『理解するってどういうこと?』の第8章「すばらしい対話」は、「夢中で対話すること」という理解の種類を扱っています。これは「アイディアについての集中した対話に取り組み、これまで考えていた以上に言うべきことを自分が持っていたことに気づく。自分や他の人たちの意見やその根拠を理解するまで、他の人たちの考え方を考慮したり、疑問を投げ掛けたりする。自分の思考が思いのほかはっきりすることに驚くこともある」という理解の種類です。アンリ・マティスとパブロ・ピカソとの絵による応酬のことや、「対話」をとおして絵本を深く意味づけていく子どもたちの姿が描かれているのですが、いずれも「他人の目で見る」ことを通して、自分の思考をはっきりさせて意味をつくり出しています。
最近になって、伊藤亜紗さんの『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書、2015年)という本を読んだところ、この「夢中で対話すること」のもう一つの意味に気づかされました。第4章「言葉 他人の目でみる」で取り上げられている、美術鑑賞の「ソーシャル・ビュー」の体験と考察を取り上げます。たとえば、伊藤さんたちの「ソーシャル・ビュー」では、美術館の絵画作品を前にして、「見えない人」と「見える人」との次のようなやりとりが展開されます。
ひとまず見える人が見たものを言葉にしていきます。映像はどんどん動いていくから言葉にするのもなかなか大変、その言葉を、ひとつひとつ確かめるように耳を傾ける白鳥さん、しばらくすると彼も質問を投げかけ始めます。
「飛び込んでいるのは大人? 子ども?」
見える参加者が答えます。
「子どもです……とっても楽しそうで……。インドかどこかの国かな」(158ページ)
こういう「対話」の面白さを伊藤さんは次のように言っています。
情報化の時代にわざわざ集まってみんなで鑑賞する面白さは、見えないもの、つまり「意味」の部分を共有することにあります。もちろん、作品を見たその瞬間にぱっと意味が分かる人なんていません。しばらく眺め、場合によってはまわりをまわったりして、自分なりに気になった特徴を「入り口」として近づいてみる。もやもやしていた印象を、少しずつはっきりさせ、部分と部分をつなぎあわせて、自分なりの「意味」を、解釈を、手探りで見つけていく。鑑賞としては遅々とした歩みであり、ときに間違ったり、迂回したり、いくつもの分かれ道があったり、なかなか一筋縄ではいきません。しかし、この遠回りこそが実は重要なのです。(165ページ)
たとえば、ダヴィンチの「モナ・リザ」を「理解する」というのはどういうことを言うのでしょうか? わたくしには「モナ・リザ」を理解することができた、というふうに言い切る自信はありません。が、「気になった特徴」を話したり、「部分と部分をつなぎあわせて」考えた「意味」を語ったりすることならできるかもしれない。最初の引用に登場する「白鳥さん」は「見えない人」ということですが、「見える人」が見たものを言葉にしたことに質問し、それに「見える参加者」が応えていくなかで、まるで協働作業のようにして「意味」がつくられていく。ここで重要なのは「見える参加者」にもはじめから絵の「意味」をすべて把握しているわけではなくて、「白鳥さん」の質問に答えようとして少しずつ言葉を加えることで、絵の「意味」をつくり出しているということです。伊藤さんはこのことを次のように考察しています。
変化は見えない人の中でも起きます。白鳥さんは、美術鑑賞を通して「見る」ということについての考え方が変わったと言います。「それまでは、見えているのはいいことで、見えていないのは良くない、見えていることは正しくて、みえていないことは正しくない、という印象が子どもの頃からずっとあった。見えている人の言うことは絶対的な力があったんですよ。見えている人は強くて、見えていない人は弱い、というような。でも見えている人が湖と野原を間違うというような出来事があって、何か違うぞと思い始めたんですね(笑)」。
つまり、「見る」が絶対的なものでないことを、白鳥さんは知った。そう思うことによって初めて、見えない人にとっても、見える人に対する関係が揺れ動き始めます。
「見えていても分からないんだったら、見えなくてもそこまで引け目に思わなくてもいいんだな、見えている人がしゃべることを全部信じることもなく、こっちのチョイスであてにしたりしなかったりでいいのかな、と思い始めました」
ある意味で、見える人も盲目であることを、白鳥さんは知った。障害が、「見るとは何か」を問い直し、その気づきが人びとの関係を揺り動かしたのです。福祉とは違う、「面白い」をベースとした障害との付き合い方のヒントが、ここにはあるように思います。(186~187ページ)
絵画鑑賞は「見える人」にしか分からない、「見える人」が「見えない人」に伝えてあげることが大切だ、という考え方を根底から覆す発見がここには示されています。「見るとは何か」の問い直しによる気づきが「人びとの関係を揺り動かした」というところがとても大切だと思うのです。「夢中で対話すること」によって生まれる「驚き」もそれに近いように思えるのです。
ある日、世界じゅうの「見える人」の視界が真っ白になってしまったらどういうことになるか。その世界を描き切った『白の闇』(雨沢泰訳、日本放送出版協会)という小説があります。ポルトガルのノーベル賞作家、ジョゼ・サラマーゴの傑作小説ですが、彼はその「あとがき」で「私たちは見ているようで何も見ていないのです」と言っています。わたくしが大学生になった年に生まれた伊藤さんの知性と卓見溢れる本を夢中で読みながら、わたくしはその言葉を思い出していました。
0 件のコメント:
コメントを投稿