2025年5月17日土曜日

共有の問題として語り合うこと

  哲学者・小野純一さんの近刊『僕たちは言葉について何も知らない』(ニューズピックス、2025年)を読みました。この本で、著者の小野さんは、「言葉」について、①「言葉は記号である(論理的)」②「言葉には含みがある(心理的)」③「言葉は〈場〉である(相互作用的)」という「三つの見かた・考えかた」を示しています(『僕たちは言葉について何も知らない』34~36ページ)。

 『理解するってどういうこと?』第5章にある「表5・2 読み・書きを学ぶ際の主要な構成要素 さまざまな認識方法」には「表面の認識方法」として三つ、「深い認識方法」として三つの領域がそれぞれ掲げられています(『理解するってどういうこと?』167ページ)。 
 小野さんの言う「言葉」についての「三つの見かた・考えかた」のうち①は、エリンさんのいう「表面の認識方法」に対応しています。言葉を「記号」として捉えるための「認識方法」が「表面の認識方法」です。「文字と音声」「語彙」「構文」の「認識方法」を知らなければ私たちは言葉を「記号」として捉えて、流暢に読み・書きすることができません。小野さんの言葉を借りれば「平板な(一つの意味しかない)ジグソー・パズルを、決まった通りに並べるように、言葉を理解する」ことです。本や文章の読みだと、そこに書かれている「情報」を取り出すように「理解する」ことになります。だから「表面の認識方法」なのです。
 しかし、言葉を理解することはそれに留まらない営みです。小野さんは「言葉は情報という客観だけではなく、新しい考えや感情といった主観に働きかけます」と言っています。エリンさんは「筋を捉えたり、ヒントになるアイディアを深く理解したり、自分の理解を拡張して応用するための理解」は「表面の認識方法」を乗り越えます。だから「深い認識方法」なのですが、これは小野さんの言葉の「見かた・考え方」の②と③にあたるものになります。読んだり、聞いたりした話や文章が読み手・聞き手にとって大切なものになるのは、この②や③の理解があるからだと言ってもいいでしょう。「新しい考えや感情」が喚起されるから、私たちはその話や文章を面白いし、自分にとって意味があると思うのです。
 エリンさんが「深い認識方法」の「優れた読み手・書き手となる領域」は、小野さんの言う③の「言葉は〈場〉である(相互作用的)」という「見かた・考えかた」を前提としたものだと考えられます。エリンさんは「優れた読み手・書き手となる領域」の「一番効果的な方法」が「本や文章について自分たちの考えたことを話し合うこと」だと言っています。「話し合う」ことが読み手・書き手の相互作用を引き起こすからだと考えられます。
 「自分たちの考えたことを話し合う」こと自体に大きな意義がありますがが、一人ひとりの考えたことや経験を述べ合うだけで終わったり、お互いの発言に共感するばかりで、本や文章の内容について深めることができなかったりすることも少なくありません。小野さんの本を読むとこの問題をもう少し掘り下げて考えることができます。たとえば。小野さんは次のように言っています。

「そこで私たちは、言葉とは個人それぞれの感情だけでなく、個人を超えて機能する概念であるという視点を持つ必要があります。そうすることで、不要な誤解や行き違いを、共感の有無ではなく共有の問題、意味の〈ずれ〉としてとらえることができます。それは互いに問題を〈共有〉して、その解決に取り組む共同作業に転換します。そうすることで、問題を個人的にとらえず、理性的になることができるのです。」(『僕たちは言葉について何も知らない』174ページ)

「当たり前ですが、経験や記憶、立場や事情は人それぞれです。それぞれの〈当事者だけにかかわる〉出来事を、自分のことであるかのように語るのは、私有であって、共有ではありません。自分のことに結びつけて語るのではなく、共有の問題として語るには、自分の経験から語ることをやめる必要があります。」(『僕たちは言葉について何も知らない』176~177ページ)

 実際、エリンさんは「優れた読み手・書き手となる領域」で各自の思考を「共有するための方法」を考えるときに「ブッククラブですること」を考えてみるのがわかりやすいと言って、次のような例を出しています。

「私がブッククラブに出かけて、読み終わったばかりの小説の最後の章をそれぞれ書き出してみましょう、などと提案するでしょうか? 私がブッククラブでそんな非常識なことを提案しようと考えたことはけっしてありません。しかし、今言ったことは、私の知るところ、理解を「教える」ための教材のなかでたくさん行われている「活動」の一例にすぎないのです。私が、「最後の章のあらすじを書き出してみましょう」などと提案することはけっしてありませんが、「その作者なら考えたかもしれない別の終わり方をみんなで論じましょう」という提案ならするかもしれません。その小説の終わり方について、その作者ならこう考えたかもしれない、いや、そうは考えるはずがないということを、1時間ばかり話し合う素敵な時間をみんなで過ごすことができるからです。」(『理解するってどういうこと?』183ページ)

 読み終えた小説の「最後の章のあらすじを書き出してみましょう」では各自が要約したことの確認で終わってしまいます。そこに参加者相互に小野さんの言う「意味の〈ずれ〉」は生まれません。各自の「あらすじ」を確認して終わることになりかねません。しかし「その作者なら考えたかもしれない別の終わり方をみんなで論じましょう」という課題なら、各自の小説の読みや解釈をもとにしながらも「意味の〈ずれ〉」をもとに「互いに問題を〈共有〉して、その解決に取り組む共同作業に転換」することができますし、「自分のことと結び付けて語るのではなく、共有の問題として語る」ことができます。
 それは、今読み終えた小説についての「深い認識」を生み出すことにつながるでしょう。一人ひとりが小説を読んで考えたことを、自分の経験と結びつけながら語るのではなく、参加者「共有の問題」として語ることになりますから、その小説の登場人物、出来事、筋立て、テーマ、文体その他について、一人ひとりで読んでいたときよりもさらに深い意味づけが可能になります。「共有の問題」を介した「共同作業」のようなものですから、共同してその小説を深く読み解く会話が行われることでしょう。そうした対話のなかに各自の経験や状態を反映させることもできます。読み手同士の理解にもつながっていくはずです。

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