2020年3月27日金曜日

「生徒の目」をサポートする「聞く目」 〜ドナルド・マレー(その2)

 ピューリッツアー賞も受賞している優れた書き手であったドナルド・マレー★は、大学で書くことを教え始めた当初、学生の作品に丹念に書き込み、いかに入念に書き込んでいるのかを、同僚に見てほしいと思ったぐらいだったそうです。マレーにとっては、学生の書いたものに書き込むことは、容易い、楽しい作業だったようです。(158ページ、1979年)

 しかし、「いかにそれが楽しいものであっても、責任ある教師として、生徒のものである学びを教師が行なってはいけない。私が書き込むのであれば、それは自分の書いたものに対してであり、生徒の書いたものに対してではない」(161ページ、1979年)と、マレーは思うようになります。また、マレーの学生への関わりかたも、「学生が自分の書いたものをどんどん良い下書きにできるような方法で、自分で自分の書いたものに反応できるようにする」(160ページ、1979年)ことへとシフトしていきます。

 英語を教える私は、学生の書いた英語の間違いを直し、必要と思われるコメントもたくさん書き込んできました。朱を入れ過ぎて、学習者の意欲をそいでしまったこともあります。マレーとは異なり、私の場合は、直したり、コメントを書いたりするのは「容易い、楽しい作業」ではありません。辞書その他を調べたりして勉強もします。書かれている情報に首を傾げながら整理しようとすると、時間も手間もかかり、きりがありませんし、何でこんなわかりにくいものを出すの?とカリカリしたりもします。

 「教師が頑張りすぎると、結局、学んでいるのは、生徒ではなくて教師だよ」と耳にすることもありますが、自分が添削した経験を考えると、実感としてよくわかります。しかし、教師の添削についての私の理解は、これまで、「教師の労は多いけど生徒の学びは少ないから、あまり効率がよくない」という、ごく単純なものだった気がします。

 でも、マレーの本を読んでいると、「効率がよくない」だけでなく、おそらく教師の善意からとはいえ、「生徒の書いたもの」を「教師のもの」にしてしまうという問題を考えさせられます。マレーは「無責任にも、生徒の書いたものを誠実に直すことで、生徒の作品の推敲も教師がしてしまう」ことに気づき、一見、親切そうに見えるものの、それは破壊的であることを示唆しています(マレー、1969年、140ページ)。

 とはいえ、マレーも、いくつかの出来事を経て考えた結果、提出されたものに書き込むのをやめたときには、かなり葛藤したようです。校正すべき綴り等の間違いもありますし、中には焦点が定まらないもの、構成ができていないもの、書き手の声がないものなどもあります。(161ページ、1979年)

 「書き手の学生が、何を言いたいかをまだ見つけていないのに、どうやって教師は、書き手の書いた言葉を変えるのか? 書き手は、まだ自分が何を強調したいのかがはっきりわかっていないのに、どうやって教師は句読点を打てるのか? 書き手は、読者が誰なのかまだ決めていないのに、どうやって教師は語調・言葉遣いに疑問を投げかけるのか?」とマレーは自分に問います。(161ページ、1979年)

 また、マレーは、教師や編集者が、書き手の最初の下書きに書き込むことがあり、その問題にも言及しています。最初の下書きを書いた段階では、書き手はまだ自分が伝えたい意味を見つけられていないことが多いです。ですから、その段階で他者が行う修正は、その書かれたものはこういう意味だろうと考える、その他者自身の思い込みから来ている、そして、書き手が意味を作り出すということを書き手から奪ってしまっている、とマレーは指摘します。(89ページ、1981年)

 「自分が書く題材を見つける」ことも「その題材を書くことで自分の思考を形成すること」も、それぞれの書き手にしかできない、と考えるマレーですが、もちろん、放任しているわけではありません。

 例えば、マレーは、生徒の責任の一つとして、題材を探すことをあげていますが、「教師は、他の書き手たちがどうやって題材を見つけているのかを示す。どのように視点を定めていくのか、どのように認識するのかを、示すこともできる。でも、生徒の世界を生徒の目で認識することは、教師にはできない」(140ページ、1969年)というように、教師ができること、できないことをはっきりさせています。

 マレーは自分のカンファランスを振り返った論文のタイトルに「聞く目」(the listening eye)という言い方を使っています。(157ページ、1979年)

 この表現を見て私なりに思ったのは、次のことです。おそらく、マレーは、プロの書き手として、修正できる点を山のように見つけられる「鋭い目」で生徒の作品を見ることができる。でも、その目を使い始めたとたん、それは生徒の作品ではなく、マレーの作品になってしまうので、その自分の目を使わない。そうではなくて、「生徒の目」で、まだこれから生徒が見つけ出していく意味を見ようとする。そのためには、カンファランスでも、教師が話す前に、生徒に聞くことが必須。

 書くことを学ぶ教室で、それぞれが自分の考えを作り出し、それをお互いに読む(出版する)ことの価値。マレーはそこに以下のような可能性を感じているのかもしれません。

「民主主義は、それぞれが自分の言葉に責任を持っている、様々な声が混じっているところから築かれる。賢明な国語の教師が歓迎するのは、一人ひとりの生徒が、それぞれの書き方で、それぞれの関心を表現する中で生まれる声、相反する多様性があるいろいろな声である」(140ページ、1969年)

*****
★ドナルド・マレー(Donald M. Murray)については、3月13日の書き込みで紹介していますので、ご参照ください。なお、本文中の引用は、マレー自身が自分の書いた論文等を選んで作った本、Learning by Teaching: Selected Articles on Writing and Teaching(Boynton/Cookから1982年に出版)よりです。上に記載したページ数はこの本でのページ数、出版年は、最初に出版された年を記しています。引用の場合は、私のざっと訳ですので、お気付きの点があれば教えていただけますと、ありがたいです。

2020年3月20日金曜日

新刊案内『あなたの授業が子どもと世界を変える: エンパワーメントのチカラ』


 これまでに、これほどユーモアのセンスとイラストが多い教育書にであったことはありません。内容もとても濃いですから、ぜひ手に取ってください。
 まず、著者たちは、以下のイラストで、この本がどんな本かを宣言しています。

 「学校ごっこ」をする場とは、指導内容は「正解あてっこゲーム」ばかりをするので忙しく、ほとんど記憶に残らないので、「従順/服従/忖度」の練習の場化していることを意味します。

 二人の著者が長年の実践と研究(文献)の成果から、転換を図ろうとしている教師たちにとって基礎となる、六つの「学びの真実」を紹介してくれている中の一つを紹介します(斜体は、引用箇所です。残りの五つの真実はどのようなものか、ぜひ本書を手に取って確認してください)。

●真実4 あなたが唯一生徒たちにできることは、予想もできない世界に向けての準備である。
 教師の仕事は、生徒自身が何でもできるように準備するのを助けることです。これを物語にたとえると、私たち教師は案内役であり、生徒たちは主人公ということになります。
 生徒たちの未来がどうなるか分からないとき、私たちの仕事は変わってきます。教科の内容は常に変化し続けているので、教科の専門家という役割から自由になって生徒たちをエンパワーする案内役となります。言うなれば、教科の専門家の代わりに私たちが学びの専門家であることを生徒たちに示すということです。生徒たちが何でも学べるようにサポートするためには、自分が知っている学び方を共有することが一番なのです。(本書、58ページ)

 この文章と関連する内容が、本の別な箇所にあるので、それも紹介します。

実際、あなたは単なる寄り添う案内役以上の存在です。
 教育界で広く知られたフレーズに、教師は「壇上の賢人」から「寄り添う案内役」にならなければならない、というのがあります。この考え方は、従来のように生徒が学ばなければならないことを一方的に教え諭す代わりに、生徒の学びを脇からファシリテートするべきだ、というものです。しかし、この考え方は全体像を正確に捉えているとは言えません。私も含めた多くの教師が「見逃しがち」となっている重要な点があるのです。
「時に、物語の主人公は生徒ではないことがあります。教師の場合もあるのです」
 年度中に、生徒たちが私の案内人になり、私に行動を求めたことが何度あったことか。あなたにお伝えできないぐらいたくさんありました。私たちは、みんなが壮大な冒険のメンバーなのです。私たちはみんな、互いに学び合っているのです。
 実際、もっともよい物語は、生徒たちと一緒に冒険の旅に出発したときに起こります。それは、一緒に着手して、互いに学び合っているときです。私たちが学んでいるのは異なる内容かもしれませんが、旅が共有されていたことは確かです。
 生徒たちの学びの物語を、教師も主体的な役割を担う共有された旅と捉えると、私たちは寄り添う案内役以上の存在になることができます。★注・「教師も主体的な学び手である――この部分が日本の教師観には欠けているなと思いました。やっと日本は、教師はファシリテーターである、と言いはじめた段階です」という翻訳協力者からのコメントがありました。★ 
教師は成長途上にある案内役
 私たち教師はこの冒険の主体的な参加者で、その過程において、生徒たちと同じくらいたくさんのことを学びます。生徒たちが学びの物語を紡ぎ出せるようにエンパワーされ、クラスの仲間や教師と学びの旅を共有すると、彼ら自身がつくり出したり、デザインしたり、探究したりすることを通して、自分と周囲にいるほかの人たちの人生に劇的な影響を及ぼす機会をつかむことになります。(本書、201~2ページ)

6章では、従順なマインドセットから、自立的なマインドセットへの転換を呼びかけています。
 それは、WWRW が自立的な書き手と読み手(要するに、学び手)になるための方法であることと同じです。従来の国語(作文教育や読解教育等)をしていては従順(=一生懸命勉強し、大学に行き、そして出世の階段を上るという慣例に従っていれば何事もうまく運んだ!)のための練習をしているにすぎないのとは対照的です。しかし、そういう世界は、もはや消えつつあるのです。


 107ページの図に示されているように、「自立した学び手」には、「自発的に行動する人」と「自己管理できる人」の両方が必要ですが、WWRWはこれらの練習の機会がふんだんに提供しています(が、従来の国語ではほぼ皆無(?)です。確認したい方は、第6章をご覧ください)。また、これらの二つに必要なスキルは、学校経営を含めて組織経営やプロジェクトマネジメント等、私たちが仕事や生きていくうえでとても大切なスキルであり続けます!(私たちは今、それらをいつどこで身につけているでしょか??)

 第8章のタイトルは、なんと「評価は楽しいものであるべき」です。その後に、
「そんなこと、ありえないでしょ。
本当です。私たちは真面目です」
と続きます。ちょっと普通の本ではありえない体裁で投げかけられるのが本書の特徴です。でも、WWRWになじみ深い本ブログの読者は、「評価は楽しいものであるべき」も、「評価は教え方と学び方に役立つもの」ということにも納得していただけると思います(より詳しくは、第8章を参照ください)。

 他にも刺激的な情報が盛りだくさんです。ぜひ繰り返し読んで、自分の授業に火をつけてください。

本ブログ読者への割引情報●

定価   1980円のところ、
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※ なお1~2冊の場合は、送料を抑えるために割安宅配便を使っているため、到着に若干の遅れが出ることがありますので、予めご理解ください。


2020年3月13日金曜日

ドナルド・マレーから学ぶ(その1)

「書かないということはできないから、私は書く」
         ドナルド・マレー (225ページ、1985年)

 ドナルド・マレー(Donald M. Murray)には、「書かない」という選択肢はなかったようです。そして、書き手として、自分自身の書くプロセスも含めて吟味を続け、多くの人に「書くプロセス」を注目させた人でもあります。1972年に発表した「書き終わった作品ではなく、書くプロセスに注目して教えよう」という主旨の短い文(題名はTeach Writing as a Process Not Product)はよく知られています。2006年に亡くなった後も含めても、かれこれ40年近く、書くことの教え方に大きな影響を与え続け、ライティング・ワークショップ関連の本でも、頻繁に言及・紹介されています。ピューリッツア―賞を受賞したジャーナリストでもあり、ニューハンプシャー大学で書くことも教えました。『イン・ザ・ミドル』の著者アトウェルは、研究会で「ドナルド・マレーのプレゼンテーションがあれば、必ずそれに出席しました」(『イン・ザ・ミドル』166ページ)というぐらい、マレーを深く尊敬し、大きな影響を受けたようです。

 ドナルド・マレーの重要な論文などを集めた本 The Essential Don Murray★を、このところ読んでいます。この本は、マレーが亡くなったあと、彼の同僚2名の手によって編集され、2009年に出版されました。副題は Lessons from America's Greatest Writing Teacherですから、「書くことについて、アメリカで最高の教師だったマレーが教えてくれたこと」みたいな感じでしょうか。

 マレーが教えようとしていることに対して私自身の理解を深めたいという思いもあり、この本を中心に、できれば2〜3回に分けて、私なりに紹介できればと考えています。以下、上記の The Essential Don Murray のページ数と、マレーがその本に収められている文を発表した年を、カッコに記載しています。なお、本文の引用は私の「ざっと訳」ですので、もしお気づきの点があればご指摘いただければ、ありがたいです。

 さて、読んでいて、ひしひしと感じるのは、最初に引用した文もそうですが、マレーの書き手としての確固たるアイデンティティです。書くことは単なる仕事ではなくて、天職であり、その天職に招いているのは自分であり、この天職以外には選択肢はない、自分は書かなければいけない(74ページ、1985年)とまで言っています。

 そして、「… 本当の満足は、書くというそのプロセス自体からやってくる」(169ページ、1986年)と、その書くプロセス自体に、時間とエネルギーを割く魅力を見出していたようです。そういえば「… 出版できることは良いことであるが、出版自体は、毎朝、書くための椅子に座るための十分な動機にはならない」(78ページ、1985年)とも言っています。

 書くプロセスを解明し続けたマレーですが、マレー自身、「書く」というプロセス自体にその価値(喜び?・報い?)を見出していた、というのも私には興味深いです。

 その理由の一つとして、書くことによって考え、考えてもいなかった新しい意味が生まれるので、飽きている暇がないのかもしれません。マレーは次のようにも述べています。

「自分が言わなければならないことを発見するために書きなさい。自分が言いたいことを言えるようになるために、それを知っている必要はない。むしろ逆である。言わなければいけないことを知るために書くのである。これが、書くことにおける、際限なく続く魅力である」(165ページ、1986年)

「... 書き手は、多くの時間、何を書こうとしているのかをわかっていないし、これまでに書いたことすら理解していないこともありうる、という事実を正しく認識する必要がある」(125ページ、1978年)

 書くことで考え、書くプロセスを行ったり来たりしながら、新しいもの、予測も意図もしていなかったものが生まれると考えると、教師の立ち位置も変わってきそうです。

 まず、一つの作品について、生徒がこのプロセスを(時には)何度も行ったり来たりするという動機、時間、場が必要となります。

 どうやって? と思います。マレーは「まずは教師が静かにすること」だと言います。教師が話している時は、生徒は書いていないからであり、プロセスについての話を聞いても、実際にプロセスを体験しない限り、プロセスを学べないからです。(3ページ、1972年)

 「生徒は自分の書く題材を自分で見つける。生徒にとっての真理を規定することは、教師の仕事ではない。自分自身の世界を、自分の言語で探究し、自分の意味を発見するのは、生徒の責任である。生徒にとっての真理の探究を、教師はサポートするが、それを指図するのではない」(4ページ、1972年)

 生徒が自分にとっての意味を探究する時間と場を与え、教師は、指図の代わりに、生徒を尊重し、聞き、サポートする、というのは簡単ではありません。『イン・ザ・ミドル』のアトウェルが、初めてライティング ・ワークショップに出合った頃を振り返り、「…生徒にどうやって責任を手渡せばよいのか、見当がつきませんでした。というより、自分が教室をコントロールするのをやめたくなかったのです」と記しています。(『イン・ザ・ミドル』28 ページ)

 「生徒にとっての真理の探究」とは、なんと壮大な、とも思います。でも、自分にとって意味が見いだせない・興味のもてないことを、ある程度、決まった形になるように書かされている限り、マレーが感じているような、書くプロセスがもたらしてくれる魅力を知ることは、難しいのだろうとも思います。そこで期待されていることが大きく異なるからです。マレーの一連の仕事は、書くプロセスの力を生徒に知ってほしい、そして、書くことを教える教師は、それを生徒が体験できるようにすることができる、それを知ってほしいというところにあるように思います。

 他方、マレーは「締切」というような、極めて現実的・具体的なことにも言及しています。

「ライティング・プロセスのための時間と、そのプロセスを終える時間の両方がなければいけない。考え、夢を見て、窓の外を見つめるようなプレッシャーのない時間とプレッシャーのある時間、つまり後者は原稿を提出する締切という時間、この二つ時間が織りなす刺激的な緊張の中で、書き手は(書くことに)取り組まなければならない」(5ページ、1972年)。

 「締切」以外にも、多くの具体的・現実的なトピックが、マレーの本には登場します。一人ひとりを書き手として成長させてくれそうな提言も、教える際への提言も、マレー自身や他の書き手の経験を踏まえて、惜しげなく、具体的に教えてくれています。

 引き続き、マレーが教えてくれることへの理解を、「書く」ことを通して、深めていきたいです。きっとそのプロセスで、私も、当初考えていなかったことを発見できるだろうと楽しみです。

*****
★ The Essential Don Murray を編集したのは、Thomas Newkirk と Lisa C. Millerで、出版社は Heinemannです。

2020年3月6日金曜日

一小学校教員が考える「読書感想文と本の紹介文の違い」について


 『読書家の時間』の執筆者の一人の相模原市の都丸先生にお願いして書いてもらいました。

昔から読書感想文というものが苦手でした。
本を読むことは好きなのに、読書感想文を書くことは大嫌い。
そんな子どもだったように思います。

小学生の頃、夏休みの宿題で出された読書感想文を書けない(書く気持ちになれない)状態が続き、見かねた父が「読書感想文のじょうずな書き方」なる本を買ってきてくれました。
宿題のために、その本をぱらぱらとめくってみると、「同じ本を読んでいるのに何でこんなことを書けるのだろう?」と思ってしまう文章の数々に圧倒されてしまい、書くことへの不安が強くなった記憶があります。宿題だったのでなんとかして書き上げたとは思うのですが、どの本を読み、どんなことを書いたのかは一切覚えていません。

中学生の頃も、読書感想文が宿題として出されました。
幸いにも読むことだけは嫌いではなかったので、夏休みに読んだ本の中から『クラバート』(プロイスラー作 中村浩三訳 偕成社)を選び、そのおもしろさを誰かに紹介するつもりで書いたところ、原稿用紙が8枚以上(半分以上はあらすじの紹介)を一気に書き上げてしまいました。おそらく「読書感想文」というよりは、本の紹介文に近いものになっていたのだと思います。このときは「こんなにおもしろい本があるのか!これは誰かに伝えないと」という思いが強く、書くことへの苦手意識や抵抗感はほとんどありませんでした。

こうした子どもの頃の経験をもとに、「読書感想文」と「本の紹介文」の違いについて考えてみたところ、以下のようになりました。

【本の紹介文】
・「誰かに読んで欲しい」という本についてのプラスの感情が根底にあるので、書きやすい。
・書くのは、自分が紹介したい本についてのみ。「つまらない」と感じた本については書く必要がない。
・本を通して人と人とのつながりが生まれやすい。
・おすすめのポイントが一つあれば書けてしまう。文章の長さを問われないため、文章を書くことに苦手意識のある子も取り組みやすい。
・誰かの「おすすめ本」というのは、「本の内容」だけでなく「その人が本を紹介したいと思った理由」や「その人が感じた本の魅力」なども含めて、その本への興味が湧く。
・文章の長さや形式を細かく問われない気軽さから、直接顔を合わせてのやりとりの他に、ブログやSNS等を利用した本についての情報交換にもつながりやすい。
・継続して書き続けることで自分の読書記録にもなる。
・本の紹介文の目的は、文字通り本を人に紹介すること。

【読書感想文】
・学校の授業で扱う場合は、教科書の教材文について書くことが多い。そのため「読書感想文を書くために本を読む」という課題ありきの活動になりやすい。また、国語科の成績やコンクールへの応募等を考えたときに「評価の対象としての文章」という印象をもちやすい。
・書くことに苦手意識のある子には「書いてみたい」と思わせる指導が不可欠。
・「本を読んで自分が何を感じたのか」「どんなことを考えたのか」「何を学んだのか」「自分にとってこの本がどんな意味をもつのか」など、自分と本との対話について書かれる部分が多い。
・書くために何度も本を読み返すことで、一冊の本について深く考えることができる。
・「感想を書きたい」と思う本に出会うことー選書がいちばん大切だが、学校やコンクールの現状はそうなっていない。
・読書感想文の目的は、書くことによって自分の考えを深めること。つまり自分のために書くこと。

私は、学校教育の中で子どもたちが本を好きになり、自ら本を手に取るようになるためには、
自分に合う本を自分で選んで読むこと。
多くの本と出会う機会と本を読む時間が保証されていること。
自分にとって価値のある本に出会ったときに、その本を気軽に紹介できる機会があること
の三つが必要だと考えています。

『ニッポンの書評』(豊﨑由美 光文社新書)の以下の記述から「本の紹介文」は、それを発展させると「書評」につながるものと考えます。

「書評というものは、まずなにより取り上げた本の魅力を伝える文章であってほしい。読者が『この本を読んでみたい』という気持ちにさせられる内容であって欲しい。」26ページ

まずは、子どもたちが本を日常的に手に取り、読み続けるための環境をしっかりつくっていくことが大切です。その一つに「この本を読んでみたい」という思いを伝え合う本の紹介文を位置付けることができます。

読書感想文については、自分自身の負の経験から、それを子どもに書かせることで本を読むことを嫌いにしてはならないという思いがあります。もし読書感想文を書くのであれば、これまでに出会った本の中から「自分にとってのベスト」を選んだ上で「本と自分の対話」を書ける読書感想文であって欲しいと思います。


★実際の指導経験を、以下のように書き出してもらいました。

一斉指導の中で、最初にやることは、これまでに教室で読み聞かせをした絵本の感想文(教師が書いたモデル文)を示すことです。全員が内容を知っているので、作品の内容と感想文とのつながりがよくわかるからです。絵本は短い時間で読めるので、児童にやり方を示す際にはとても便利です。
この方法で「書きたい」と思わせることができるかはわかりませんが、「これなら書けるかもしれない」という子は増えると思います。

その絵本を使って、教師が実際にどのような手順で書いたかを紹介していきます。

①本を読み進めながら、印象に残る言葉(疑問・共感・感動・自分とのつながり等)を見つけたら付箋を貼る。※考え聞かせを進めながら実際に付箋を貼るところを見せると効果的。

②付箋を貼ったところを読み返し、そこに自分が反応した理由と文章の中心(いちばん書きたいこと、書けそうなこと)を決める。書きたいことの中心を短い文で書いてみる。 ※ここでは印象に残った言葉をそのまま書き出す(引用)についても教える。

③文章全体の構成を「初め・中・終わり」で大まかに考える。

④下書きをする。

⑤修正をする。(文章の加除修正、段落の順序等の直し)

⑥校正をする。(誤字、表記等のチェック)

⑥清書をする。

⑦互いの作品を読み合う。

※①~⑥で、教師が準備するのは以下のものです。
・絵本
・付箋
・文章の中心として書いた短い文
・文章の構成メモ(プロット)
・下書きモデル
・下書きに修正を加えているモデル
・修正後の完成文モデル

ここまでは、全体指導になりますが、書くことに苦手意識がある子については、さらに個別の支援が必要になります。

自分がこれまでにとってきた方法で最も有効だったのは1対1のインタビュー形式で聞き出すことです。
・この話は好き?/嫌い?
・どんなところが好き?/嫌い?
・どこがおもしろいと思った?
・好きな登場人物はいる?
・自分と似ているところはある?
・自分だったらどうする?
・前に読んだ本と似ているところはある?
・印象に残った言葉はある?
・初めて知ったことはある?
・不思議に思ったことは?
・質問したいことは?
・この本から学べることはある?

などの中から、いくつかの質問をしていきます。その子が詳しく話せるものがあれば、メモを取りながらどんどん聞き出していきます。インタビューが終わったら、「こんなに書けそうなことが見つかったよ」と教師が書いたメモを渡し、その中から書きたいこと(書けそうなこと)を選べるようにします。

★以下の部分は、編集者のリクエストで追加に書いてもらった分です。
 ライティング・ワークショップ/作家の時間に精通している人なら、簡単にできることですが、そうでない人にとっては、このかなり親切な説明でもなかなか効果的にはできないかもしれません。それほど、イベントして書いたり、読んだりするのではなく、継続的に書き、そして読み続けることが大事だということだと思います。しかし、読書感想文は年に1回のイベントであり続けるところが最大の問題かもしれません。