4月からの新年度に自分はどのような授業ができる/したいか考え始めている方も少なくないと思います。
それは、もろカリキュラムとは何かに関係することです。これは長年「教科書を」vs 「教科書で」論争に対して、自分はどのようなスタンスを取るのか、と深く関係します。
『一人ひとりをいかす評価』』をブッククラブで読んでいたメンバーの一人から、「学習指導要領はカリキュラムや指導法を考えるための指導事項を提示したものにすぎません」(224ページ)という文章に対して、次のようなコメントが書かれました。
「市教委はこういう言い方をします。『学習指導要領は国民との契約に等しい。法律に準じるものです。』つまり『しなければならないもの』ということ。それを聞いた教師の多くは、学習指導要領に準じて検定を通った教科書★『を』教えれば仕事が終わると解釈してしまいます。しかし、それが先生方の自立した授業を発想することを止めてしまっているように思います。教師の仕事はとてもクリエイティブなものだと私は思うのですが…。学習指導要領や教科書の役目は、全国どこでも一定水準の、一定な指導事項を取り扱うためにあるのだと思います。ここはおさえといてね、という。
昨年会った教師志望の学生さんが、学習指導要領に従うと面白いことができない(教育実習でうるさく言われ、教科書通りにやらされたことが面白くない)と言っていましたが、一方で、彼は私の教科書を使わない授業を、学習指導要領を無視していると考えていたこともわかり驚かされました。学習指導要領はこなさないといけない『内容』ではないということが伝わらないのは、誰も読んでいないから? こういう学生さんも、ある意味、危険な存在になり得るなあと感じましたが、現場の先輩方よりは元気があっていいです(笑)。」
「市教委はこういう言い方をします。『学習指導要領は国民との契約に等しい。法律に準じるものです。』つまり『しなければならないもの』ということ。それを聞いた教師の多くは、学習指導要領に準じて検定を通った教科書★『を』教えれば仕事が終わると解釈してしまいます。しかし、それが先生方の自立した授業を発想することを止めてしまっているように思います。教師の仕事はとてもクリエイティブなものだと私は思うのですが…。学習指導要領や教科書の役目は、全国どこでも一定水準の、一定な指導事項を取り扱うためにあるのだと思います。ここはおさえといてね、という。
昨年会った教師志望の学生さんが、学習指導要領に従うと面白いことができない(教育実習でうるさく言われ、教科書通りにやらされたことが面白くない)と言っていましたが、一方で、彼は私の教科書を使わない授業を、学習指導要領を無視していると考えていたこともわかり驚かされました。学習指導要領はこなさないといけない『内容』ではないということが伝わらないのは、誰も読んでいないから? こういう学生さんも、ある意味、危険な存在になり得るなあと感じましたが、現場の先輩方よりは元気があっていいです(笑)。」
あなたは、これを読んでどのように思われましたか?★★
確かに、教育公務員である教師は、学習指導要領をおさえる義務はあります。しかし、それに基づいて作られた教科書をカバーする義務まではありません。そのような印象を教委の指導主事が先生たちに与えてしまったら、大きな間違いです。「教科書は、あくまでも主たる教材」にすぎませんから。それをもとにカリキュラムを開発する権利というか役割をもっているのが教師です(あくまでも、学習指導要領をおさえつつ!)。この点について 学習指導要領を書いている教科調査官たちのスタンスは、https://projectbetterschool.blogspot.com/2012/10/blog-post_21.html に紹介した通りです。(他にも、カリキュラム=年間指導計画について、このブログ・PLC便りの左上に「カリキュラム」を入力して検索すると、たくさんの関連記事を読むことができます。)
教科調査官も、先生たちに自立した授業やクリエイティブな仕事をすることを期待しているのです。そして、教科書をカバーする授業では、教える教師も学ぶ生徒たちも退屈してしまうことを認識しています(指導主事や管理職の中には、このとても大切なことを無視してしまう人がいるのでしょうか? そんなこと、文科省も教科調査官も望んでいません!)。★★★
教科書を脇において、学習指導要領を読み込めば、生徒たちはもちろん、教師もワクワクできる授業に可能性が開かれます。ぜひ、春休みの間に学修指導要領に目を通してください。あまり長くないし、ネットで読めますから、購入する必要さえありません。目を通しさえすれば、教科書では見えない、多様な可能性が見えてきます!
★ 学習指導要領を踏まえて編集された教科書は、全国の誰に対しても使えることを念頭に入れていますが、それは言い方を変えると、「誰にもしっくりこない」ことを意味します。最大の欠陥は、教科書執筆者たちが教師の目の前にいる生徒たちのことを一切知らないことです。(もちろん、教師の得意・不得意も知りません!)カリキュラムとは、教師が学習内容(学習指導要領)を踏まえながら、目の前の生徒たちが受け入れられやすい教材等(教科書は、その選択肢の一つに過ぎません!)を探して、彼らと協力してつくり出すものです。
★★ そういえば、姉妹ブログの「PLC便り」でも似たようなことを今週書いていましたので、ご覧ください。
そこで紹介した本も参考になります。
教科書通りに教えることの弊害にまだ気づかれていない方には、『理解するってどういうこと?』(特に、120~121ページ)がおすすめです。
★★★ 「シラバスは、教科書の目次をそのまま写しています。そうしないと教育委員会にとやかく言われるので。(でも実際は、かなり柔軟に教えています。)一方、「教科書を教える」のではなく「教科書で教える」と教育センターで口すっぱく言われます。ダブルバインドです!?!」や「『教科書さえやればいい、教科書がちゃんとできていれば問題ない、教科書さえもちゃんとできないのか!!』みたいな会話がよく交わされるわけです。お互いの多様な実践から学び合おうとする姿が欲しいです。アルバイトではなくプロなんですから」という現場の声もあります。
教科書の捉え方で最も説得力があるのは、80年代の初頭に出会ったオーストラリアの指導主事から聞きました。それは、「教科書は能力のない教師のためのものです」というものです。能力のある教師は、自分でいろいろ工夫するし、教科書なんて使わないことを、指導主事(も誰も)が認めているのです。この点、日本の教育委員会も、文科省も極めてグレーです。
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