ダンテの『神曲』「地獄篇」を寿岳文章訳(集英社文庫)で読んだときに、訳文の独特のリズムに引き込まれたり、時に恐ろしく、時に滑稽なウィリアム・ブレイクの挿画に見入ったりしながら、読者のわたくしはダンテ(案内役のウェルギリウス)とともにだんだんと地獄を下り、その底に行き着いて、地獄世界が逆円錐状の階層構造になっていることを知りました。それにしても、ダンテの描く地獄世界はどうしてこんなふうに階層的なのだろうかと疑問に思っていました。仏教とは違って、ダンテの地獄世界は区画のある団地のような感じにも思われたからです。
桑木野幸司『記憶術全史―ムネモシュネの饗宴―』(講談社叢書メチエ、2018年12月)の第4章「天国と地獄の記憶」にはその疑問への答えのヒントがありました。フランセス・イエイツという学者の『記憶術』に、「『神曲』「地獄篇」は、「地獄とそこで与えられる罰を整然と配列された鮮烈なイメージで描き、避けなければならない悪徳を心に刻むための記憶法のひとつとみなされていた」と書かれていたというのです。
「地獄篇」は、身の毛もよだつようなイメージ群が、整然と区画された地獄世界の中で、罪の重さに応じて階層的に配列され、実に記憶しやすい構造になっている。多少なりとも記憶術の心得のある読者なら、そのことにすぐ気がつくはずだ。(『記憶術全史』106ページ)
なるほど、そういうことだったのか、「記憶しやすい構造」と言われれば、確かにそう(わたくしには「記憶術の心得」がありませんでした)。ダンテは登場人物のイメージと場面を細やかに描写して読者の頭のなかに「記憶」としての地獄世界を残したのです。わたくしの場合は、寿岳の訳文とブレイクの挿画の助けを借りて、ということになりますが(寿岳訳はダンテの想定した読者が同時代の庶民だったということを意識して言葉を選んでいます。「へへののもへじ」という訳文に遭遇したときはびっくりしました。どこで使われているか、どうぞ探してみてください!)。
『記憶術全史』では、さらに、『神曲』が一種の「建築的記憶術」を具体化したものであって、「ダンテの物語世界では、記憶・想起とはまさに心の中でのフィジカルな身体移動として理解することができる」とされ、「ダンテが当時の記憶理論に通暁し、記憶の様々な特性を巧みに活かした物語構造を紡いでいることは確かだ」と書かれています。そしてダンテが物語の舞台として選びとった地獄・煉獄・天国は、「過去・現在・未来」という「厳格な空間分節がほどこされ」た格好の場所で、ダンテの選んだ秩序然とした空間が「記憶のロクスとしての最適の特徴を備えている」と言うのです。
「ロクス」とは「記憶用の図像(figurae)を受け入れ、活用する仮想の器」のこと。記憶を支える視覚的ツールのようなものでしょうか。記憶術ではこの「ロクス」(器)が重要な位置を占めています。桑木野さんは「記憶ロクス」の条件として七つのことを指摘しています。
1
明るさ
2
堅固さ
3
ロクス間の適切な間隔
4
秩序正しく順番に学ぶ
5
ロクスの巡回方法の規則性
6
ロクスの転用可能性
7
イメージを消去することなく常に保持するためのロクスを持つべし
何かを記憶するために心がけていることなどを思い出してみてください。意外と、この七つの条件があてはまることは多いかと思います。試験のための一夜漬けの記憶のためなら、ハウツー的でリサイクル可能な「ロクス」(器)でかまわないのですが、その場合は記憶は保持されません。大切な記憶をずっと保存するためには覚えたい情報の数だけの「ロクス」(器)が必要です。一つひとつの情報が使われる場面ごとしっかりと記憶主体の感情と結びつけられることが何よりも大切なのだということでもあります。
本書には「記憶と創造の密接な関係」についての考察が少なくありません。つまり「既存の情報を拡張し、データ間の新たな組み合わせを見つけ出す場面、いうなれば知識を創造する現場」で「何かをしゃべりたい衝動」が生み出される点を重んじています。「記憶術」の歴史が人間の記憶の質に関するきわめて重要な問題提起だと言うのです。本書の後半で、記憶術文献に関する緻密な史的考察から桑木野さんが引き出したのは、「記憶とは過去のデータを創造的に再構成することに他ならない」(311ページ)という見解ですが、そのことから、一方では記憶そのものが書き換えられていくおそれがあり、他方では「創造的記憶」を重視し、記憶を不変の静的なものとしてではなく、移ろいゆく動的なものと捉える考え方が導かれます。これは、創造的思考に、一見それとは無縁なはずの記憶が不可欠だということでもあります。とりわけ感情と結びついた記憶ほど、ゆたかで創造的な思考をいざなうものはないのです。
『理解するってどういうこと?』の最終章(9章「感じるために、記憶するために、理解するために」)で扱われた「理解の種類」は「感情と記憶」でした。感情的な絆を覚えることのできたテクストの内容は記憶に残るものです。それは対象を創造的に理解する行為でもあります。「記憶術」の史的な考証の末に桑木野さんが示した見解と、「理解する」とはどういうことなのかを探求した末にエリンさんが導き出した見解とが、同じ景色を見せてくれるというのは、とても興味深いことです。『記憶術全史』を読みながら、わたくしは幾度も『理解するってどういうこと?』第9章を訳した時のことを思い出していました。大切な記憶をずっと保存するというのは、感情を伴った理解がわたくしたちの頭のなかにもたらしてくれる成果であり、またとない学びの宝物の一つなのです。
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