2019年8月31日土曜日

「読むこと」と「話すこと」

 ちょうど、1週前に出席した、長年の教師仲間たちとの研究会で、ブックトークの時間があり、付箋をいっぱい貼った『じぶんで考えじぶんで話せるこどもを育てる哲学レッスン』(河野哲也、河出書房新社、2018年)という本を持ってきた人がいました。

 「どうして、この本なんですか」と聞くと、「忖度のない、先生が喜ぶことの「あてっこゲーム」ではない対話を体験しておくことの大切さを、最近、よく考えるから。そして、そういう対話ができることが、多くの学びの基本にあるような気がしているから」という返事が返ってきました。

 対話・話すことの価値は、『リーディング・ワークショップ』の著者、カルキンズも以下のように力説しています。

 「学校教育において話すという活動は、大きな価値があると見なされることもありますし、まったく無視されることもあります。...  しかしながら、読み書きと同じように、話すことは知性の発達を促す原動力であり、この原動力は極めて大切なことなのです」
         (『リーディング・ワークショップ』新評論、2010年、141ページ)

 『リーディング・ワークショップ』の中には、子どもたちが「読むこと」を通して、話すことを学んでいく様子がたくさんでてきます。特に第9章「話すことを読むことに活かす」(139~167ページ)は、子どもたちが段階を追って、うまく話せるようになる具体例が豊富です。

 私が印象に残ったのは、本についての話し合いで、ほかの子どもの意見を聞かずに話したり、会話の主導権を握ろうとして争ったり、大声をだしたり、また、一度も発言できない子どもがでてきたときの先生の対応でした。

 すぐに仲裁に入り、問題点を指摘するのではなく、「どうすれば、もっとみんなの助けになれる、いい参加者になれるだろうか」を、子どもたちが考えられるように助けています(155-161ページ)。

 「問題が深く大きくはっきりしていればいるほど、子どもたち自身が改善しやすいからです」(156ページ)という文を読んだときは、子どもにとってこういう話し合いを体験すること自体、大きな財産だと思いました。また、教師が、問題に対して、このような対応を、安心してできるようになるまでの、道のりの長さも思いました。

 もちろん、新学期にいきなり「話し合い」をさせ、仲裁にも入らず、問題を認識させることは、マイナス面の方がはるかに大きいと思います。

 カルキンズは「話すことのカリキュラム」と呼んでいますが、「読むこと」の中に「話すこと」を、簡単なことから段階を追って、織り込んでいます。

 最初は、クラス全体への読み聞かせからスタートです。

 子どもたちは読み聞かせの時間に読んでもらった本について、話し、教師は、子どもたちがうまく話せるようになるため、その足場となる土台づくりができるようにサポートします。学年にもよると思いますが、読み聞かせを2~3ページごとに中断して話すというところから、スタートです。最初の段階では、話すテーマを絞るわけでもありません。

 時間の経過とともに、子どもたちは、読み聞かせで読んでもらった本ではなくて、自分で読んだ本について、主体的に話し合いを行うようになっていきます。また、まとまった量を読んでから話したり、一つか二つのテーマを中心に話したりします。
(詳しくは『リーディング・ワークショップ』142ページの「最初は」と「時間の経過とともに」の表を参照してください)

 これが、ブッククラブの学びにもつながっていきます(「ブッククラブの成功ために」229-239ページに、詳しく載っています)。

 カルキンズの場合、カンファランスのために観察したあとに、次のような方向のどれかで、ブッククラブをサポートすることが多いそうです(236-238ページ)。あくまでのブッククラブの事例ですが、具体例を変えることで、他の科目にも応用可能な部分もありそうです。

1)子どもたちの話し合いを違うやり方でもう一度やってみるように言う。
2)ある効果的な方法を試してみるように提案する。
3)子どもたちが直面している問題を明らかにして、自分たちで改善策を考えて、解決できるようにする。
4)誰かがすでにしていること(あるいは、ほぼできていること)を指摘し、ほかの子どもたちにそれをやってみるように言う。
5)話し合いの中で、特定の子どもにささやく形でアドバイスをする。

*****

 このような学びの価値をカルキンズは以下のように締めくくっています。

 「… 子どもたちはほかの子どもと一緒に考えたことについて語り、自分の考えを変え、意見をしっかりともち、人の話を聞き、学ぶことができるという人生を歩んでいくのです。今日の社会では、このようなことを学ぶことに大きな価値があるのです」(239ページ)

 冒頭で紹介した『じぶんで考えじぶんで話せるこどもを育てる哲学レッスン』を持ってきた教員の思いと共鳴する部分、そして話すことの価値を感じます。

2019年8月23日金曜日

読む文化を学校につくるための10の方法


 学年が上がるにしたがって、読む量は低下するというのは万国共通です。
 この状態から脱して、読む量を飛躍的に増やすには、一人二人の教師の努力ではどうにもなりません。それこそ、学校ぐるみの取り組みが不可欠です。
 ある学校が取り組んだ10の方法を紹介します。

1. 読むことを(おおやけ)にする。
 具体的な方法としては、教師が自分の読んだ本のリストを教室に貼ったりすることです。これには、生徒たちも参加できますし、「読みたい本のリスト」や「おすすめの本のリスト」などの形でも可能です。(これ以外の紹介の仕方が、『読書家の時間』の133~138ページに紹介されています。)

2. 各教室に図書コーナーを設置する。
 図書コーナーに学年は関係ありません。すべての学年、すべての教科で、あらゆるジャンルで、生徒たちが読みたがる本(教師や大人が読ませたい本は、本の一部!!)が身近にありさえすれば、生徒たちは読むようになります。

3. 言葉を探究する掲示板を設置する。
 教科で必要な語彙や社会的な事件等で出てきた言葉を、わかりやすく解説する情報およびそれにまつわる本や記事の紹介は、読む文化づくりに大いに貢献します。

4. 教師が創造的に協力し合える時間を提供する。
 教師が協力して授業を計画する時間をもつことで、教科書にはないたくさんのアイディアが生まれます。その時間が確保できないと、退屈な時間を約束することになります。

5. 生徒たちに本(読んだこと)について話す機会をふんだんに提供する。
 自分たちが読んだことや書いたことについて話し合うことは、もっとも効果的な学びのチャンスを活かしきることです。話さない限りは、読んだことや書いたことに興奮できません!!(詳しくは、『読書がさらに楽しくなるブッククラブ』をご覧ください。)

6. すべての教科で学ぶために読むことと書くことを重視する。
 読み・書きは国語の教師だけが教えるのではなくて、すべての教師が教えるものというメッセージが生徒たちに伝わるだけでなく、生徒たちは本当に読んだり書いたりすると、よりよく学べるようにもなります。

7. 各教科に固有の読み・書きを大切にする。
 各教科には特有の読み方や書き方があるので、それをしっかり尊重するということです。しかし、一方で、読むことや書くことと関係のない教科は、たとえ体育や家庭科でさえあり得ません。よく読んだり書いたりすることで確実に学習目標は達成できます。

8. 本当に書く体験を提供する。
 現状では、生徒が書いたものを読むのは教師のみというのがほとんどです。単に教師に書くのではなく、生徒が「これは本当に書いているんだ!」と思える場面設定で書くように工夫します。それは、読者対象を具体的に設定して、意味のあるフィードバックが戻ってくる状況設定と言い換えられます。

9. できるだけ多くの本に触れられる機会をつくる。
 図書館にあるたくさんの本棚から背表紙だけで自分が読みたい本を選べる人は、あまりいません。できるだけ表紙が見えるような設定で選んだり、さらには、中身まで(1~2分で)眺められるようにする機会を設けましょう。

10. 振り返りと目標設定を大事にする。
 何冊読んだとか、難しい内容を読めたり、書けたりするとか、テストでいい点を取ったとかより大切なことは、次に読む本は決まっているのか、あるいは次に書く題材は決まっているのか、ということです。振り返りと目標設定については、『イン・ザ・ミドル』の第8章に詳しく書いてありますので、参照ください。

 生徒たちがどうしても読みたくなったり、書きたくなる状況をつくらない限りは、「学校ごっこ」が続くだけで、生徒たちは最低限のお付き合いをし、「自立した読み手や書き手」からは遠ざかります。そうしないためには、教師たちの(可能なら協力して取り組むための)準備が欠かせません。その時間を確保するにはこの件についての、管理職を中心に、教師たちの優先順位を高くする必要があります。



2019年8月17日土曜日

「見えていない」から「見通す」への移行

『理解するってどういうこと?』を訳すときに、insightという言葉をどういう日本語にするかということについて共訳者の吉田さんとやりとりしたいきさつについては「訳者あとがき」に書いてあります。結局「洞察」という英和辞書の訳語は採らず、「じっくり考えて発見すること」としました。短くはできませんでしたが、「「洞察」でわかってもらえますか?」という吉田さんの問いに答えようとして、その末にわたくしにもたらされたものがinsightなのだと実感しました。
不思議なもので、そういう経験があると、本屋の店先で否応なく本のタイトルが目に飛び込んできてしまうものです。果たしてそれをしも「セレンディピティ」と言っていいかどうかはわかりませんが。ターシャ・ユーリック著(中竹竜二監訳・樋口武志訳)『insight―いまの自分を正しく知り、仕事と人生を劇的に変える自己認識の力―』(英治出版、2019年7月)。つい買ってしまいました。
一言で言うと「自己認識」についての本でした。

自己認識とは、要するに、自分自身のことを明確に理解する力――自分とは何者であり、他人からどう見られ、いかに世界へ適合しているかを理解する能力だ。(15ページ)

この「自分自身のことを明確に理解する力」としての「自己認識」が「二一世紀のメタスキル」だと著者は行っています。なるほど、ですね。では、肝心のinsight(インサイト)という言葉はどういうふうに登場するかというと、次のようなかたちで登場します。

自己認識をひとつの旅と捉えるなら、インサイトはその道中で起こる「アハ」体験だ。自己認識という高速を走る高出力のスポーツカーに燃料を与えるものだ。そんな燃料を得て、私たちはアクセルを踏む。燃料がなければ、路肩に乗り上げてしまう。(29ページ)

「インサイト」なしに「自己認識」をまっとうすることはできないというわけです。そしてその「燃料」としての「インサイト」には、「価値観」(自らを導く行動指針)/「情熱」(愛を持っておこなうもの)/「願望」(経験し、達成したいもの)/「フィット」(自分が幸せで存分に力を尽くすために必要な場所)/「パターン」(思考や、感情や、行動の一貫した傾向)/「リアクション」(自分の力量を物語る思考、感情、行動)/「インパクト」(周りの人への影響)、という七つの「柱」があるとされています(44ページ)。自分についてこの七つがどうなっているのかを知ることで、私たちは自分に関してそれまで気づいていなかったことに気づくことになります。だからこそ「インサイト」は「自己認識」の燃料になるのです。

たとえば「フィット」については次のように言われています。

自分がフィットする場所、自分が幸せで存分に力を尽くせる環境を見つけたとき、人は以前よりも少ない努力で多くを達成できるようになり、良い時間を過ごしたという気分で一日を終えることになる。(中略)自分の価値観を知り、自分が情熱を燃やすものを知り、人生で何を経験したいか知ることで初めて、自分にとって理想的な環境を思い描くことができるようになる。(56ページ)

自分が「存分に力を尽くすために必要な場所」とはどういうものか。もしも読書なら、自分に「フィット」する本を選び出すために、自分の「価値観」「情熱」「願望」をしっかり知らなくてはならないということになります。「存分に力を尽くす」ために必要な本を、そのようにして探し出せるなら、これ以上のことはありません。ターシャのこの考え方は、読書行為の根底に何が必要なのかということを考えさせてくれます。
もう一つ、示唆的だったのは「内省」との付き合い方についての考えです。著者は「内省が自己認識を生むという前提は間違いだ」として、「内省」というプロセスよりも、「インサイト」を得ることに焦点化すべきだと言っています。そして「感情や行動を説明するひとつの根本原因を探す」よりも、「複数の真実や解釈にオープン」であるような「柔軟なマインドセット」を持つことが大切だとも言っています(161-162ページ)。「自分自身についての絶対的な真実を知ってしまいたいという気持ち」から自由になることが肝心だと言っているのです。そうすれば、「内省」が「好奇心に満ちた探究」になると言うのです。
これは「理解」についてもあてはまることではないでしょうか。
また、本書ではinsightに「自分を見通す状態」という訳語もあてられています。「自分のことが見えていない状態」から「自分を見通す状態」になることへの移行がinsightだというのです。その移行において三つのことが必要だとされています(107-110ページ)。
1)自分のなかの前提を知る(自分の価値観や前提を疑う、他者からも疑問を投げかけてもらう)
2)特に自分がすでによく知っていると思っている分野をひたすら学び続けること
3)自分の能力や行動に対するフィードバックを求めること
いずれも自分が当たり前と思っていることを見つめ直しやすくする「テクニック」です。この三つのなかで、2)はどうして「自己を見通す状態」につながるのかということが少々わかりにくいかもしれません。が、「よく知っていると思っている分野」だからこそその分野を学び続けることによって、自分が既によく知っていると思われる部分での無知が露呈し、自分にとっての大切な「気づき」が生まれやすいということです。そのようにして学びを深めるばかりでなく、自己認識を深めるに至った人も少なくないでしょう。
本書や「自己認識」についての本ですが、随所に『理解するってどういうこと?』を訳すときに、insightという言葉をめぐって、共訳者とやりとりしたり、考えたりしたことと重なることが書いてありました。「じっくり考えて発見する」という訳語を考え出したときに、わたくしの心のなかで生まれた発見のことを思い出します。その訳語がすぐに見つかったわけではありません。試行錯誤のどちらかと言えば苦しい道程でありました。そこで得られた「発見」は、英語にぴったり(だと思っているだけかもしれませんが)の日本語を見つけ出したというにとどまりません。むしろ、頭のなかでしっかりと考えることなく、先行者がどうしてその訳語にたどりついたのかということに思いを馳せることなく、作業的に先行者のつくった訳語を利用するだけで事を済まそうとしていた自分自身に気づいたのです。理解行為が、対象を把握することにとどまらず、自分自身がそれまで見えていかなったり、見ようとしなかったりしたことに気づくことなのだということを、この『insight』という本の著者であるターシャさんは文字通り気づかせてくれます。
監訳者の中竹さんは日本ラグビーフットボール協会のコーチングディレクター。おもに「コーチング」の理念について本書原著から多くを学んだと「あとがき」で書いています。「自己の理解と他者の理解は、切っても切り離せない関係であり、非常に難解且つチャレンジングな私の人生のテーマとなった」とも書いています。学びをサポートする立場の人の内面でおこる自己認識を探る人が読んで多くを得た本だということです。コーチングの問題に限らず、本書もまた「理解」にとって大切なことを探究した本であると思います。そして「自分の理解」を半ば含んでいると感じられる場合に限って、私たちには本や文章をひたすら読み、わかろうとするのです。そして本書の言い方を使えば、読者が「自分のことが見えていない状態」から「自分を見通す状態」に移行したときに、深い理解が得られるのではないでしょうか。

2019年8月9日金曜日

学ぶために読むことと書くことを軽視(無視?)している学校


 あなたは、表題に賛同しますか? それとも反対しますか?

  私たちは考えることを通して学びます。その手段として、読んだり、聞いたり、書いたり、見たり、したり(体験したり)します。(他に、考えたり、学んだりするのに効果的な手段はありますか?)
 しかし、学校での授業での中心は、教師ががんばって教科書をカバーすることです。(生徒ががんばって教科書をカバーする、というのは聞いたことがありません! 生徒ががんばりたくなるようなシロモノではないからでしょうか?)結果的に、教師が話すのを聞くか、教師が教科書に書いてあることを違う形で板書したものを見ることが中心になります。(板書したものは、自分のノートに書き写すことがほぼ義務づけられていますが、それに能動的/主体的な部分はほぼゼロですから、価値としてはどんなものがあるのでしょうか? テスト前に暗記して、テストが終わると同時に忘れるぐらいの価値でしょうか?)

 別に、聞いたり、見たり、したり等をおとしめるつもりはまったくありませんが、私たちが学んだり、考える際に読むことと書くことの価値を否定する人はいないと思います。それは、多くの大人が日常生活の中でしていることでもあるからです。(ある意味では、あまりにも当たり前にしているので、気づかないぐらいです!)
 しかし、そのもっとも効果的といえる手段が、学校の中で使われることはあまりないのです。学ぶことに特化した場所である学校や大学が、そんなふうでいいのでしょうか?
 教師ががんばって話したり、書いたりする代わりに、生徒ががんばって話したり、書いたりするだけで、生徒たちの学びの量と質は飛躍的に伸びると思いませんか? 生徒が聞き手にとって面白い話ができるようになるためには、必然的に面白い話を聞いたり、たくさんの本や資料を読んだりすることになります。
 この単純な転換を図ることはできないでしょうか?

 このシンプルな転換をみごとに実現した方法の一つが、ライティング・ワークショップとリーディング・ワークショップ(以下、WWRWと略す)です。(WWRWを実践する教師は、だからといって、楽をしているわけではありません。自分ががんばって話したり、板書したりする代わりに、カンファランス、ミニ・レッスン、共有の時間等、他のより効果的な方法で生徒たちを支援していますから!)
 そして、WWRWのクラスには、唯一絶対の教科書は存在しません。多様な教材やメンター・テキストのうちの一つとして教科書は存在します。生徒たちは、自分に合った本(書く際には、もっとも参考にしたいメンター・テキスト)を選べる能力を磨く形でWWRWの時間を過ごします。この選書能力は、生涯にわたって読み続ける/書き続けることを考える際に、もっとも役立つ力と言えるかもしれません。

 また、読むときに優れた読み手が当たり前のように使っている「理解のための方法」も大事にされています。それには、読みながら①関連づける(自分と、他の本と、世界で起こっていることと)、②質問する、③イメージを描く、④推測する、⑤何が大切かを見極める、⑥解釈する、⑦自分の読みや理解を修正するなどが含まれています。(これらについて詳しくは、『「読む力」はこうしてつける』と『理解するってどういうこと?』を参照してください。)
 この「理解のための方法」のすばらしさは、読むときだけでなく、聞くときや見るときはもちろん、話すときも、さらには書くときも使えるものです。使った方が、理解や学びの質と量が大きく伸びます。より多くを考えますから。

 これら読み書き能力を国語で練習し続けることは当然なのですが、算数・数学、理科、社会、そして他の教科でも使うことを考えたことはありますか?
 使わないと、かなり貧弱な学びが続いてしまうことを意味しています。

 そして、表題に書いたように、教科書以外の読み物★を大量に読んだり、教科書とは関係のないことを大量に書いたりするようにしないと、学びの楽しさも味わえないと思います。

★残念ながら、教科書を「読み物」と捉えられる人は、百人に一人もいないでしょう。どうがんばっても、誰にとってもあれが進んで読みたいものになることは考えづらいです。
 欧米では、20年近く前から教科書も含めた「テキスト・セット」という考え方が普及し始めています。一つの教材が生徒全員に等しく受け入れられるはずがないからです。多様なニーズと興味関心および読みのレベル等の生徒たちに受け入れられるには、複数のテキストを用意して選んでもらうのが、よりよい学びをつくり出すために欠かせないと判断したからです。これについては、『教育のプロがすすめる選択する学び』と今冬に出版予定の『教科書をハックする』が参考になります。


2019年8月3日土曜日

「意味のある繰り返し」と「読み直すことの価値」

 少し前ですが、小学校低学年向きぐらいの、短い英語の絵本を使った読み聞かせのワークショップに出席したことがあります。

 最初の読み聞かせのあとに、いくつか質問をされたのですが、それは、テキストをもう一度見ないと答えられないような質問でした。

 「では、どうだったか確認してみましょう」、ということで、質問の答えを確認するために、再度、読み聞かせです。

 その後も、さらなる質問が提示され、 気がつくと、同じテキストを、何度か、焦点を変えながら、読み聞かされていました。

 このワークショップの最後で、講師の先生が次のようなことを言われたのが、強く印象に残っています。

 「言葉が定着していくためには、重なりや繰り返しが大切。教師は、いかに意味のある繰り返しを作り出すかを、考える必要がある」

 上の言葉は、私の記憶の中にある言葉なので、きっと私の解釈の入った言葉だと思います。でも、「意味のある繰り返しを作り出す」という概念については、その後、よく考えるようになりました。

 「意味のある繰り返し」を考えるときに思いだすのが、「読み直すことの価値」です。リーディング・ワークショップの中では、同じテキストの「読み直し」は、例えば、以下のように、よく行われます。

・ブックトークをするために、その本をざっと読み直す。  
・ブッククラブの準備のために、話したいところに付箋などを貼りながら読み直す。
・書評や紹介文を書くために読み直す。  
・書き手の目で、上手な箇所や作者の工夫に注意しながら読み直す。(→ これはライティング・ワークショップのミニ・レッスンとして行うことも可能です)
・複数の本を比較するために読み直す。
  (その他、『リーディング・ワークショップ』(ルーシー・カルキンズ、新評論)の46~47ページ「ミニ・レッスンで読み聞かせを使う」の中でも、それまでにクラス全体への読み聞かせで使った本の一部を、再度使う例が挙げられています。)

 また、教師があえて設定や奨励をしなくても、お気に入りの箇所の読み直しなどは、読み手がよく行っていることだと思います。

 他の読み手とつながったり、優れた作家が行っていることを学べたりと、読み直しから得られることは多いです。しかも、読み直しは、「読む目的に応じて読み方を変える」場ともなります。得られることの多い「読み直し」(つまり、意味のある繰り返し)ですが、言葉の学習自体も同時にサポートしているのだ、と思うと、まさに一石二鳥です。

 しかも! 読み直しの価値はそれだけではありません。6月24日のRW/WW便り「読書は人生の再読」では、読み直しから(そして、読むこと自体から)得られる豊かさや広がりという価値が説明されているように思いました。

  そういえば、『ライティング・ワークショップ』(新評論、2007年)の著者たちは、書くことにおいて、たった一つのことしか教えられないとすれば、自分の書いたものを読み直すことを教える、と記していたことも思い出しました。 

 こうやって書いていると、読み直しにはいいことがいっぱいありそうなので、夏休み、いろいろ「読み直し」ながら、引き続き、考えてみたいと思います。