2024年3月31日日曜日

批評家として詩を読む 〜谷川俊太郎「みみをすます」〜

★ 時々、投稿をお願いしている吉沢先生に、以下を書いていただきました。

 毎日の授業の最初に詩を読むことを実践しているナンシー・アトウェルは、その理由について、「知的な視点を養い、批評家として反応して、それぞれの詩に対する意見を形成できるようになってほしいから」だと述べています。★1 

 批評家として反応するとは、どういうことでしょうか。それは、単に良し悪しの感想を述べることではありません。アトウェルは、「詩を読んだ経験について語る言葉」を持つことであり、そのためには、詩人が選択している技や組み立て方などの理解が必要である、と言っています。★2

 今回は、詩人の技という視点から、谷川俊太郎さんの詩集『みみをすます』(福音館書店, 1982年発行)★3を取り上げます。この本は、ひらがなによる長編詩6編をおさめた詩集で、帯文には、「和語だけでどれだけの深く広い世界を謳いあげることができるか、著者があしかけ十年に渡って問い続けてきたことに対する、自らの完璧な回答です。」と書かれています。

 その詩集から、書名と同名の作品「みみをすます」を読んでいきます。

【冒頭】

 詩は、次のように始まります。


みみをすます

きのうのあまだれに

みみをすます

 まず私は、「雨垂れの音なんて聞いたことあるかなあ」と思いました。そして、子どもの頃、降りしきる雨が軒のトタンに当たる音を聞いていた記憶がよみがえりました。しかし、「雨音」ではなく「雨垂れ」です。聞こえそうで聞こえないもの。聞こえないようで、聞こえてくるもの。そんな世界に入っていくことを予感します。


【足音を聴く】

 話題は足音に移ります。


いつから

つづいてきたともしれぬ

ひとびとの

あしおとに

みみをすます

めをつむり

みみをすます

ハイヒールのこつこつ

ながぐつのどたどた

ぽっくりのぽくぽく

みみをすます

ほうばのからんころん

あみあげのざっくざっく

ぞうりのぺたペた

 ハイヒール、長靴、ぽっくり下駄、ほうば下駄、あみあげ靴、ぞうり。履き物の名前が物音とセットになって並べられています。私がイメージしたのは、歩く人々の足元だけを写した映像でした。さまざまな履き物をはいた人々が物音を立てて歩いている。そんな場面でした。


きぐつのことこと

モカシンのすたすた

わらじのてくてく


「モカシン」とは、アメリカの先住民が履いていた一枚革の靴のことです。それが「すたすた」という音をたてるでしょうか? 私は、「すたすた歩く」という歩く姿との結びつきを感じます。「わらじのてくてく」も、「てくてく歩く」という歩く姿を想像させます。著者は、意図的に物音から歩く姿へとスライドさせているのではないか、と私は考えました。


【話題が飛躍し、展開していく】

 ここで詩は思わぬ方向へ進みます。


はだしのひたひた・・・・・

にまじる

へびのするする

このはのかさこそ

きえかかる

ひのくすぶり

くらやみのおくの

みみなり

 突然、「蛇」が登場します。そして、「木の葉」「火のくすぶり」「暗闇」「耳鳴り」と続きます。足音の話題から一気に飛躍します。私はこんな時、飛躍したイメージを追いかけていって一つの情景を作ることを楽しみます。例えば、夜、木の葉の積もった山の中。蛇がすり抜けて通る。焚き火が消えかって、暗闇が濃くなっていく。耳鳴りがする、というふうに。


【赤ん坊が生まれた日】

 詩はこの後、太古の世界へと飛躍し、そして人間の世界へと移ります。


なにがだれを

よんでいるのか

じぶんの

うぶごえに

みみをすます


「赤ん坊の産声は、誰かをよぶ声なのか」と私は思いました。誰かはわからないまま、

それでも生まれ落ちてきたこの世界で、誰かを呼ばずにはおれない赤ん坊の声。


そのよるの

みずおと

とびらのきしみ

ささやきと

わらいに

みみをすます

こだまする

おかあさんの

こもりうたに

おとうさんの

しんぞうのおとに

みみをすます


「そのよる」とありますから、その赤ん坊が生まれた夜、というふうに読めます。「扉」「ささやき」「笑い」「お母さん」「子守唄」「お父さん」「心臓の音」。ひとつの命の誕生とそれに立ち会う人々の情景が浮かんできます。


【人の生きる営み】

 最初の方で、足音にまつわる表現が列挙されていました。この「列挙して、たたみかけていく」という技は、この詩で特徴的なものの一つです。

くさをかるおと/てつをうつおと/きをけずるおと/ふえをふくおと/にくのにえるおと/さけをつぐおと/とをたたくおと/ひとりごと


 人の動作・行為を表す言葉の一つ一つの背後に、その人の生活や気持ちや歴史が感じられます。それが次々に切り替わっていき、「ひとりごと」という言葉で括られています。


うったえるこえ/おしえるこえ/めいれいするこえ/こばむこえ/あざけるこえ/ねこなでごえ/ときのこえ/そして/おし


 ここでは感情を表す言葉が連なっています。激しいものを感じます。そして「おし」という言葉で括られます。


【争い、戦いの情景】

 詩は、争い・戦さの方向へ展開していきます。


うまのいななきと

ゆみのつるおと

やりがよろいを

つらぬくおと

みみもとにうなる

たまおと

ひきずられるくさり

ふりおろされるむち

ののしりと

のろい

くびつりだい

きのこぐも


 全体の中で、このあたりが一つのピークを形作っているように思います。緊張の高まったところで、次の言葉が語られます。


(ひとつのおとに/ひとつのこえに/みみをすますことが/もうひとつのおとに/もうひとつのこえに/みみをふさぐことに/ならないように)


 詩の中で唯一、メッセージが生な形で表現されている箇所です。これは、先の争い・戦さの場面を受けての祈りのようにも感じられます。一つの声だけにみみをすまして、もう一つの声にみみを塞ぐことが敵を作っていく。そんな解釈ができるかもしれません。


【締めくくり】

 最後は、私たちの身近な日常の世界に戻ってきて、次のように締め括られます。


きょうへとながれこむ

あしたの

まだきこえない

おがわのせせらぎに

みみをすます 


 冒頭で「きのう」だったものが、ここでは「きょう」、「あした」に。また、「雨垂れ」という極めて少量の水だったものが、ここでは「おがわのせせらぎ」になっています。そして、それは「まだきこえない」。・・・

 以上、詩人の技という視点から、私がどのように読んだかを説明してきました。読みを深め、楽しむ一助になればと思います。

 最後に、このように分析することで見えてくる構図というものがある一方で、それを超えたところに「詩」があるということも言い添えておきたいと思います。谷川俊太郎さんは、次のように言います。


どんなに分析してもしきれないもの、それが「詩」かもしれないが、「詩」は他人の書いた詩作品の中にひそんでいるだけでなく、それを読む人のこころとからだの中にひそんでいるのだ。自分のうちにひそむ「詩」を発見するためにこそ、人は詩を読み、詩を聞き、詩を批評するのだと思う。★4


 ぜひ全編を通して読み味わい、心と体に起こることを経験してほしい、と思います。★5


*****

★1 ナンシー・アトウェル(小坂敦子・澤田英輔・吉田新一郎訳)『イン・ザ・ミドル』(三省堂, 2018年)223ページ

★2 同上書, 223ページ

★3  この本では、詩と詩のつなぎ目に、柳生弦一郎さんによる24点の人間の顔の絵がは

さまれています。ブックデザインも素敵です。40年以上も前に発行されたこの本が、今も

なお定価で入手できるというのは、驚くべきことだと思います。

★4 谷川俊太郎「ひとこと」 谷川俊太郎・田原・山田兼士・大阪芸大の学生たち著『谷川

俊太郎《詩》を読む』(澪標, 2004年)209ページ



2024年3月22日金曜日

特別支援学級の作家の時間で子どもたちのベースキャンプを守る〜弘前大学の先生方の訪問記より〜

(全ての人物の名前は仮名です。障害特性や学習場面等にも、ある程度のフィクションが入っています)


特別支援学級から見る卒業式の景色


 先日、春の風が吹く中で、本校でも6年生が笑顔で証書を受け取り、笑顔で卒業していきました。

 実は、心の中は笑顔と言い切れるものではありません。特別支援学級の子どもたちに限らず、中学校への進学というものは、強い不安を感じるものです。中学校ではどんな環境が待っているのか見通しが持てず、「先生は厳しいかもしれない」「勉強は難しいかもしれない」と憶測だけの噂話に翻弄されます。小学校でも、3月は卒業式の練習が立て続けに入り、何をするにも「小学校生活最後」という言葉で終わりを意識させられます。私が受け持っている子どもたちも、不安を強く表してしまう子がいました。学校では気丈に振る舞えるのですが、その反動で家で感情的な行動をとってしまうのです。ひときわ感受性の高い子どももいて、卒業に漂う寂寞とした空気を敏感に感じとってしまいます。

 特別支援学級は、家庭との情報共有も通常学級と比べて丁寧に行いますので、学校での「がんばり」が子どもの生活のどこで新たな歪みを生じさせているのかも把握し、「がんばり」の程度を調整していきます。「今回は1時間だけにしようか」と卒業式の練習を短く切り上げるような支援を行っていきます。例えばある子は、卒業式の練習に参加できてしまうからこそ、あとで精神的疲労の蓄積で爆発してしまうため、教師の支援の下、「がんばり」の程度を調整するということです。一方で、卒業という時期だからこそ積める経験や得られる感情もあり、それらが子どもたちを育てるまたとない機会にもなります。ですから、その子にあった取り組み方への調整を支援者は行っていくことになります。

 そんなこんなで、かれらは無事に卒業していきました。


 特別支援学級に在籍する子どもたちが卒業していく姿は、その子のこれまでの物語が凝縮されています。特別支援に在籍はしているが、交流級担任が呼名をする子ども。支援級担任が入退場に寄り添い、けれども、証書授与は(ステージの陰でサポートされながら)自分の力で受け取る子ども。このような卒業式へのそれぞれの向き合い方は、これまでの支援者がどのようにその子どもの支援を行ってきたのか、そのスタンスが顕在化しています。特別支援学級在籍児童のなかでも、それぞれに適した形で卒業していき、良い卒業式だと思いました。


弘前大学付属小学校の先生方の「作家の時間」授業参観


 卒業式よりも前の2月某日、弘前大学付属小学校の先生方が授業の参観に来てくださいました。弘前大学の宮﨑充治先生とは、以前お勤めされていた桐朋小学校で行われていたブッククラブで幾度かお会いし、久しぶりの再会となりました。また、同付属小学校の今先生と小田桐先生は、校内でも作家の時間や読書家の時間を導入しようとしてくださっているそうです。学力差のある複式学級で作家の時間にチャレンジしてくださっていて、私が行っている4年生・6年生の特別支援学級での作家の時間と教室の実態が似ています。何か学びの種がお互いに共有できたら良いと思い、ご見学していただくことになりました。


 この日の作家の時間で、子どもたちは最終出版に向けて原稿を完成させたいと思っています。本当は2月が最後の出版の予定だったのですが、大介くん(以前のブログにも登場しています)が「自分の作品をもっと出版したい!!」と懇願し、私の方が折れたので、目まぐるしい3月にも出版することにしました。年間4回の出版が5回になりました。

 出版はその頻度が多ければ多いほど、原稿が書けていないことに対する子どもの不安や、原稿を全員揃えなければならない支援者の圧力を、軽減することができます。1年に1回の出版でしたら、「〇〇さんが提出していない!!提出させなくちゃ!!」といったことを心配してしまいますが、月に1回程度出版していると、特に全員揃っていなくても、今回できた作品を紹介するスタンスになるので、提出できていない子に無理に催促する必要がなくなります。ですから、その分手間はかかってしまいますが、支援者にも子どもにも安心な作家の時間をつくることができます。


すべて会話文と擬音語の作品


 ミニ・レッスンは、私が前から気になっていた地の文と会話文の書き分けです。動画の影響が大きくて、どうしても会話文だけの物語展開になってしまう子どもが何人かいます。もともと自分以外の視点に立つことに困難さのある子どもたちですから、以前にも取り扱ったことがあるのですが、なかなか身につきません。

 エリック・カールの『はらぺこあおむし』と同氏といわむらかずおさんとのコラボ作品『どこへいくの? To See My Friend!』を用意しました。前者はもちろん地の文と会話文の両方が書かれています。後者は会話文だけで進んでいく絵本です。6年生は地の文と会話文をかき分けることができるので、こちらも教材として用意しました。

 ミニ・レッスンの内容は、宮﨑先生が書いてくださった訪問記が詳しいので、引用します。


宮﨑先生の「学級訪問記」より


 はじめは「ミニ・レッスン」だ。教室の前にはモニターがあり、そこの箱状のベンチに座ってみんなが集まる。この日のミニ・レッスンは会話文と地の文について、2冊の絵本と子どもたちのこれまでの作品を使って、「だれが、なにを言ったのか」ということに焦点づけて行われた。子どもたちの作品はロイロノートに納められ、それがモニターに映し出される。

 その中で、篤くんの作品に焦点があてられた。篤くんの作品は絵と文で構成されているが、一部は先生と一緒に文章化していっている。その物語の中に登場人物たちが武器で闘うシーンがあった。篤くんはそのシーンを「バシッ、ぎゃー、ドス」といったように擬音語だけで表現する。先生はそのページに対して、「これはだれが何でどうしたの?」といったように、動作主とその擬音を結び付けようとしている。篤くんに先生は「このまえ、だれが何をしたって書いたら、みんなから分かりやすくなったって、言われたよね」と誘いかけるが、篤くんはそうした表現方法になかなか同意していないようだった。しかし、篤くんが語り始めるとどの擬音がだれが、どの武器をつかった時の音なのか。彼の頭の中には物語のすべてが入っている。

 先生が用意した2冊の絵本の一つは、エリック‧カールの『はらぺこあおむし』。こちらには語り手がいて、(子どもたちから「ナレーター」という言葉でした。)はらぺこあおむしの行動をその視点から語っていく。もうひとつの絵本は「 」はついていないものの、会話文で物語がすすんでいくものであった。(注 『どこへいくの? To See My Friend!』です。) 先生は後のふりかえりで、どちらの表現方法もいいんだよということを伝えるために、この2冊を用意していたという。

 私は、篤くんはあえて「擬音語」だけで表現しているのかもしれないと感じた。地の文が入ると、スピード感が落ちるからだ。一方、先生は主語をいれることによって、文章技法としての「ナレーター」による語りを教えているというよりも、ナレーター=語り手という物語を俯瞰して語る人という認識の仕方を提示しているように思えた。物語と小説の違いはこうした語り手、客観的に自己を対象化する存在の有無にある。このレッスンは文章技法のレッスンのようだが、認識方法のレッスンなのではないだろうか。

 ここで、ミニ・レッスンは公開カンファランスのように映る。つまり、篤くんの作品をとりあげ、それを直接の指導の対象にしているかのように見えるがそうではない。篤くんの作品を通して、全員に先生は語りかけている。そして、ミニ・レッスンにおいて、教師は提示するが技法の選択は子どもに委ねられる。先生が2冊の本を用意したのはその配慮だろう



子どもが今味わっている技法を楽しむことができる時間を十分につくる


 非常に深い分析でありがたいことです。

 篤くんは十分に能力はありますが、自分の表現とは違う技法を習得するレディネスはできていません。篤くん自身の特性もありますし、篤くんのこだわりでもあります。宮﨑先生の推察の通り、篤くんはこの表現方法ができる喜びを感じとっている最中なのかもしれません。

 たとえば、幼児期の絵画表現において、スクリブルや頭足人などの特有の表現がありますが、それが稚拙だからといってスクリブルや頭足人を書く喜びを味わう時間を十分に設けず、学童期の技法を教え込むことで作品の質を引き上げようとする指導行為は、子どもに関わる専門家として間違った指導であるように思います。大きな白紙に、クレパスやサインペンで自分の腕の動きと呼応した美しい線を走らせるスクリブルは、心の解放や能動的に環境に働きかける楽しさなど、様々なよい影響があるでしょう。その子の発達段階はスクリブルを求めている可能性があります。決して良い作品を生み出したいわけではなく、良い描き手を育てたいのです。それと同じような状況が、擬音語だけの文章を書く篤くんの中にある可能性を私は見ていました。

 けれども、篤くんの書き手としての成長を俯瞰して見た時、その種は蒔いておきたいところです。そこで今回のミニ・レッスンを用意しました。篤くんが強制と感じてしまうと、大変貴重な学習意欲が減退してしまう可能性があるので、無理強いはしないようにしました。その匙加減は、篤くんと私たち支援者のこれまでの経緯により調整をしています。



大介くんの目覚ましい成長



 この後、「ひたすら書く」の中での私のカンファランス、大介くんの作家の椅子による共有がありました。


「大介くんが自分の意思で書き始めるまで 特別支援学級の作家の時間」へのリンク

https://wwletter.blogspot.com/2023/12/blog-post_22.html


 以前上記の投稿で記した大介くんは、目覚ましい成長を遂げ、今では6年生の友達に自分の作品を音読してもらって作家の椅子を行うまでになりました。大介くんが友達に読んでもらう理由は、彼が極度に「表現することへの不安」「他者評価への不安」を感じやすいということが挙げられます。それでも、友達が読んでくれている声や友達が自分の作品を楽しみ声を上げる様を、廊下から教室を覗くことで楽しんでいるという、一風変わった共有の状況が生まれています。こちらについては、またいつかどこかでまとめたいと思っています。



「避難所から、居場所へ。居場所から、ベースキャンプへ」


 その後、宮崎先生、今先生、小田桐先生とで、作家の時間のベースにあるものをご説明したり、弘前大学付属小で行われている作家の時間の様子などを伺ったりするような、ワークショップの学習会を開きました。

 その中で、宮﨑先生は次のように振り返ってくださいました。


宮﨑先生の「学級訪問記」より


 竹内常一は、「避難所から、居場所へ。居場所から、ベースキャンプへ」と、子どもの居場所の在り方の変遷について述べているが、学級は傷付き注 そういった子もいれば、そうではない子もいます。)をもった、人からの否定的な視線にさらされ、自分を肯定的にとらえることができない彼らを受容するという機能、つまりは避難所としての機能を持ち、ここに居ていいんだという心理的安全性を確保される。その上で、表現を通じて、相互に承認される。承認されることで子どもはそこを居場所だと感じる。承認をされて、ここが居場所だという「オーナーシップ」がもてると、子どもたちは「集団で」、あるいは「個々に」企みはじめる。教室は企みのためのベースキャンプとなるのである。

 一般級では「評価」が求められ、「計画的」な授業が求められる。特別支援学級はそういう意味では今の教育の「エアポケット」なのかもしれない。

 しかし、先生が「評価」していないのではない。「評価」は一般的に、子どもを数値化、ないしは文章の中に押し込める。それは子どもや教師のためではなく、第三者のために「客観的」(ほんとうに客観的かどうかは問われず)に評価するのである。

 先生は子どもに沿いながら、多面的に、多様に、「アセスメント」をしている。本来、教育的な評価とは子どもを励まし、どこにいるかを示し、自分自身が自分のことを評価できるようにするものであろう。

 先生は、アセスメントを通して、その子にそって「計画」をさぐっている。こうした力はおそらく「単元開発」の中で培われた教材=教育内容、あるいはそれを支える学問‧文化への深い洞察もあるだろう。また、特別支援で求められる障害理解や認知の理論も支えになっているのではないかと推察する。しかし、それよりも、目の前にいる子どもの「現し」をどう読みとるか、それをおもしろがっている先生がいて、それが子どもたちを自立的な学習者になるよう励ましているように感じた。



コンフォートゾーンとなる「ベースキャンプ」をつくる


 過分な言葉を頂き恐縮ですが、評価(アセスメント)をして子どもの「居場所」をつくることについて言及してくださり、その部分を引用しました。


 自尊感情を回復させることも私たちの大きな役割の一つです。系統主義的に教科書会社や教師が立案した計画通りに資質、能力を身につけさせていく動線に乗ることができなかった子どもたちが、より経験主義に寄った学習環境に身を置くことで、基本的自尊感情を回復させていくことができるのが、特別な教育課程を編成することができる特別支援学級の強みであるように思います。

 しかし、ご存知の通り、子どもたちは、評価の刃にさらされることが多く、それにより傷ついています。数字はもちろんのこと、文章でもその可能性があることは宮﨑先生のご指摘のとおりです。

 一方で、数字や記号では測れない人間味のある学習評価を行えば、子どもは、嬉しくなり、やる気になり、次のマイルストーンを見つけることができるものです。適切な自己評価、温かな他者評価、心理的安全のもとで交わされる相互評価で、自分の表現を受容し、自分のペースでさらに高みを目指すことができるはずなのです。わたしたち支援者は、子どもを傷つける評価を、子ども理解から次の成長へつなげる評価へと取り戻さなければなりません。


 「避難所から、居場所へ。居場所から、ベースキャンプへ」という言葉を教わりました。少しずつ、自分の身を守る役割から、冒険へ旅立つ前の準備を整える役割へと、教師の役割が変化しています。コンフォートゾーンがあってこそ、つぎのストレッチゾーンにチャレンジすることができるということでしょう。その子なりの自己実現への旅へと踏み出せるように、私たち特別支援の教師は、子どもたちの「ベースキャンプ」を刃のような評価などから守らなければならないのかもしれません。



 文章が長くなってしまい、弘前大学付属小の今先生や小田桐先生のご感想を紹介することができませんでした。また、次の機会にご紹介できればと思います。


新江ノ島水族館のサカサクラゲ



2024年3月16日土曜日

つながることで変化し続ける


 『理解するってどういうこと?』第7章でエリンさんは、パブロ・ネルーダの詩や文章を読むことによって、日常の暮らしのなかで「自分がどれほどたくさんのことを見逃しているのかということに気づかされ」たと書き、ネルーダが「自分の人生の変わりゆく風景を明らかにしたかったのだと思」ったと書いています。そして次のように言っています。

「パブロ・ネルーダの文章がどれほど私に衝撃をもたらしたのかということについて、もしも子どもたちに話さなければ、お気に入りの作家たちによって子どもたちが同じように影響を受けることなど、望むことができるでしょうか? もしも、時間とともに私たちの感情や考えや知識が変わることや、それらがこの世界にある力の影響を受けていることについて、子どもたちに話すことがなければ、理解するとはどういうことなのかの本質を子どもたちはどうやって手に入れられるでしょうか? もしも私たちの行動が前向きの変化に向かうための力となる可能性をモデルとして示さなければ、子どもたちが自分たちの現実を変化させるために自分で考えて、判断して、行動するよう期待することなどできるでしょうか? すべてが変化し続けること以上に確かなことはありませんし、そのことを理解すること以上に大切なこともありません。」(『理解するってどういうこと?』247ページ)

 エリンさんがネルーダの詩「スプーンのほめ歌」から受けた「衝撃」はどのようなものであったか。エリンさんは「スプーン」一つ取り上げるだけで、人と世界の歴史と現在への想像力を発揮する言葉をネルーダが紡ぎ出していることにおどろき(サプライズ)を覚えています。スプーンがこのかたちになったのはなぜか、とか、スプーンがなければ私たちの暮らしはどうなっていたのか、とか、そういうことを平易な言葉で表現するネルーダの詩には私もハッとさせられますが、そのこと以上にこの詩にして「衝撃」を覚えたというエリンさんのものの見方にも、私はおどろき(サプライズ)を覚えます。

 そうしたサプライズを喚起してくれる本を読みました。小池陽慈さんの編んだ『つながる読書―10代に推したいこの一冊―』(ちくまプリマー新書、2024年)です。この本の第1部には〈読み書きのプロ〉が書いた〈10代〉に向けて〈推したい〉本の紹介文(本書では〈プレゼン〉と呼ばれています)が14編収められています。それぞれの紹介文の前には、紹介者と小池さんとの対話が収められ、第2部には第1部の紹介文をめぐる小池さんと読書猿さんとの対談があり、さらに第3部では第1部の筆者が他の筆者の紹介した本を読んで書いた文章が収められる、という凝った構成になっています。

 第1部の14のプレゼン(紹介文)は、いわば〈10代〉に向けてのブックトークで、想定されている聞き手がとても明確です。小池さんの「はじめに」には「本という「扉」」という副題が付けられていますが、これは本書第2部の対談が終わった後に読書猿さんが発した「ある本を開くことは、それを「扉」のように開き、その本の「向こう側」の世界へ通じる入り口を開くことである」という素敵な言葉から借り受けた言葉だそうです。そして、14のプレゼンはその「扉」を聞き手が押して開く〈後押し〉になっています。

 『つながる読書』の〈後押し〉は二重三重になっています。第2部の読書猿さんと小池さんの対談では、第1部の14のプレゼンの読書論的意味が掘り下げられていて読み応えがありますが、ここでは第3部「つながる読書」から一つ取り上げます。

 小川洋子さんの『物語の役割』(ちくまプリマー新書、2007年)を取り上げた渡辺祐真(スケザネ)さんの10番目のプレゼンについて書かれた、安積宇宙さんの文章は次のように閉じられています。

「私は、物語の受け取り手としての自分の役割は、物語を読んで感じた気持ち、浮かんできたさまざまな想像を大切にすることなのではないかと思います。とても悲しいことに、アンネは日記を書いた後にナチスによる虐殺の中で殺されてしまいました。だけど、日記を読んだ私は彼女の人を信じる心を受け継ぎたいと感じました。それはまさに、アンネの「わたしの望みは、死んでからもなお生きつづけること!(一九九四年四月五日)」という願いを叶えることなのではないかと思います。そして、アンネの心を引き継ぐというのは、ユダヤ人であろうとも、パレスチナ人であろうとも、殺されていい人はいないと、行動することでもあると感じています。物語の役割を考えることで、物語を読む大切さを、改めて感じられました。ありがとうございました。」(『つながる読書』281ページ)

 閉じられています、と書いてしまいましたが、書き写しながら訂正しなければならないと思います。直接には『物語の役割』のプレゼンターである渡辺さんに宛てられたこの文章は、しかし、これを読む私にも向けられているわけですから、開かれています。渡辺さんは『物語の役割』を、それ以外の小川さんのいくつもの文章を引いて、〈物語の役割〉を10代に伝わる言葉で書いておられるのですが、安積さんは自分も『物語の役割』を読みながら、そのなかに登場する『アンネの日記』の自身の読書体験にも触れています。私も以前読んだ『物語の役割』や最近読んだ津村記久子さんの『水車小屋のネネ』(朝日新聞出版、2023年)のことを思い出しながら、お二人の言葉を受け止めていました。また、『つながる読書』に小川洋子が文章を寄せておられるわけではありませんが、小川さんも登場しているように錯覚して思わず読み返してしまったのも不思議なことです。

 小池さんは『つながる読書』の「おわりに」で次のように述べています。

「誰かが書いた一冊の本。それを読んだプレゼンターの方が、感想やそこから喚起された思いをご自身の言葉で語る。それを聞いた読書猿さんや私が、各々の感想を抱く。そうしてその二人のやりとりのなかで、さらなる言葉や思考が紡がれていく。

 私は、こうしたことこそ、本当のもの持つ豊かさだと思うんです。

 こうしたこと――つまり、同じ一冊の本から、さまざまな思いが、さまざまな言葉に載せられて、織りなされていくこと。一冊の本や、あるいはその紹介に触発され、考えたり思ったりすることは、人によってそれぞれ違い、多様であるということ。その多様な思いが、また交差し、絡み合い、新たな言葉を生み出していくということ。

 こうしたありようこそが、〈本の素晴らしさ〉そのものである、と。」(『つながる読書』293294ページ)

 小池さんの言う「〈本の素晴らしさ〉」を『つながる読書』という本そのものが体現していると思います。〈つながる〉ことは読者が「変化し続ける」ことでもあります。この本の「おわりに」の後に収められた詩人の草野理恵子さんの「特別寄稿・どこにも落ちているものはなーんだ?」から伝わってくるように、「変化し続ける」ことの〈素晴らしさ〉を教えてくれる本でもあります。

2024年3月9日土曜日

共同授業者としての本 〜[鏡]と[窓]と[ガラスの引き戸](★1)

「多様な本に溢れている」教室。ーーーリーディング・ワークショップでも、ライティング・ワークショップでも、事例を見ていると、多様な本が活用されていることをよく感じます。

 多様な本の活用において、「絵本等の中から書き手の足跡を学ぶこと」と「絵本等から外の世界を学ぶこと」という二つの方向があるように思えることにも、興味を感じています。

 前者、つまり絵本等の「中から」学ぶことは、絵本をメンター・テキストとして、作家が行った工夫や技を見つけるような学びです。メンター・テキストという言葉は、ここ15年ぐらい? 耳にする回数が増えました。「メンター・テキスト」という言葉を題名に含む本も、多く出版されています。「子どもたちにできるようになってほしい書き手ができる技や工夫」を念頭において、教師は選書をしていきます。

 他方、後者、つまり「絵本等から外の世界を学ぶこと」については、絵本の読み聞かせや対話的読み聞かせを通して、生徒たちが自分や社会について学び、世界を広げたり、その中で自分のできることを考えたりということに主眼があるように感じます。絵本は、教師一人では提供できない世界観を教室に持ち込む「共同授業者」(★2)という位置付けで捉えられることもあります。

 今日の投稿は、そういう世界観を広げるという点から、教室の図書コーナーや教師自身が読む本について考えます。

 2023年8月11日の投稿「選択という扉の向こう側にある世界〜[鏡]と[窓]と[ガラスの引き戸]」で紹介したビショップ氏(Rudine Sims Bishop)の比喩をよく思い出しますが、どのような内容、テーマで、誰が」書いた本を選ぶのかが問われるように思います。氏は多文化児童文学の観点から、多数派ではない人たちが主人公になっている本の少なさ、また、本に登場しても、否定的なイメージで描かれたりすることに警鐘を鳴らしています。

 ビショップ氏は、本は世界を見せてくれる[窓]であり、読者が想像力を働かせて[ガラスの引き戸]を通り抜けて本の中に入るとその世界の一部になることができる。[窓]である本は光線のあたりかたによって、[鏡]にもなり、読者の人生や経験の一部を映し出してくれると、説明してくれました(★1)。今から30年以上も前の1990年のことです。

 [鏡]と[窓]と[ガラスの引き戸]は、30年以上時間が流れた現代でも、とても有効な枠組みだと思いますし、アメリカの図書館の司書や教師の指針にもなっているようです。

 図書館司書のフィリップス氏(Jaenie Phillips)は、[鏡]と[窓]と[ガラスの引き戸]に関連して、Great School Partnership という団体のブログに2022年8月に投稿(★3)し、この枠組みを実際にどのように、自分に応用したのかを記しています。

 この投稿によると、フィリップス氏は15年前に自分の読むものを、この枠組みを使って見直したそうです。白人である氏は自分が読んでいるものの大半は、自分の[鏡]となる本、つまり白人によって、白人について書かれている本だと気づきます。そこで、自分の読む本の少なくとも50%は、非白人の人によって書かれている本を読むという目標を設定します。この目標を毎年、達成していく中で、これまで読むことのなかった多くの素晴らしい作家の本を読むことになり、自分とは異なる人種の登場人物の立場で考えることで、自分も成長したと述べています。

 また、フィリップス氏は、2018年に出版された児童書を見ると、約27%が動物を主人公としていて、この数字は、白人でない登場人物の本を全て合わせた割合よりも高い数字であると指摘しています。つまり非白人の子どもたちにとっては、自分の人種的アイデンティティの[鏡]となる本が少なく、白人の子どもたちは、自分と異なる人種的アイデンティティを持つ人たちについて学ぶ機会が少ないまま過ごしていることになります。

  自分の[鏡]となる本が教室の中や、社会に溢れている場合、上記のフィリップス氏のように、最初は意識的に自分の読書生活を見つめて何らかの目標を設定しないと、狭い世界にとどまってしまう危険性があることは、自分自身を見ていて、よくわかります。

 リーディング・ワークショップや対話的読み聞かせが積極的に行われている教室の事例などから、アメリカの教室にいる様々な子どもたちの[鏡]になるような本を知ることができ、私もそれらを少しずつ読むようになってきました。しかし、例えば、アメリカ社会での移民の子どもたちや家族が主人公のストーリーを読む時、対岸の出来事として読んでいるところもあります。

 日本の教室や社会にある多様性ーーー例えば、日本在住の外国ルーツや難民の人たちが書いた、あるいは日本にいるLGBTQや障がいのある人が書いたお薦め本は?と言われても、さっと提示できません。読んだ本を思い出して、ようやく「そういえば」という感じです。私の場合、読んでいる絶対数が少ないことが大きいです。

 自分の成長に必要であるからこそ、[鏡]と[窓]と[ガラスの引き戸]という枠組みを通して、定期的に自分の読書生活を振り返っていかなくては、と思います。

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(★1)

以下の情報は、2023年8月11日の投稿でも紹介しましたが、下に記すURLでPDFが読めます。PDFの最後には次のように出典が記されています。

Source: By Rudine Sims Bishop, The Ohio State University. "Mirrors, Windows, and Sliding Glass Doors" originally appeared in Perspectives: Choosing and Using Books for the Classroom. Vo. 6, no. 3. Summer 1990. 

http://www.rif.org/us/literacy-resources/multicultural/mirrors-windows-and-sliding-glass-doors.htm

また英語ですが、著者が語っている90秒ぐらいの動画を見つけました。

https://www.youtube.com/watch?v=_AAu58SNSyc

(★2)

Layers of Learning: Using Read-Alouds to Connect Literacy and Caring Conversations (JoEllen McCarthy, Routledge 2020年)のなかで、「私たちの住んでいる世界について、考え、可能性を見出し、真実や時には厳しい現実を明らかにするのを助けてくれるような、「教師の共同授業者」(16ページ) と書かれています。

(★3)

https://www.greatschoolspartnership.org/mirrors-windows-and-sliding-glass-doors-a-metaphor-for-reading-and-life/

2024年3月1日金曜日

「メタ認知」って何?

 これまでいい授業と捉えられてきたのは、教師が事前に教材(ほとんどの場合は、教科書教材)研究をしっかり行い、それを踏まえて考えた指導案(あるいは、指導書)通りに授業を展開することです。

 読み(例えば、物語・短編や説明文)の指導の場合、最初に、特定の教材を扱う目的(ねらい)が提示されます。次に、タイトルや作者の肩書や背景等からどんな内容(あるいは、テーマ)が書かれているのか予想します。実際に読んだ後には、何が書かれているか要約することを求めます。この事例のなかだけでも、目的を明確にする、予想する、要約する、の読む際に大切な方法が三つ扱われています。

しかし、この授業でそれらの方法は教師が生徒に投げかけて、教師の指導の下に生徒たちは従って考えているだけで、自分たちが主体的に考えてはいません。この種の授業では、メタ認知を使っていませんし、生徒が主役となって学ぶ(自分の責任で何をどう考え、そして選択する)機会も提供していません。すべては教師によって、事前にベストのシナリオが描かれており、生徒たちはそれにお付き合いするだけです。

 このような教師主導の授業ばかりをしていると、メタ認知=自分が主役となって学ぶ(自分の責任で何をどう考え、そして選択する)力は身につきません。いくら教師が努力しても、下の表の右側の状態に生徒たちをとどめてしまいます。しかし、求められるのは左側です。

 左側を実現する効果的な方法の一つ★★が、リーディング・ワークショップ(読書家の時間)です。

 すでに、上の事例で紹介したように、読む際に使う方法は表4(出典は、『読書がさらに楽しくなるブッククラブ』の81ページ)にあるような方法★★★です。違いは、これらを教師主導で扱い(生徒は、言われたとおりに使い)続けるのか、それとも生徒がそれらを自ら選択して使いこなせるように学ぶのか、です。

 ちなみに、表4では、三つのレベルで分けて整理してありますが、実際に読む時は、読む前・読んでいる間・読んだ後に使う方法としても分類可能です。そのほうが、生徒たちにとっては自然に受け入れられると思います(というよりも、実際に使っている生徒たちが、それを指摘してくれるはずです)。なお、方法は読む前・読んでいる間・読んだ後の複数に分類されるものもあるのでご注意ください。

 読むことの事例で紹介してきましたが、同じことは書くことでも、話す・聞くでも言えますので、「教材を教師主導でこなす授業」から「生徒が選択しながら学ぶ授業」への転換を図る参考にしてください。★★★★

 

I Think, Therefore I Learn!以外に、メタ認知に関しては、『「考える力」はこうしてつける』『言葉を選ぶ、授業が変わる!』『「学びの責任」は誰にあるのか』がおすすめです。選択のない(選択を提供しない)なかで、メタ認知というのは難しい気がします。逆に言えば、強制(ないし従順・服従・忖度)とメタ認知は相性が悪く、ほとんど思考停止をもたらすだけかもしれません。★★★★★

★★他の効果的な方法は、『ようこそ、一人ひとりを大切にする教室へ』『一斉授業をハックする』『教科書をハックする』『教育のプロがすすめる選択する学び』などで紹介されていますので、ぜひ参考にしてください。また、『「考える力」はこうしてつける』は、メタ認知と振り返りの関係を分かりやすく説明したうえで、メタ認知を取り入れた授業づくりを紹介していますので、ぜひご一読を!

★★★これらについて詳しくは、『「読む力」はこうしてつける』と『理解するってどういうこと?』を参照してください。これらが欧米でも知られるようになったのは、1990年代の半ば以降です。どのようにしてこのようなリストになったのかというと、ある研究者たちが、自称「優れた読書家」数百人に、読んでいる時に使っている方法を出してもらい、それを整理しただけなのです。その意味では、教室のなかでも同じことができてしまいます!

★★★★最後まで書いてきて、一方で読む(書く、話したり・聞いたりする)際に使う効果的な方法が身につく形でどれだけ授業は行われているのだろうかという疑問とは別に、扱う内容と同じか、それ以上に大切なhttps://bit.ly/3XZmfbhSELhttps://wwletter.blogspot.com/2023/02/sel.html)は身につけなくてもいいのだろうかとも考えてしまいました。いったい、これらはいつどこで身につけるのでしょうか? 誰もがスマホを持っているいま、教科指導で押さえることが求められているもののほとんどは、教科書で扱うこと自体に疑問が噴出しているなかで。

★★★★★今回の書き込みをブログに貼り付ける前に最終的な読み返しをしている時に、ここの文章を読んでいて思い出したのが『教育のプロがすすめる選択する学び』でした。まさに、選択を提供する授業とメタ認知は相性がいいのです! 本のタイトルにあるように、この本はいかに選択を生徒に提供するかが書かれた本です。目次を見ると、第4章のタイトルが今はやりの「生徒に学び方を教える」です(「学び方を学ぶ/身につける」=メタ認知と言えるでしょう!)。

 この章のなかから、最も大切だと思った部分を以下に貼り付けます。(少し長くなりますが、大事なことが書かれているので訳注も含めて紹介します。)

メタ認知のスキルを身につける

 「魚を与えれば一日生かすことができるが、魚の捕り方を教えれば一生生きることができる」という諺を聞いたことがあると思います。メタ認知スキルを教えるということは、魚の捕り方を教えることの教育版と言えます。それには、生涯を通じた学習者になるために必要となる、自己認識、振り返り、正直な自己評価のスキルを身につけることが含まれています。★注・この三つをテーマにしているよい本があります。『増補版「考える力」はこうしてつける』です。多様な方法が紹介されていますので、ぜひ参考にしてください。また、ブログ「PLC便り」の二〇一八年一二月二三日号でも「メタ認知」を特集していますし、左上の検索欄に「メタ認知」を書き込むことでほかのたくさんの記事も読めます。

今日の学校では、慌ただしいペースで次から次へと活動が移り、自らの学びを振り返ることもなく★注・ここ4~5年ぐらいは、授業の最後に行う「振り返り」がブームになっています。しかし、残念ながら生徒が自分の学び方を学ぶようには組まれていません。単に形式として、振り返りのシートが渡されて、それを埋めるだけになっています。生徒には選択が提供されていませんから、ほとんどの場合、無駄な時間になっています。振り返りを活かすヒントは、『SELを成功に導くための五つの要素』の第3章「自己を見つめる」を参考にしてください。★、いま行っていることだけに注意を向けさせて生徒をこのうえなく忙しくさせています。しかし、教師が選択肢を提供さえすれば、学びのパワーとコントロール(学びの責任)が生徒と共有されることになるので、生徒のメタ認知スキルはいっそう重要性を増すことになります。逆に言えば、生徒はメタ認知のスキルを身につける機会を必要としているということです。あるいは、前出(23ページ)のジュディー・ウィリスが言うように、「(まだ)自覚していないものを自覚する」ことが求められているのです。

 ほかのすべてのスキルと同じように、メタ認知も教えられ、練習でき、そして身につけられるのです。あなたは、生徒たちが学習者としての自分を知り、役立つ学習方法を把握し、そして自らの学習を改善するために、自己認識を活用することで行動ができるように助けることができるのです。

もちろん、選択肢を与えることは、メタ認知のスキルを高めるためのよい手段になります(とくに、第6~8章で紹介している「選ぶ-やってみる-振り返る」という枠組みを使った場合)。「選ぶ」と「振り返る」の二つの段階が、生徒たちにとってはメタ認知を練習するために最適なものだからです。じつは、これらの段階から最大限の効果を得るために、あなたが生徒たちにメタ認知スキルを教えて、サポートする方法はほかにもあります。(同、125~6ページ)

 なお、最後の「メタ認知スキルを教えて、サポートする方法」としては、実演する(「考え聞かせ」をする)、オープンエンドの質問をする、振り返りジャーナルを書いてもらう、正直な自己評価をしてもらう、発達の最近接領域(ZPD)について教える(https://projectbetterschool.blogspot.com/search?q=ZPD)、成長マインドセットを教え、促進するなどが含まれており、この章で紹介されています。