2024年3月22日金曜日

特別支援学級の作家の時間で子どもたちのベースキャンプを守る〜弘前大学の先生方の訪問記より〜

(全ての人物の名前は仮名です。障害特性や学習場面等にも、ある程度のフィクションが入っています)


特別支援学級から見る卒業式の景色


 先日、春の風が吹く中で、本校でも6年生が笑顔で証書を受け取り、笑顔で卒業していきました。

 実は、心の中は笑顔と言い切れるものではありません。特別支援学級の子どもたちに限らず、中学校への進学というものは、強い不安を感じるものです。中学校ではどんな環境が待っているのか見通しが持てず、「先生は厳しいかもしれない」「勉強は難しいかもしれない」と憶測だけの噂話に翻弄されます。小学校でも、3月は卒業式の練習が立て続けに入り、何をするにも「小学校生活最後」という言葉で終わりを意識させられます。私が受け持っている子どもたちも、不安を強く表してしまう子がいました。学校では気丈に振る舞えるのですが、その反動で家で感情的な行動をとってしまうのです。ひときわ感受性の高い子どももいて、卒業に漂う寂寞とした空気を敏感に感じとってしまいます。

 特別支援学級は、家庭との情報共有も通常学級と比べて丁寧に行いますので、学校での「がんばり」が子どもの生活のどこで新たな歪みを生じさせているのかも把握し、「がんばり」の程度を調整していきます。「今回は1時間だけにしようか」と卒業式の練習を短く切り上げるような支援を行っていきます。例えばある子は、卒業式の練習に参加できてしまうからこそ、あとで精神的疲労の蓄積で爆発してしまうため、教師の支援の下、「がんばり」の程度を調整するということです。一方で、卒業という時期だからこそ積める経験や得られる感情もあり、それらが子どもたちを育てるまたとない機会にもなります。ですから、その子にあった取り組み方への調整を支援者は行っていくことになります。

 そんなこんなで、かれらは無事に卒業していきました。


 特別支援学級に在籍する子どもたちが卒業していく姿は、その子のこれまでの物語が凝縮されています。特別支援に在籍はしているが、交流級担任が呼名をする子ども。支援級担任が入退場に寄り添い、けれども、証書授与は(ステージの陰でサポートされながら)自分の力で受け取る子ども。このような卒業式へのそれぞれの向き合い方は、これまでの支援者がどのようにその子どもの支援を行ってきたのか、そのスタンスが顕在化しています。特別支援学級在籍児童のなかでも、それぞれに適した形で卒業していき、良い卒業式だと思いました。


弘前大学付属小学校の先生方の「作家の時間」授業参観


 卒業式よりも前の2月某日、弘前大学付属小学校の先生方が授業の参観に来てくださいました。弘前大学の宮﨑充治先生とは、以前お勤めされていた桐朋小学校で行われていたブッククラブで幾度かお会いし、久しぶりの再会となりました。また、同付属小学校の今先生と小田桐先生は、校内でも作家の時間や読書家の時間を導入しようとしてくださっているそうです。学力差のある複式学級で作家の時間にチャレンジしてくださっていて、私が行っている4年生・6年生の特別支援学級での作家の時間と教室の実態が似ています。何か学びの種がお互いに共有できたら良いと思い、ご見学していただくことになりました。


 この日の作家の時間で、子どもたちは最終出版に向けて原稿を完成させたいと思っています。本当は2月が最後の出版の予定だったのですが、大介くん(以前のブログにも登場しています)が「自分の作品をもっと出版したい!!」と懇願し、私の方が折れたので、目まぐるしい3月にも出版することにしました。年間4回の出版が5回になりました。

 出版はその頻度が多ければ多いほど、原稿が書けていないことに対する子どもの不安や、原稿を全員揃えなければならない支援者の圧力を、軽減することができます。1年に1回の出版でしたら、「〇〇さんが提出していない!!提出させなくちゃ!!」といったことを心配してしまいますが、月に1回程度出版していると、特に全員揃っていなくても、今回できた作品を紹介するスタンスになるので、提出できていない子に無理に催促する必要がなくなります。ですから、その分手間はかかってしまいますが、支援者にも子どもにも安心な作家の時間をつくることができます。


すべて会話文と擬音語の作品


 ミニ・レッスンは、私が前から気になっていた地の文と会話文の書き分けです。動画の影響が大きくて、どうしても会話文だけの物語展開になってしまう子どもが何人かいます。もともと自分以外の視点に立つことに困難さのある子どもたちですから、以前にも取り扱ったことがあるのですが、なかなか身につきません。

 エリック・カールの『はらぺこあおむし』と同氏といわむらかずおさんとのコラボ作品『どこへいくの? To See My Friend!』を用意しました。前者はもちろん地の文と会話文の両方が書かれています。後者は会話文だけで進んでいく絵本です。6年生は地の文と会話文をかき分けることができるので、こちらも教材として用意しました。

 ミニ・レッスンの内容は、宮﨑先生が書いてくださった訪問記が詳しいので、引用します。


宮﨑先生の「学級訪問記」より


 はじめは「ミニ・レッスン」だ。教室の前にはモニターがあり、そこの箱状のベンチに座ってみんなが集まる。この日のミニ・レッスンは会話文と地の文について、2冊の絵本と子どもたちのこれまでの作品を使って、「だれが、なにを言ったのか」ということに焦点づけて行われた。子どもたちの作品はロイロノートに納められ、それがモニターに映し出される。

 その中で、篤くんの作品に焦点があてられた。篤くんの作品は絵と文で構成されているが、一部は先生と一緒に文章化していっている。その物語の中に登場人物たちが武器で闘うシーンがあった。篤くんはそのシーンを「バシッ、ぎゃー、ドス」といったように擬音語だけで表現する。先生はそのページに対して、「これはだれが何でどうしたの?」といったように、動作主とその擬音を結び付けようとしている。篤くんに先生は「このまえ、だれが何をしたって書いたら、みんなから分かりやすくなったって、言われたよね」と誘いかけるが、篤くんはそうした表現方法になかなか同意していないようだった。しかし、篤くんが語り始めるとどの擬音がだれが、どの武器をつかった時の音なのか。彼の頭の中には物語のすべてが入っている。

 先生が用意した2冊の絵本の一つは、エリック‧カールの『はらぺこあおむし』。こちらには語り手がいて、(子どもたちから「ナレーター」という言葉でした。)はらぺこあおむしの行動をその視点から語っていく。もうひとつの絵本は「 」はついていないものの、会話文で物語がすすんでいくものであった。(注 『どこへいくの? To See My Friend!』です。) 先生は後のふりかえりで、どちらの表現方法もいいんだよということを伝えるために、この2冊を用意していたという。

 私は、篤くんはあえて「擬音語」だけで表現しているのかもしれないと感じた。地の文が入ると、スピード感が落ちるからだ。一方、先生は主語をいれることによって、文章技法としての「ナレーター」による語りを教えているというよりも、ナレーター=語り手という物語を俯瞰して語る人という認識の仕方を提示しているように思えた。物語と小説の違いはこうした語り手、客観的に自己を対象化する存在の有無にある。このレッスンは文章技法のレッスンのようだが、認識方法のレッスンなのではないだろうか。

 ここで、ミニ・レッスンは公開カンファランスのように映る。つまり、篤くんの作品をとりあげ、それを直接の指導の対象にしているかのように見えるがそうではない。篤くんの作品を通して、全員に先生は語りかけている。そして、ミニ・レッスンにおいて、教師は提示するが技法の選択は子どもに委ねられる。先生が2冊の本を用意したのはその配慮だろう



子どもが今味わっている技法を楽しむことができる時間を十分につくる


 非常に深い分析でありがたいことです。

 篤くんは十分に能力はありますが、自分の表現とは違う技法を習得するレディネスはできていません。篤くん自身の特性もありますし、篤くんのこだわりでもあります。宮﨑先生の推察の通り、篤くんはこの表現方法ができる喜びを感じとっている最中なのかもしれません。

 たとえば、幼児期の絵画表現において、スクリブルや頭足人などの特有の表現がありますが、それが稚拙だからといってスクリブルや頭足人を書く喜びを味わう時間を十分に設けず、学童期の技法を教え込むことで作品の質を引き上げようとする指導行為は、子どもに関わる専門家として間違った指導であるように思います。大きな白紙に、クレパスやサインペンで自分の腕の動きと呼応した美しい線を走らせるスクリブルは、心の解放や能動的に環境に働きかける楽しさなど、様々なよい影響があるでしょう。その子の発達段階はスクリブルを求めている可能性があります。決して良い作品を生み出したいわけではなく、良い描き手を育てたいのです。それと同じような状況が、擬音語だけの文章を書く篤くんの中にある可能性を私は見ていました。

 けれども、篤くんの書き手としての成長を俯瞰して見た時、その種は蒔いておきたいところです。そこで今回のミニ・レッスンを用意しました。篤くんが強制と感じてしまうと、大変貴重な学習意欲が減退してしまう可能性があるので、無理強いはしないようにしました。その匙加減は、篤くんと私たち支援者のこれまでの経緯により調整をしています。



大介くんの目覚ましい成長



 この後、「ひたすら書く」の中での私のカンファランス、大介くんの作家の椅子による共有がありました。


「大介くんが自分の意思で書き始めるまで 特別支援学級の作家の時間」へのリンク

https://wwletter.blogspot.com/2023/12/blog-post_22.html


 以前上記の投稿で記した大介くんは、目覚ましい成長を遂げ、今では6年生の友達に自分の作品を音読してもらって作家の椅子を行うまでになりました。大介くんが友達に読んでもらう理由は、彼が極度に「表現することへの不安」「他者評価への不安」を感じやすいということが挙げられます。それでも、友達が読んでくれている声や友達が自分の作品を楽しみ声を上げる様を、廊下から教室を覗くことで楽しんでいるという、一風変わった共有の状況が生まれています。こちらについては、またいつかどこかでまとめたいと思っています。



「避難所から、居場所へ。居場所から、ベースキャンプへ」


 その後、宮崎先生、今先生、小田桐先生とで、作家の時間のベースにあるものをご説明したり、弘前大学付属小で行われている作家の時間の様子などを伺ったりするような、ワークショップの学習会を開きました。

 その中で、宮﨑先生は次のように振り返ってくださいました。


宮﨑先生の「学級訪問記」より


 竹内常一は、「避難所から、居場所へ。居場所から、ベースキャンプへ」と、子どもの居場所の在り方の変遷について述べているが、学級は傷付き注 そういった子もいれば、そうではない子もいます。)をもった、人からの否定的な視線にさらされ、自分を肯定的にとらえることができない彼らを受容するという機能、つまりは避難所としての機能を持ち、ここに居ていいんだという心理的安全性を確保される。その上で、表現を通じて、相互に承認される。承認されることで子どもはそこを居場所だと感じる。承認をされて、ここが居場所だという「オーナーシップ」がもてると、子どもたちは「集団で」、あるいは「個々に」企みはじめる。教室は企みのためのベースキャンプとなるのである。

 一般級では「評価」が求められ、「計画的」な授業が求められる。特別支援学級はそういう意味では今の教育の「エアポケット」なのかもしれない。

 しかし、先生が「評価」していないのではない。「評価」は一般的に、子どもを数値化、ないしは文章の中に押し込める。それは子どもや教師のためではなく、第三者のために「客観的」(ほんとうに客観的かどうかは問われず)に評価するのである。

 先生は子どもに沿いながら、多面的に、多様に、「アセスメント」をしている。本来、教育的な評価とは子どもを励まし、どこにいるかを示し、自分自身が自分のことを評価できるようにするものであろう。

 先生は、アセスメントを通して、その子にそって「計画」をさぐっている。こうした力はおそらく「単元開発」の中で培われた教材=教育内容、あるいはそれを支える学問‧文化への深い洞察もあるだろう。また、特別支援で求められる障害理解や認知の理論も支えになっているのではないかと推察する。しかし、それよりも、目の前にいる子どもの「現し」をどう読みとるか、それをおもしろがっている先生がいて、それが子どもたちを自立的な学習者になるよう励ましているように感じた。



コンフォートゾーンとなる「ベースキャンプ」をつくる


 過分な言葉を頂き恐縮ですが、評価(アセスメント)をして子どもの「居場所」をつくることについて言及してくださり、その部分を引用しました。


 自尊感情を回復させることも私たちの大きな役割の一つです。系統主義的に教科書会社や教師が立案した計画通りに資質、能力を身につけさせていく動線に乗ることができなかった子どもたちが、より経験主義に寄った学習環境に身を置くことで、基本的自尊感情を回復させていくことができるのが、特別な教育課程を編成することができる特別支援学級の強みであるように思います。

 しかし、ご存知の通り、子どもたちは、評価の刃にさらされることが多く、それにより傷ついています。数字はもちろんのこと、文章でもその可能性があることは宮﨑先生のご指摘のとおりです。

 一方で、数字や記号では測れない人間味のある学習評価を行えば、子どもは、嬉しくなり、やる気になり、次のマイルストーンを見つけることができるものです。適切な自己評価、温かな他者評価、心理的安全のもとで交わされる相互評価で、自分の表現を受容し、自分のペースでさらに高みを目指すことができるはずなのです。わたしたち支援者は、子どもを傷つける評価を、子ども理解から次の成長へつなげる評価へと取り戻さなければなりません。


 「避難所から、居場所へ。居場所から、ベースキャンプへ」という言葉を教わりました。少しずつ、自分の身を守る役割から、冒険へ旅立つ前の準備を整える役割へと、教師の役割が変化しています。コンフォートゾーンがあってこそ、つぎのストレッチゾーンにチャレンジすることができるということでしょう。その子なりの自己実現への旅へと踏み出せるように、私たち特別支援の教師は、子どもたちの「ベースキャンプ」を刃のような評価などから守らなければならないのかもしれません。



 文章が長くなってしまい、弘前大学付属小の今先生や小田桐先生のご感想を紹介することができませんでした。また、次の機会にご紹介できればと思います。


新江ノ島水族館のサカサクラゲ



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