2019年5月18日土曜日

あなたはけっしてひとりではない


 長い連休に若松英輔さんの『種まく人』(亜紀書房、2018年)という本を手に取りました。「種まく人」と言えばフランソワ・ミレーの代表作。しかし若松さんの本は美術書でありません。むしろ含蓄のある文章の収められた本であり、詩人である筆者の魅力的な詩が随所に挟まれています。なぜ『種まく人』か。「ミレーの「種まく人」――あとがきに代えて」には、彫刻家萩原碌山の「彼は人の知る如く農夫に関する画ばかりを画いたが、彼の画いた農夫は皆一種の説教である」という言葉に続けて、次のように書かれていました。

〈ルネサンス以降、ヨーロッパにおいて、その国、その文化を象徴するような画家は、ミレーの登場を待たねばならなかった。彼は画家だが、その作品にふれた者はまるで、無音のコトバで説教を受けたような感動を覚えた、というのである。〉(『種まく人』169ページ)



 
 ミレーの〈画いた農夫は皆一種の説教である〉という碌山の言葉は独特の比喩。若松さんはこれを〈無音のコトバで説教を受けたような感動を覚えた〉と解しています。それでも〈説教〉という語は堅苦しく思われます。若松さんは次のように続けています。
 
〈ミレーが絵によって「説教」をした、といっても、高い所から人々にむかって何事かを語ろうとした、というわけではない。彼は絵によって、文字の読めない人にも、この世の摂理とは何かを伝えようとしたのだった。言葉にならない思いを抱えて生きる民衆の心に、ミレーは、色と線、そして構図というもう一つの「コトバ」によって、あなたはけっしてひとりではない、そう静かに呼びかけるのである。〉(『種まく人』170171ページ)
 
 『種まく人』のなかでは〈コトバ〉は〈文字、あるいは声にならない意味のうごめき〉のこと。ミレーは〈文字、あるいは声にならない意味のうごめき〉を表現することによって〈民衆の心〉に呼びかけたというのです。〈あなたはけっしてひとりではない〉と。詩人も同じだ、いや、同じでなければならない、とこの詩人は書きます。
 
〈詩を書くとは、おもいを言葉にすることであるよりも、心のなかにあって、ほとんど言葉になり得ないコトバにふれてみようとする試みなのではあるまいか。

むしろ、言葉にならないおもいで心が満たされたとき、はじめて人は、言葉の奧にコトバがあることに気がつくのかもしれない。〉(『種まく人』45ページ)
 
〈言葉にならないおもいで心が満たされたとき〉に〈言葉の奧にコトバがあることに気がつく〉のだというのは、何かを理解することができたときのことを言い当てています。たぶん、わかったと人が思う時とは〈言葉の奧にコトバがある〉ということに気づいたときなのです。表現者の〈言葉の奧〉の〈コトバ〉に思いを向けるということなのだと思います。理解するということは〈あなたはけっしてひとりではない〉という表現者の〈コトバ〉に気づくことなのだと若松さんは言っているのだと思います。
 エリンさんが『理解するってどういうこと?』の各章で理解のメンターとして選んだ、ヴァン・ゴッホやピカソやホッパーやネルーダらも、それぞれに〈あなたはけっしてひとりではない〉と伝え伝えられた人々だったのです。そして、理解の種類とその成果を考えるということは〈あなたはけっしてひとりではない〉というメッセージの見出し方を知り、そのことによって自分たちの〈コトバ〉にふれることなのではないでしょうか。心のなかのほとんど言葉にならない〈コトバ〉にふれることができたとき、わたくしたちは〈けっしてひとりではない〉と感じることができるはずなのですが、その瞬間が「わかった」と実感できる瞬間になり得るのだと、若松さんの『種まく人』は教えてくれるのです。

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