ジャミカの爆弾のような発言に対するこのエリンさんの「初動」が、実はきわめて柔軟で大切な理解行為であると教えてくれたのが、尹雄大さんの『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社、2016年)でした。
・何かを見るとき、“それ”を見ているのではなく、“それと自分との関係”を見ている。そのため人は自分の見たいものを見たいようにしか見ていないのです。(107ページ)
エリンさんがもし、ジャミカの言葉と自分(のこれまでの知識や体験)との関係だけにこだわっていたら、そもそもジャミカの言葉に打ちのめされることはなかったでしょう。その言葉を「わからないこと」として排除し、『理解するってどういうこと?』は書かれずに終わったかもしれません。「わかる」歓びの探求に向かうことはなかったはずです。
尹さんは「明るさのもとでの理解を「認識」とするならば、光の届かない領域の知覚を「把握」と呼びたい」と言います。彼の言う「把握」とは「自分が移動して触れるという運動の中で『そのものが何であるか』を理解していく」ことで、「そこには正解はなく、ただ自分にとってそれがなんであるかを知る」ことです。自分にとってその対象が何であるかを、自分の体感を含めて「わかる」ということだと思います。
・「考える」ことを頭だけに任せ、ともかく答えを知ることに重きが置かれている時代です。誰もがそのようなやり方のみが「考えることだ」と思うのであれば、そこで出された答えは似たり寄ったりになってしまうでしょう。実際、頭では「多様性が大事だ」とわかっていても、いったん事が起きると、すぐに賛成か反対かと意見を割り切りたがる傾向があるようにも思います。
だからこそ、わからないことを割り切ったり、別の考えに置き換えて済ますのではなく、わからないことがあったならば、早わかりをしてしまわない。結論めいた言葉を読み、自分の安心できる内容を確認して終わらせるのではなく、次のページをめくってみる。そうすることで初めて膝を打つような納得が訪れ「考える」ことが開始されるのではないでしょうか。こうした体験は情報や知識、概念を知るにとどまらない体の感覚を伴うだけに、「わかった」という頷きは深いところで生じるはずです。(『やわらかな言葉と体のレッスン』200ページ)
私もこの原稿を書くために、先々週読み終わった『やわらかな言葉と体のレッスン』を引っ張り出して、既に印を付けた箇所を前後も含めて、初読では気にもとめていなかった箇所でも改めて重要だと思ったところにマーカーで印をつけたり、ノートに手書きで書き写したりしました。引用した箇所はそのうちのごく一部です。
半ば強引に『理解するってどういうこと?』のエリンさんの言葉と尹さんの言葉を重ねてみるということも、尹さんの言う「自分が移動して触れる運動」の一つではないかと自分のやったことを勝手に意味づけています。
・わからないことを恐れ、闇を排除したくなるのは、それが言葉に、概念に置き換えられないからです。(180ページ)
・わからないことに恐怖するのは嘘ではない。けれども、わからないことに不安を感じつつも何があるかわからないことに期待や歓びを覚えるというのも確かです。(213ページ)
「わからないこと」「闇」を排除するのではなく、そのものに踏み込む勇気を持って「運動」することが「わかる」ことなのだということを二人の本は伝えてくれます。その行為が、私たちのなかに「眠っている知的能力」を引き出し、「わかる」という「歓び」をもたらしてくれるのだとも。尹さんが教えてくれた「自分が移動して触れるという運動の中で『そのものが何であるか』を理解していく」ことは、私たちが大切にしなくてはならない「理解の種類」の一つなのです。きっとそのことによって、自分のなかのそれまで見えていなかった部分に触れることができ、それがくっきりと見えるようになるという「宝物」が得られると思います。
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