まずは、次の話を読んでみてください。
ある男がその息子を乗せて車を運転していた。すると、車はダンプカーと激突して大破した。
救急車で搬送中に、運転していた父親は死亡し、息子は意識不明の重体。救急病院の手術室で、運びこまれてきた後者の顔を見た外科医は行きを呑んで、つぎ のような意味のことを口にした。
「自分はこの手術はできない。なぜならこの怪我人は自分の息子だからだ。」
これはいったいどういうことか?
千野帽子さんの『人はなぜ物語を求めるのか』(ちくまプリマー新書273、2017年3月)の冒頭に出てくる「なぞなぞ」です。かなり悲惨は話だと思うのですが、立派な「なぞなぞ」です。答えることができますか? 私は残念ながらさっぱりわかりませんでした。
この「なぞなぞ」の答えを探ることは、実のところ「わかる」ことの秘密を探ることにつながります。千野さんはこの「なぞなぞ」によって「人間の思考の枠組のひとつである「物語」がどういうものであるか」を教えられたと書いています。しかもそれは、正解を知ったあとだったと言っています。でも、正解を書くわけにはいきませんので、それはぜひ千野さんの本を読んで確かめてください。千野さんの本には次のような魅力的な言葉があふれいています。
人間の行動を、ときには、行動した当人ですら、自分がすでに持っているストーリーのパターンで説明してしまいがちだということ、これはたいへん興味深い現象です。人は、自分の行動の動機を説明するのにも、ありもののストーリーを借りてしまう。
(『人はなぜ物語を求めるのか』139ページ)
ストーリーを言葉で物語るとき、その本文はじつは、(中略)「空所」だらけです。それでも人間はその本文を読み解いて、自分なりにストーリーを構成することができます、そのとき、僕らは手持ちの解釈格子を使っています。
(『人はなぜ物語を求めるのか』196ページ)
先ほどの「なぞなぞ」に答えられなかった私のような人は、答えるために重要な情報についての「空所」を自動的にかつ受動的に埋めてしまっていて、自分が知らず知らずのうちにそうしてしまっていること自体に気づかないというわけです。自分の「手持ちの解釈格子」や「ありもののストーリー」が曲者ですね。それゆえに、先ほどの「なぞなぞ」で、状況は具体的に説明されてあっても、よく「わからない」状態に陥ってしまうのです。
この「なぞなぞ」の正解を知った私は「あぁそうかぁ」では終わらなかったのです。「やられたぁ」でもなかったのです。千野さんの言葉を借りれば、「自分がなにを知らないか」を知ることができたという感慨のようなものを感じていました。これは『理解するってどういうこと?』の41ページに示されている「多様な理解の種類」のなかで「新しい知識や考えや意見を取り入れることで、自分の思考を修正する」ということになるでしょうか。この本の「物語」はまさしく「理解」の枠組みのことです。「自分がなにを知らないか」を知る、というのはとても大切な理解の種類ですし、人類の哲学的知見の基盤をなすものでもあります。最新の物語論(ナラトロジー)の幅広い知識(文芸批評だけでなく、社会言語学のそれも含めて)を駆使しながら展開される千野さんの文章は、私の見たところ、すぐれた「理解」論でもあり、平明な言葉で書かれた「理解」哲学でもありました。
引用されていた話に似た話で、
返信削除“学校帰りの息子を親が車で帰宅途中に事故にあった。病院に搬送されて外科医は患者の顔を見て“自分は…“外科医は息子の母親だったからだ。
というのを思い出しました。引用はわかりませんが、
「車で子供を送り迎えするのは母親の役目」
「医者」「日中フルタイムで働くのは父親の役目」
というバイアスが私たちの中にある。という例え話として載っていました。