうし、「~かもしれない」という所までしかいけない場合もあるでしょう。それでいいのです。これは不確かだが、こう考えることも可能だ、というふうに心に留めておくのです。
*
脱走 ★1
--- 一九五〇年ザバイカルの徒刑地で
石原 吉郎
そのとき 銃声がきこえ
日まわりはふりかえって
われらを見た
タイトルの「脱走」、「徒刑地」、本文1行目の「銃声」。これらの言葉から、この詩が、労役に服する人たちの中から脱走者が出て、それを監視する人が銃を発砲した、という状況を扱っていることが分かります。さらに、歴史に詳しい人であれば、「1950年」「ザバイカル」という言葉から、第二次世界大戦後、旧ソ連が、日本の軍人をシベリアに抑留させたことであろう、と推測できるでしょう。
「日まわりはふりかえって/われらを見た」とあります。ひまわりは太陽の動きに合わせて、花や茎の向きを変える性質を持ちますが、人の方へ振り向くことはありません。それをあえて、このような表現をするのはなぜでしょう。例えば、銃声に反応したように、日まわり(という自然界のもの)も銃声や銃声に反応する人間に反応した、ということなのだろうか。あるいは、振り向いたのは「われら」であって、その自分たちの目に、それまで意識していなかった「ひまわり」という自然が鮮やかに飛び込んできた、ということなのか。
ふりあげた鈍器の下のような
不敵な静寂のなかで
あまりにも唐突に
世界が深くなったのだ
見たものは 見たといえ
「鈍器」とは、刃はついていないが固く重みのある金槌や棒などの器具のことです。それを「ふりあげた」のは誰なのか。「不敵」とは、恐れを知らず、敵を敵と思わない大胆な様を言います。「不敵な静寂」とはどのような静寂なのでしょうか。
さらに私が難しく感じたのが、「世界が深くなった」という表現です。脱走者が出た。監視兵がそれを狙撃しようとして発砲する。それは、まさに「唐突」でショッキングなものだったに違いありません。しかし、それは単に「ショックだった」ということではない気がします。この世界に対する見方が揺さぶられた、認識を変えることを迫られた、ということではないかと考えます。
その上で、詩人は「見たものは 見たといえ」と書きます。これは誰に呼びかけているのでしょうか。目撃している自分を鼓舞しているのでしょうか。
われらがうずくまる
まぎれもないそのあいだから
火のような足あとが南へ奔(はし)り
力つきたところに
すでに他の男が立っている
脱走を試みた男の故郷は、ザバイカルから南の方角にあるのでしょう。そこに向かって走る人の「火のような足あと」という表現はイメージをかき立てます。
「すでに他の男が立っている」とあります。「他の男」とは誰でしょうか。脱走を試みた男がもう一人いた、ということなのか。あるいは、脱走を試みて砂地を走っていき力尽きて倒れてしまう男が他にもいた、何人もそういう男がいたのです、ということの象徴的な表現なのでしょうか。
あざやかな悔恨のような
ザバイカルの八月の砂地
爪先のめりの郷愁は
待伏せたように薙ぎたおされ
沈黙は いきなり
向きあわせた僧院のようだ
「爪先のめり」とは、体が前のめりになっている状態です。つまり、不安定でありながらも、突き進もうとする故郷への強い気持ち(郷愁)があるのです。それが薙ぎ倒される。脱走の失敗が暗示されています。
われらは一瞬腰を浮かせ
われらは一瞬顔を伏せる
射ちおとされたのはウクライナの夢か
コーカサスの賭か
男の脱走が失敗に終わったことが、はっきり示されています。その男はウクライナかコーカサスの出身者だったのでしょう。
すでに銃口は地へ向けられ
ただそれだけのことのように
腕をあげて 彼は
時刻を見た
騾馬の死産を見守(まも)る
商人たちの真昼
脱走を試みた男が死んだことが暗示されています。「彼」は銃を向けた監視兵でしょうか。非常に事務的に役目をこなし、男の死亡時刻を確かめます。「騾馬の死産を見守る/商人たち」とは、何を意味するのでしょう。騾馬が仔馬を死産しても、騾馬を仕事の手段としてしか見ない商人が例えとして、使われているような気がします。
砂と蟻とをつかみそこねた掌(て)で
われらは その口を
けたたましくおおう
砂も蟻も、掌で掴もうとしても指の間からこぼれてしまいます。それは無力感の象徴でしょうか。そんな無力な掌で、「われらは」自分の口を覆って、自分の叫びを押さえ込もうとする、ということなのでしょうか。
あからさまに問え 手の甲は
踏まれるためにあるのか
黒い瞳が 容赦なく
いま踏んで通る
脱走を二度と許さないぞという監視者が、囚人の掌を踏んで歩きます。それに対して、「あからさまに問え 手の甲は/踏まれるためにあるのか」という、詩人は書きます。実際には声に出せない叫びです。
服従せよ
まだらな犬を打ちすえるように
われらは怒りを打ちすえる
われらはいま了解する
うしてわれらは承認する
われらはきっぱりと服従する
激動のあとのあつい舌を
いまも垂らした銃口の前で
私は、この部分には、「服従するか、死ぬか」のいずれかを選ぶしかない、という状況での、「われら」の葛藤が描かれていると感じます。そのためには、まず怒りを打ちすえ、そして了解し、承認しまし、はっきりと服従する、というプロセスを踏むのだ、と詩人は言います。この、くどいほどの言葉の重ね方に服従することへの抵抗感、苦しみを私は感じます。
まあたらしく刈りとられた
不毛の勇気のむこう側
一瞬にしていまはとおい
ウクライナよ
コーカサスよ
脱走を試みた男は、一瞬にして射殺され、その行為は虚しく、詩人自ら「不毛な勇気」として認めるしかない、そのような状況です。その向こう側に遠ざかってしまった故郷の名を呼ぶしかありません。
ずしりとはだかった長靴(ちょうか)のあいだへ
かがやく無垢の金貨を投げ
われらは いま
その肘をからめあう
ついにおわりのない
服従の鎖のように
(注 ロシヤの囚人は行進にさいして脱走をふせぐためにしばしば五列にスクラムを組まされる。
「かがやく無垢の金貨」は、自らの純粋なもの、というふうに読めます。それを、「ずりしとたちはだかった」敵に差し出すわけですが、その私たち自身は、肘を絡めあわないといけない、という絶望的な状況にいます。
*
私がこの詩に出会ったのは学生の時でした。比喩やイメージがよく分からない部分がありつつも、すごく感動したことを覚えています。「見たものは 見たといえ」「ザバイカルの八月の砂地」「射ちおとされたのはウクライナの夢か/コーカサスの賭けか」など、口に出して読んでは、そのフレーズの持つリズムに美しさを感じました。
石原吉郎は、シベリアでの体験をもとにした詩を多く残しています。どのような体験をしたのか、どのような思いで詩を書くようになったのかについてのエッセイもあります。石原吉郎という人と詩を理解する上で、それらの文章を読むこともおすすめします。★2
★1 『石原吉郎全集 I』(花神社, 1979年)26~29ページ
★2 例えば、『石原吉郎詩文集』 (講談社文芸文庫, 2005年)、畑谷史代『シベリア抑留とは何だったのか──詩人・石原吉郎のみちのり』 (岩波ジュニア新書, 2009年)
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