Aさん・ 第3章のハイライトは、24ページの Maybe the single most important lesson you
can learn as a writer is to write small. だと思いました。焦点を絞る。必ずしも短く書くことではありません。
Bさん・「楽しかったです。」「おいしかったです。」「よかったです。」「嬉しかったです。」「悲しかったです。」「さびしかったです。」等々、小学生から大人までの日本人の得意なフレーズ。こういう作文を読むと、結局何も読み手の心にひっかからないため、「へー」とか「ふーん」とか「ほー」という言葉で片付けてしまいがちになるのだと思います。「もっと知りたい」に繋がらないですよね。これは会話をしていても言えることなんだと思います。そこをこの章に出てくるような細かく具体的な描写で書くことができれば、「書き手と読み手の五感」が一致すると言いますか、まさに臨場感あふれる作品になるのだなと思いました。
Aさん・ 一致する部分とズレる部分の両方が大切な気がしました。(私はひねくれていて、一致することを強要する日本の読解教育になじめなったものですから。フィクションであれ、ノンフィクションであれ、ズレている部分の方が大きいし、大切だという思いをもっています。皆さん、どう思われますか?)一致するから共有できる部分と、ズレているからさらに広げられたり、深められたりするわけで・・・・さらに言えば、文章を盗むのでは決してなく、自分なりにアレンジするというか、さらにいいものにしていくというか・・・・
Bさん・ そうですね。結局そのズレがクリティカルシンキングにもつながっていく部分ですよね。そこをまず「皆が一緒で、一致する」という前提がある、あるいはそう思わせていくのが日本の教育なんですね。まず「皆違う」が前提であるべきなんですよね。心しておかねばならないことだと思いました。そして、そのズレを広げたり掘り下げたりできるのが、ブッククラブでもあるんですね。
Cさん・ A single detail can sometimes
give a window into a person’s whole life. この文章、深い!「give a window into person’s
whole life.」…詩的な表現でうっとりします。
Aさん・ 27ページの You can train yourself to notice the details around
you.作家ノートをつけることで、身近にあるいろいろなことに気づけるようになる! そんなこと、日本の作文教育では大事にされていません。綴り方では、中心に据えらえていましたが。
Use all your senses.目だけでなくて、五感すべてを使うことは詩人や俳人と同じですね(第六感も?)。ここの部分は、まさに前回の主テーマになっていた、子どもたちが鈍感になっていることを乗り越えさせてくれます!
第4章
Aさん・ A
writer’s notebook works just like an incubator. ← この「孵化器」という発想がとてもいいです。私の感覚では「言葉を育てるところ」というよりも、「アイディアを育てるところ」ですが。
Cさん・ Those are describing words. You should smell them
「書く」という行為の前に、細やかな観察力や豊かな想像力によってアイディアを孵化させる。そうやって綴られた言葉の一つひとつがたしかな匂いを放って読み手にせまってくる・・・そんなことを思わせる一文です。「生き生きとした記述」とよく言われますが、それはそれぞれの言葉が五感に裏打ちされた質感や温度を持ったときに、命が吹き込まれたように鮮やかに立ちあがるのだなーと、さまざまな実例を読んで感じました。
そしてそれは「書く」ことだけでなく「読む」ことにも通じるのではないか?と新聞記事のくだりを読んでふと考えこみました。一つの新聞記事も「生き生きとした読み」ができるのでは。。最近ちょっとこだわっているものの中に「個性的な読み手になろう」というテーマがあり、ヒントをもらった気がします。
Aさん・「個性的な読み手」~ 私は、本来、誰もが個性的な読み方しかできない、と思っている部分が大きいので、これを聞くと、ウ~ンと唸ってしまいました。受ける印象・イメージ・想起する考え等は、まったく同じことはあり得なくて、一人ひとりが違う/ズレていると思っているので・・・たとえ同じものを聞いても、読んでも、見ても、考えても・・・
Bさん・ これ、上の五感のズレの部分と同じですね。このことを意識していない/認めていないがために、いろんなことがおかしくなるんですね、この国は。
Cさん・ 高校の現場の悩みなんですが・・大学受験においての読解力では「個性」はノイズとして扱われてしまいます。特にセンター試験の5つの選択肢から正解を選ぶ作業のときに、自分の想像やストーリーを勝手に解釈にのせるな!と指導します。文章の読み方の指導に2タイプあるという現状・・・。矛盾を感じつつ「仕方ない」ですませていますが、けっこう悩ましいです。「読解力」についての私の理解が浅いのか?だれか私を説得してください~
Bさん・ それは「仕方ない」で済ませてしまいますよね・・・「いや違うでしょ」と言ったところですぐにそれが変わるわけではないですものね。理解すればするほど悩ましさは増すと思います。「こんなものは本当の学びではない!」と生徒達が試験をボイコットするくらいになってくれたらいいなーとは思いますが・・・。
Aさん・ ライティングとリーディング・ワークショップでは、年間を通じて本当のことを教え続けますが、テストの前約1週間だけ「テスト」というジャンルを行い、点数のとり方を教えます。年間を通じてテストのための準備をし続けることは、生徒たちに失礼だし、それは真の意味で教えていることにならないからです。しかし、できるだけ高い点数も取らせたいという妥協の産物として生まれた方法です。日本でも、この方法で対処できますか?
Bさん・ テストというジャンルかー!なるほど☆
Cさん・ 学校の中にものさしが一つしかないんです。教員も子どもも。それに加えてAさんが指摘していたように「従順、服従、忖度」の文化が根強く残っているのでやっかいです。社会の構造は変わってきているのに、いまだに「忍耐」を成功への必須アイテムとして子どもたちに強要する教師が多い。もちろんそれがよかれと思ってやっているのでしょうけれども。それで輝けない子どもを量産している気がして、鬱々します。どの子どもも命を輝かせて生きることができる学校をつくりたいです。
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