★ 時々、投稿をお願いしている吉沢先生に今回の投稿をお願いしました。
あるテーマについて本を読み進めることで、思いかげない発見があることがあります。
今回は、「木」をめぐって、いくつかの本にふれた私の読書体験についてお話しします。
▶︎木が私たちを見ている
ふだん、私たちは当たり前のように自然界のものを見ていますが、自然界の側から私たちを見たらどうなるか。詩人の長田弘は、そのような視点から、次のような詩を書いています。★(1)
樹、日の光り、けものたち
樹が言った。きみたちは
根をもたない。葉を繁らすこともない。
そして、すべてを得ようとしている。
日の光りが言った。きみたちは
あるがままを、あるがままに楽しまない。
そして、すべてを変えようとしている。
けものたちが言った。きみたちは
きみたちのことばでしか何も考えない。
そして、すべてを知っていると思っている。
樹は、ほんとうは、黙って立っていた。
日の光りは、黙ってかがやいていた。
けものたちは、黙って姿をかくす。
どこでもなかった。
われわれの居場所だった。
空の下。光る水。土の上。
根をはり、葉を繁らせる豊かさを持っている木。黙っているけれども、木も木なりに考えているのかもしれない。この詩を読んで、そんなふうに思いました。
▶︎木にも気持ちがある
黙っている木にも気持ちがある。そのような視点から、木の生態について書いている本があります。清和研二著『樹は語る』(築地書館、2015年)です。著者は、次のように言っています。
樹々はものを言わない。しかし、何かを話したそうにしている。特に果実をたわわに実らせている親木を調べていると、そんな気がすることがある。
(中略)親の想いは樹も人間も同じだ。「子供は無事に生まれてくるのか」「すくすくと育つだろうか」「ちゃんと大人になって伴侶と巡り会うことができるだろうか」ということだ。
(中略)樹木の親は種子が散布された時を境に、子供に手を差し伸べることはできなくなる。種子が「ちゃんと発芽できるところに散布されるように」「芽生えが大きく育つ場所に辿り着けますように」「チャンスが巡ってきたら寝過ごすことなく発芽できるように」。小さな種子には、親木の溢れんばかりの気持ちが詰まっている。
このような親木が子供を思う「気持ち」は、どのような木の生態として受け継がれているのか。この本は、12種の樹木を取り上げ、具体的に説明しています。
例えば、ハルニレ。北海道の平原にポツンと立って美しい姿を見せるこの木★(2)。この木は、春、雪解けのあと間もない頃、花を咲かせます。そして初夏になると、種子を散布します。種子は翼のような膜を持ち、風に乗って飛んでいきます。落葉広葉樹林は、その時期に葉を出すため、森は暗くなります。暗い森の中に落ちたハルニレの種子はすぐには発芽しません。一旦休眠状態に入り、翌年の春、葉が落ちて明るくなった森の中で、他の樹々が葉を出し始める前に、発芽します。たくさんの光を得て、光合成をするための知恵です。明るい光を感知して発芽するのは、種子の中の「フィトクローム」という物質の働きです。種の存続のために、親木が種子に受け渡したものなのです。
このような仕組みを知ると、ハルニレの木の姿が違って見えてきます。
▶︎倒木の上に生育する木
幸田文著『木』(新潮文庫、1995年)に収められている「えぞ松の更新」というエッセイを読みました。倒木の上に種子が着床し発芽して生育するえぞ松があるそうです。そのえぞ松を北海道へ見に行った時の体験を綴ったものです。
倒木の上に立ち並ぶえぞ松の木を見た著者は、倒木を肥やしにして育つえぞ松を見て無惨さを感じ、「まあなんと生々しい輪廻の形か。」と著者は言います。しかし、著者は、案内してくれた人に質問したり、実際に木に触れたり、ゆすったりして、思いを深めていきます。そして、ふと見ると、たくさん伸びた太根の間に赤褐色に見える空間があり、そこに手を入れていきます。
そっと手をいれて探ったら、おやとおもった。ごくかすかではあるが温味(あたたかみ)のあるような気がしたからだが、たしかにあたたかかった。しかも外側のぬれた木肌からは全く考えられないことに、そこは乾いていた。林じゅうがぬれているのに、そこは乾いていた。(中略)古木が音頭をもつのか、新樹が寒気をさえぎるのか。この古い木、これはただ死んじゃいないんだ。この新しい木、これもただ生きているんじゃないんだ。生死の継目、輪廻の無惨をみたって、なにもそうこだわることはない。(中略)このぬくみは自分の先行き一生のぬくみとして信じよう、ときめる気になったら、感傷的にされて目がぬれた。木というものは、こんなふうに情感をもって生きているものなのだ。
木に気持ちを寄せ、木にふれ、木の情感を感じ取ろうとする著作の姿に、私は感動しました。
▶︎「待っていたよ」と呼びかける桜の木
日本で広く見られる桜の木と一人の女性との交流をもとにした絵本があります。ジョイ・コガワ著Naomi’s Tree です★(3)。著者は1935年生まれの日系カナダ人の詩人・小説家です。
日本が「朝日の昇る国」と呼ばれた時代から、桜の木はたくさんの人々に親しまれ、「友情の木」と呼ばれていた、というところから物語が始まります。
一人の花嫁が日本を発ち、カナダの海岸沿いの町に嫁いでいきます。彼女は、日本から携えてきた桜の種を庭に植えます。木は成長し、夫婦の間に子供が生まれます。ナオミとスティーブです。幼いナオミは桜の木と仲良しになり、そこで遊びます。
ある日、日本にいるナオミの祖母が病気になり、ナオミの母が日本に帰ることになります。そして、ナオミの母が去った後、日米間に戦争が起こり、一家はカナダの内陸の収容所に送られます。戦争が終わっても、母からの連絡は来ません。母は日本で原爆に打たれて死んでいたのです。
ナオミは、故郷の家に帰って桜の木に再会する夢をよく見ます。しかし夢は実現しません。年月が経つにつれ、その夢は薄れていきます。ナオミは桜の木のことを考えることをやめます。
しかし、桜の木は故郷でナオミを待っていました。「ナオミはどこ?」という桜の木の声が、風に乗って虫や小動物たちに届きます。「ナオミは無事だよ」「いつか帰ってくるよ」と虫たちは答えます。
老人になったナオミとスティーブは、思い切って、海岸沿いの故郷の町を訪れます。そしてかつて住んでいた家が残っているのを見つけます。桜の木もありました。年老いた幹にふれるナオミ。すると、「ああ、ナオミ。どれくらいあなたのことを待っていたことか。また一緒になれてとてもうれしいよ。」という木の声をナオミは聞いたのです。
第二次世界大戦中、日系カナダ人として迫害された著者自身の体験も折り込んで作られた物語です。木とともに過ごした幼い頃の思い出が、木と再会することでよみがえる。その木には別れた母の姿が重なっていることでしょう。ナオミの内面に入り込んだ存在としての木。それが静かに感じられる物語でした。
★(1)長田弘『黙されたことば』(みすず書房、1997)より。長田弘は、『人はかつて樹だった』(みすず書房, 2006)、『空と樹と』(エクリ, 2007)、『詩の樹の下で』(みすず書房, 2011)など、木にまつわる詩をたくさん書いています。
★(2) WW/RW便り(2020年8月14日)「文字のない絵本を楽しむ」で、姉崎一馬『はるにれ』(福音館書店、1979)という写真集を紹介しました。
https://wwletter.blogspot.com/search?q=文字のない絵本
★(3) Joy Kogawa (作), Ruth Ohi (絵), Naomi’s Tree, Fitzhenry & Whiteside Ltd., 2009年。残念ながら邦訳はありません。
下記の動画サイトで、著者の朗読を聞けます。自動翻訳を日本語に設定することで、日本語字幕を出して視聴することが可能です。
“Storytime: Naomi’s Tree by Joy Kogawa, illustrated by Ruth Ohi”
(YouTube・Bibliovideo, 2022年6月1日配信;13分54秒)
https://www.youtube.com/watch?v=vrSt5-uul8I
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