2013年12月27日金曜日

他の人からのお薦めを読もう(その1)

 年末(12月27日)と年始(1月3日)のRWWW便りは、「他の人からのお薦めを読もう特集」です。

 まず今回は「年末と年始、束の間の時間をつくって、本との楽しいひとときを過ごすための、お薦めを教えてください」です。

 もし、数名の方が、1〜2日のうちに、このブログのコメント欄に、数冊を紹介していただけると、20~30冊のお薦め本が並ぶことになります。

 20~30冊あると、そこから年末年始に読んでみたい本が見つかるかもしれません。ぜひ、読書ノートを振り返ったり、記憶を辿ったりして、情報提供をお願いします!

 この年末年始のRWWW便りを「他の人からのお薦めを読もう特集」にしようと思ったのは、2週間前のRWWW便り『十代に何を読んだか』のコメント欄に、『カラフル』という本が紹介されていたので、図書館から借りて読んだことがきっかけです。

 この本は、紹介されなければ、私は、おそらく作家の名前すら知らないままだったかもしれません。

 コメント欄のおかげでこの本が読めて、そして、読んでよかったです。

 軽妙なタッチなのでどんどん読めるものの、題名どおり(?)、色彩に富んでいて、々な深さや角度で読めるので、読み終わったあとにまだ消化しきれていないものも残っていて、不思議な読後感です。

 私の中学時代には、なかったタイプの本だろうと思いました。

 ということで、まずは今年読んだ中から、児童文学でお気に入りのものを以下に書きます。

*****

 児童文学では、アヴィ(Avi)とシャロン・クリーチ(Sharon Creech) をけっこう読みました。そこからのお気に入りは以下です。

★ アヴィ(Avi)

The Barn 『父さんの納屋』 

Blue Heron (邦訳はないようです)

* アヴィ(Avi)については、2012年8月10日のRWWW便り「一人で読んでいない」で少し紹介しています。


★ シャロン・クリーチ(Sharon Creech) 

Granny Torrelli Makes Soup 『トレッリおばあちゃんのスペシャル・メニュー』
 
Roby Holler 『ルビーの谷』

Chasing Redbird『赤い鳥を追って』

★ そういえば、今年の初め頃は、ジーン・クレイグヘッド・ジョージ(Jean Craighead George)のジュリー三部作にも、はまりました。3部作の1作目が、昨年の12月12日のRWWW便りで紹介されたおかげでした。

 1作目は『狼とくらした少女ジュリー』(Julie of the Wolves)です。2作目、3作目は、それぞれ Julie, Julie's Wolf Pack です。
 
*****

 また、私も後でコメント欄に、もう少し追加を書ければと思います。皆様も(今年の)お薦めを教えてください。よろしくお願いします。




2013年12月20日金曜日

出版前に「編集者」になる体験を



『作家の時間』の「読み」版である『読書家の時間』を最終原稿にする過程で痛感したことを一つ紹介します。

①それぞれがベストの原稿を書いた上で、6人のメンバーが相互に「大切な友だち」の要領でピア・カンファランス的なことをしてよりよい原稿にしていた時(その時は原稿の分量を度外しして、とにかくベストの原稿にすることを最優先にしていました)と、②全部の原稿が出揃って、上限として許されるページ数から逆算してかなりの程度各原稿を削らないといけない作業として「編集者」としての役割を担う時の大きな違いについてです。

前者は、書き手に寄り添うことが中心です。
それに対して、後者は編集者ないし読み手の立場に立つことが中心です。何は残して、何は削っても差し支えないかの判断も伴います。

立場が違うので、見えるものがかなり違いますから、指摘できるものが違います。
とうぜん、両方大切です。

教師の添削は、どちらかといえば、後者の気がします。でも、それをやってしまう前に、前者の寄り添う部分がないと、子どもたちはせっかくの教師の添削も受け入れづらいだろうな~と、今回の作業を通じてつくづく感じました。

しかし、出版前の「校正」段階では、この「編集」というプロセスもたまには体験することも大切だとも。
というのも、「大切な友だち」で「修正」している段階では、どちらかというとわかりやすくするために、補足するウェートが多くなり、必然的に分量は多くなる傾向があります。カットするという投げかけは、たとえできたとしても、補足するのと比較したら、1対3から1対5ぐらいの割合かと思います。
しかし、それなりにベストの原稿に仕上げた上で、分量制限を提示して、縮める作業は題材選び→下書き→修正に一番コミットしてきた書き手にはできません。「編集者」である第三者にしか。
その体験は、自分の原稿を縮める際に、徐々に役立つ気がします。
縮めるときにだけでなく、作家のサイクル全体に影響を及ぼす気さえします。
ぜひ「編集者」の体験をさせてあげてください。


★ 本物の編集者の視点からすると、メンバーが相互に直し合ったり、削りあったぐらいでは、まだまだ不十分であったことを、いま突きつけられてもいます!!

2013年12月13日金曜日

『十代に何を読んだか』



これは、本のタイトルです。
タイトルにひかれて、図書館から借りてきました。
未来社から1985年に出た本です。
あまり売れなさそうな感じがしましたが、借りてきた本は第3刷ですから、悪くはなかったのかもしれません。でも、いま同じタイトルで出たら、どうでしょうか?

本のタイトルを(1)とすると、
関連して思いついた質問は、
(2)   十代に何を読まされたか?
(3)   十代に何を自分から進んで読んだか?
(4)   十代に自分から進んで読めるようにするには、どうしたらいいのか?
他にも質問が思いついた方は、ぜひ教えてください。
とても大切な気がするので。

私の回答は、以下のとおりです。
(1)(とても、悲しいことですが)タイトルが一つもあげられません!!
(2)たまたま高校時代をオーストラリアで過ごしたのですが、読まされた本は、『マクベス』と『セールスマンの死』と『蝿の王』と『キャッチャー・イン・ザ・ライ(ライ麦畑でつかまえて)』でした。時間をかけて授業でやった割には、ほとんど覚えていません。日本の小、中時代のは、一切覚えていません。(単に、記憶力が悪いだけ?)
(3)これも(1)と同じで、一冊もあげられません。
(4)私のような者にこそ(結構、多くいると思うのですが!)、この質問は大切なんじゃないかと思います。というか、私のような者の周りにいる先生や大人にとって。読書感想文的なものは、まったくダメでしたし、国語の授業も何の助けにもなりませんでした。

そういう極めて悲惨な十代を過ごしたのが、五十代になってリーディング・ワークショップを普及し始めようと思った大きな理由の一つです。従来の図書(読書)教育や国語教育では、すでに読める人は読む、読まない人は読まないままが続くだけだと思うので。でも、リーディング・ワークショップなら、驚異的に読む人は増えますし、読み方も驚くほど変わります。(そうした子どもたちの変化や、それを可能にする教師の変化について詳しくは、いま校正段階に入り来春には出版予定の『作家の時間』の読み版の『読書家の時間』新評論をご覧ください。)

以上は、本を開かずに、タイトルからのみ考えたことですが、以下のようなことをこの本の中で書いている人たちがいました。(ちなみに、この本は、タイトルになっている質問を22人の人にして、答えてもらったものを出版社が編集したものです。)


       <メルマガからの続き>


「『十代に何を読んだか』という設問は、的はずれのものではないだろうか。ことにわたくしのような、旧制高校出身の世代の者は誰でも、この質問には答えに窮するだろう。
 旧制高校は、十代の末頃が卒業の時期であったが、教養主義に浸されたこの過去の教育体制のもとでは、こんにちとはまるでちがって、高校生たちは古今東西の典籍を ~ むろん多くは翻訳によってだが ~ 読むことに熱中するのがふつうだったから、大げさにいえば、『十代に何を読まなかったか』と質問される方が適切なのである。(98ページ)」

私の頃(40~50年前)や、今とはまったく違う時代があったのです!! このあと、読んだ本の一部を書き出してくれているのですが、今では大学生ですら読まないだろうな~と思われるような本がずらって並んでいました。
しかし、この「十代に何を読まなかったか」という質問は、まったく思いつきませんでした。
ということは、読書に関して私たちは退歩していることが確実のようです。要するには、教養や知識がみごとなぐらいに低下しているわけです。これは、大きな問題?? それとも、気にする必要のないこと?

でも、一方で、以下のように書いてくれている人もいますから、救いではあります。

「どうやら私は、たいへん『おくて』の人間の様です。他の人が、十代で読む『青春の文学』に、中年になってから、感動しているのですから。けれども、それはそれで良いのだという気がします。
 本は、若いうちにたくさん読んでおきなさい、そうしないと、あとはもう読めないという人がありますが、私は必ずしも、その意見に賛成しません。もちろん、若い時の読書は大切ですが、本との出会いは、人それぞれという気がします。つまり、ある本に感動する年齢というのは、その人の性格や、人生体験に応じて、みんなちがっているのではないでしょうか。たとえば、老年になってから、『青春の文学』に出会い、心ゆさぶられるのも、すてきな事ではないかと思います。(18~19ページ)」

青春の文学とは言えないと思いますが、たとえば、私の『ギヴァー』との出会いのように? なんと、50歳を過ぎてからの出会いでしたから。

でも、それは、十代に読まなくてもいいということにはならないとも思います。

いったい、十代に何を、そしてどう読むのがいいのでしょうか?
      

2013年12月7日土曜日

自分の読書ノートを振り返る


 今年も12月です。

 この1年間の自分の読書ノートをさっと見ることで、以下に記すように、一石五鳥ぐらいの値打ちがあるように思います。

 おそらく題名などを見るだけであれば、5分もあれば十分です。

 その5分で、今後、育てて行きたい「種」や「芽」も見つかると思います。

1) 読書ノートで健康診断

 1年を通して、もし不健康な時期があれば、それがいつだったのかが、読書ノートからよく分かります。

 私にとっては、本が読めていない時期、図書館に行けていない時期、月に2,000円と決めている絵本購入ができていない時期等です。

 健康維持のためにも、本と過ごす最低限の時間を確保しよう、そして、具体的にできることは?と考え始めます。

2) 読書ノートから年間計画へ

 読んだ本の題名を見ていると、注文しようと思ってそのままになっていた本を思い出すこともあります。来年のミニ・レッスンにいいので使おうと思いつつも、メモすることすら忘れていた本もあります。そんなことをちょこっとメモしておくと、来年の授業もパ 
ワーアップです。次年度の年間計画や、現在の年間計画の修正に役立つかもしれません。

3) 読書ノートでコミュニケーションのスタート

 自分の今年のベスト3などを考えることもできます。人にお薦めしたかったのにその機会を逸した本、子どもに大人気だった本等々、発信できる情報が埋もれていると思います。それをメモしておきます。

 そして時間のあるときに、そのような情報を同僚や保護者に伝えることで、新たなコミュニケーションが始まる可能性も。

4) 読書ノートで、他の人からの情報を得る

 読書ノートで気付いた 3)のようなことを発信してみることで、他の人から得られることがあるかもしれません。

 自分のベスト3を伝えることで、他の人も自分のベスト3を教えてくれるかもしれません。これは、自分の読むジャンルを広げてくれるかもしれません。 

 もし、同じ本を読んでいれば、新たな解釈を得られるかも? それで盛り上がるかも? 大人のブッククラブが始まるかも??

 他の人から情報を得ることで、自分の読み手としての成長、新たな人間関係につながる可能性もありそうです。   

5) 読書ノートで思い出?に浸る

 読書ノートで、読んだ本の題名を見ると、「読んでよかった」本から得た思いがよ 
みがえります。ちょうど楽しかった時間の写真を貼ったアルバムを見ているのと同じ 
で、ちょっと嬉しくなったりもします。

 → ここで思い出に浸りすぎると5分で終了できませんが、いずれにせよ、読書ノートをさっと見直すことで得られることは、多そうです。

2013年11月29日金曜日

目的を持って読む

「どういう目的で読むのかによっても読み方は変わるし、読んでいるもののジャンルによっても、読み方は変わりますね」

 そんなことを授業で話し、「どんな読み方をしているのかを振り返ってみて、いくつか読み方のバリエーションの例を教えて」と言ったことがあります。

 「レシピを見るときに、近くのスーパーで簡単に入手できる食材でつくれるかどうか知りたいので、揃える食材のところだけをざっと見る」等々の回答を、こちらは期待するわけです。

 ところが、私の予想に反して、「最初から飛ばさずに読む」と答える人がいます。私は、「え?」と驚くのですが、その横のクラスメートが、「私も、飛ばすと気持ち悪いし、ちゃんと読みたいと思うから、前から順番に読む」と言葉を重ねます。

 実際のところは、無意識のうちにいろいろな読み方をしているとは思いますが、もしかすると、(特に授業で使うものは)、「飛ばさずに、最初からちゃんと読むのがいい読み方」という意識があるのかもしれません。

 ただ、こういう読み方をしているかぎり、「頭の中で全体をまとめつつ、全体を流れるテーマを考えつつ、大切な情報とそうでない情報を区別する」という、理解の助けになるような上手な読み方は、なかなかできないと思います。

*****

 こんな学習者を見ていて、クリス・トバニ氏という教育者が、いろいろな読み方をどうやって教えるかについて書いている本を思い出しました。★

 その本の中に「目的を設定して読む」ことの大切さを述べているページがあります。

 トバニ氏自身が大学のときに、テキストのほとんどに線を引いて、結局、どこが大事が分からないし、頭にも入らなかったという経験も書いています。

 そして「せめて、先生が 授業で話したところや、それに関連するところに印をつけるという目的を設定すれば、 先生が重要だと考えたところがわかって、テストにでたかも」とも振り返っています。

 つまり、読む前に、自分で目的を設定することで、重要な点とそうでない点を区別するという読み方 
がしやすくなるということでもあります。

 そんな話に続けて、「読む前に、自分で目的を設定する」ことを、具体的に教えるのに適した短い英文が、この本には載っています。

 そして、最初は「重要なところに印をつける」という指示のみで読む、次は具体的に、二つの異なる目的が設定されて、それぞれの目的に鑑みて重要なところに、それぞれに違う色で印をつけるという、練習が紹介されています。

 これを見ていると、目的を設定することで読み方が変わることも、目的に応じて、大切な情報を見つけることができるのも、よくわかります。

 「読む前に、自分で目的を設定する」というミニ・レッスンは大切だと思いましたし、そしてこのミニ・レッスンに適した本も、増やしていきたいと思っています。

*****

 ★ Cris Tovani著、I Read It, But I Don't Get It (Stenhouse, 2000年)とい 
う本の、24-26ページに上のようなことが詳しく述べられています。 

2013年11月27日水曜日

丸谷さんがこだわった「書評」



「思考のレッスン」スピンオフ④です。

たまたま『須賀敦子全集・別巻』を読んでいたら、丸谷さんのことについて書いていたところがありました。
「豊富な知識が本の楽しさを倍加する」という須賀氏と向井敏氏との対談の中でです。

このタイトルは、まさに優れた読み手が使っている読み方の一つである、「つながりを見出す(それも、①自分と、②他の本と、③世界と)」そのものです。詳しくは、『「読む力」はこうしてつける』(特に、37ページ)を参照ください。

この対談の中で、以下のように書かれていました。
27 丸谷さんは作家、随筆家、文芸評論家として隠れもない名声の持ち主だけれども、書評家としてもめざましい業績を上げてきた人です。昭和30年代のはじめごろから今日(亡くなる)まで、じつに30年以上にわたって倦むことなく書評にかかわり、ほんの片手間仕事と見られていた書評を本格的に取り組むに価する高レベルの仕事に引きあげるのに力をつくしてきた。
  それに反応するかたちで、須賀さんが「私がイタリアから日本に帰ってきたころ、丸谷さんの小説『たった一人の反乱』を読んで、あ~これでやっと、現代小説理論の視点で作品を書く人が日本にも出てきたな、と非常に安心したことがありました」 ~ 私には、こういう視点はまったくなく、単純におもしろい内容の小説と思って読んだだけでした! ~ と言ったあとに、
28 取りあげたれた本の分野の広さに驚きました。そして、それぞれの切り口の鮮やかさが印象に残りました。また、本を読む楽しさと同時に、書評も読んで楽しいものだという点を大事になさっている。
   たとえば、『チェッリーニ わが生涯』というルネサンス時代に生きた人間の回想と『ベスト オブ 丼』を両方とも読んでみたいと思わせてしまう。
   和歌、俳諧、近代詩、訳詩、持論など、詩歌の分野に属する本にことに力を入れている。
  そして、丸谷さんの場合は、自国の文学と他国の文学(主には、英文学でしたが、広く外国文学)を広く読んでいた。しかも、丸谷さんの場合は現代文学だけでなく、ずっと早くから古典に目を向けていた。それも、情緒からでなく、方法論の観点から。

  書評の話に戻ると、
29 丸谷さんは最初の三行で人を惹きつけなきゃいけないと、よく言うでしょう。その例が、小津次郎の『シェイクスピア伝説』の書評の書き出しです。

  このあとは、池内紀(『モーツァルトとは何か』)と池澤夏樹の本に、話は移行していきますので、省略。 ~ ちなみに、前者の『モーツァルトとは何か』はおもしろかったです!!


追伸: 以前、丸谷さんは文学について百科事典的な知識を持っているのでは、と書きましたが、昨日、それを証明している本を読みました。なんとタイトルも連載で紹介した「思考のレッスン」にひっかけた『文学のレッスン』です。こちらも、インタビュー形式になっていますから、読みやすいです。

2013年11月25日月曜日

読む・書くは、「市民」のベース

 「思考のレッスン」スピンオフ③です。


 なんと、スピンオフの①の最後で書いたこと(思考させない日本の学校や大学)と、スピンオフの②の最後で書いたこと(市民を育てることをしない日本の学校や大学)とは、根底の部分でつながっていると思いませんか?

実は、そのことに気づいてしまったことが、まちづくり(都市計画)が仕事であった私が教育に関わり始める主な要因でもありました。市民の存在なしにまちづくりをすることは不可能なんです。役所のやりたい放題のサポートをし続けることで満足感が得られなくなってしまったからです。

 でも、これって「ニワトリが先か、タマゴが先か」の論争でしょうか?

 スピンオフの②の最後に登場した苫米地ヤス子さんのような人は、少数ですがもちろん日本にいます。受けた教育に関係なく、市民になる人たちは。
 しかし、多くの人たちにとっては、教育(学校および大学)体験は極めて大きいとも思うのです。
 12年+αのあいだに、何をどう考えるか(あるいは考えないか)は、極めて大切なことだと思います。
 それを私たちは、どれだけ真剣に考えたことがあるでしょうか?
 (しかも、右傾化が進行する中で。安倍政権=自民党政権が続く限りは、それがさらに進むことは約束されています。)

 まさに丸谷さんの『思考のレッスン』が必要な所以です。
 もっともっと、考えるということ、読むということ、書くということ、聞くということ、話すということ、話し合うということ、見るということ、するということ、選ぶということなどを大事にしていかないと・・・・。それが、教科書をカバーする授業では、できません。あくまでも正解に集約される授業では。思考停止の授業では。

 バラバラな知識を詰め込むのではなくて、探究のサイクルや、問題解決のサイクルや、作家のサイクルや読書のサイクルを回せるようになることこそが大切なのではないでしょうか? それが、イコール「自立した学び手」であり、「自立した市民」ですから。

2013年11月22日金曜日

科学リテラシー=考えること=読むこと=行動すること

「思考のレッスン」スピンオフ②です。

前回タイトルだけ紹介した『「科学的思考」のレッスン 学校で教えてくれないサイエンス』戸田山和久著のメモです。
当初は、このタイトルですから、このブログで紹介する内容ではないと思ったのですが、接点が多い(多すぎる?)ので、紹介することにしました。

第Ⅰ部は、科学的に考えるってどういうこと、というタイトルのもとに、
   理論、仮説、検証(実験・観察)、説明
   なぜ実験はコントロールされていなければいけないの?
が書かれていました。
 これは、探究(科学)のサイクルのことですが、基本的には作家のサイクルや読書のサイクルと同じです。(両方とも、サイクルを回すことにこそ、価値があります。が、日本の国語教育も、理科教育も、残念ながらそれを放棄する形で行われています。)

 私にとって参考になったのは、第Ⅱ部の、デキル市民の科学リテラシーの方でした。
 「科学者でない私が、なぜ科学リテラシーを学ばなければならないの?」という問いに答えてくれているのです。少し長くなりますが、私のメモを紹介します。(以下、数字は、ページ数。)

205 科学・技術はたえずパターナリズムに陥る危険性があります。パターナリズムとは、専門家がキミたちのことを考えてやってあげるから、素人は黙ってついてこい、という態度です。
206 科学だけではそもそも解決できない問題に対して、科学者だけに判断を強いる結果になるからです。
209 市民は科学をシビリアン・コントロールできるだけの科学リテラシーをもっていないといけない。
210 科学リテラシーは、知識の量にあらず
必要なのは、「科学がどういうふうに進んでいくのか」「科学がどういうふうに政策のなかに組み込まれているのか」「科学はどんな社会的状況が生じたら病んでいくのか」についての知識です。原子力発電の場合もそうです。どういう社会的状況や、どういうセクターの力関係のなかで、疑似科学っぽい危険な技術になってしまったのか。そういうメタ科学的知識が市民の科学リテラシーの重要な部分を占めるでしょう。
213 そのリテラシーを使って市民が科学・技術に関する社会的意思決定にちゃんと参画して、影響力を及ぼせる仕組みを作らないと、ダメですね。
215 その可能性としての、コンセンサス会議
  鍵は、「鍵となる質問」を作成できるか。
217 「フレーミング」=枠組みづくり=何が考える問題なのかを定めること
 問いをたてられるかどうか、が鍵


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 「市民の科学リテラシー」って具体的にはどういうこと?
224 ①提供された科学情報に適切な問いを抱くことができる
233 ②科学の手続きには必ずモデル化と理想化が含まれることを知っている
235 ③1冊の書籍や一つの情報ソースを鵜呑みにしない。複数のソースを比較して、妥当だと思われる説明を取捨選択できる。
     「分かりやすさ」には落とし穴があることを知っている。喩えだけで満足してしまわない。
239 ④科学の特徴である「分からなさ」がきちんと伝えられているかをチェックできる。リスクや確率的なことがらについて妙に断定的な物言いがなされていたら、ちょっと疑う。
243 ⑤科学が不確実なことがらについて何かを言うとき、必ず外挿や推定が含まれていることを知っている。
245 ⑥科学的仮説を分かりやすい言葉で伝えようとするとき、強調点の置き方によって正反対の含意をもつこともあると知っている。
     それを避けるために、できる限り元ネタにちかいソースから情報を入手しようとする。
250 ⑦モデル化と推定の仕方の違いにより、不確実領域を科学が扱うとき、つねにいくつもの異論が並立していることを知っている。
     その異論の背景には政治的対立の可能性があることを知っている。
253 ⑧自分のリスク認知にはバイアスがあるということを知っている。
     バイアスを避けて冷静にリスク判断するツールとして、数値化されたリスクを参考にできる。
260 ⑨科学・技術に「安心」を要求することは合理的で、科学的・学問的に議論できることを知っている。
262 ⑩デキル市民は、リスク論争は安全性やリスクが問題になっているようでいて、その実、フレーミングの不一致に根ざしているのだということを知っている。
     科学技術をめぐる社会的決定の場面で、科学的なリスク評価を尊重しながら、さらに社会、政治、倫理、責任、信頼性・・・も視野に入れた複合的・多元的なフレーミングを提案していける。

 「市民」って誰のこと?
263 市民とは、対話を通じて社会を担っていく主体のこと
264 単に文句を言うのは、「大衆」
269 市民になりたくないなら、科学を学ぶ必要なんか、さらさらない。
  六ヶ所村ラプソディーに登場する苫米地ヤス子さん

 以上です。
 あなたは、どのような感想・印象を持たれましたか?

 私は、「いま学校で行われている理科教育ではダメだ」というものでした。そもそも教科書だけというのが致命的です!! パッと思いつくだけでも、問いを抱かない(①)、一つの情報ソース=教科書を鵜呑みにする(③)、わからなさを伝えない(④)、異論が存在しない(⑦)、社会、政治、倫理、責任、信頼性・・・をまったく無視している(⑩)のですから、未来はないとしかいいようがないです。
 でも、これって全部、国語にも当てはまると思いませんか?

 最後の、「市民」についてもとても共感できます。ちなみに、この視点も理科はゼロです。
 そして、国語も。
 「苫米地ヤス子」で検索したら、動画を見つけました。
 こういう人は、今の理科教育からは出てきません!
 国語教育の結果からは、出てくるかな?

2013年11月20日水曜日

「芋づる式」という読み方


「思考のレッスン」のスピンオフ①です。

今年の春から、鶴見俊輔のブック・プロジェクトをし(鶴見さん本人と彼が推薦する本
をリストアップしたら100冊以上でした)、その後は丸谷才一のブック・プロジェクト
(こちらの方は、約60冊)をしてきました。後者は、まだ継続中。

この読み方は、私が数年前から採用している「芋づる式」という方法です。
いい本は、確実にいい本とつながっているので、「はずれ」がほとんどない
という極めて確率の高い選書法です。

それに対して、あまりよくないのは、タイトルだけで選ぶ方法。
ためしに、「思考」がらみで、以下の3冊にも目を通して見ました。
・大学での学び方 「思考」のレッスン 東谷譲著
・思考のレッスン  竹内薫 & 茂木健一郎著
・「科学的思考」のレッスン 学校で教えてくれないサイエンス  戸田山和久著
その結果、
私にとって参考になったのは、最後の『「科学的思考」のレッスン』だけでした。
残りの2つは、読めませんでした。というか、読むに値するのかな、と。
丸谷さんは、『思考のレッスン』の中で、「書くに値するものを書け」と
くりかえし言っていました。

「思考」関連では、大分前に「これはいいから、ぜひ」と推薦されて
読んだのが『思考の整理学』外山滋比古著。
(アマゾンでも、かなりいい評価を得ています。)
私にとって、参考になったのは、「あとがき」だけでした。
(私の読み方がまずいのかもしれません!!)

ということで、同じ「思考」でも、いろいろあります。
(人によっては、私とは正反対の選択をする人もいるかもしれません。
その意味で、「推薦図書」というのは極めていい加減なもの、と
割り切っていたほうがいいということです!!)


そして、日本の学校・大学ほど、しっかり選書や思考について
教えていないところはないかもしれません。そのことを、
『思考のレッスン』の本の解説を書いてくれていた人が、それを証明
してくれていましたから、ぜひお読みください。

思考力というか、考える力というか、読む力というか、書く力というか、
聞く力というか、話す力というか、見る力というか、する力というか、
選ぶ力を練習したり、磨くことを学校や大学でほとんどしていないのです。
(養っているのは、暗記する力だけ? でも、暗記力は養えるのでしょうか?)

2013年11月15日金曜日

『思考のレッスン』⑰



 ちょっと長くなりますが、レッスン6(=連載)の最終回です。

258 文章で一番大事なことは、最後まで読ませるということです。当たり前のようだけど、これがむずかしい。
259 文章の最低の資格は、最後まで読ませることである。
 アリストテレスの『詩学』にならって、書き出し、半ば、結びについて考えて行きましょう。
   ・挨拶は不要である。いきなり用件に入れ
262 書き出しは、何よりも大事。そこでストップされちゃうから。
    次は、少し高等技術です。書き出しを考えるときに、他の人ならどう書くかなあ、何の話から始めるかなあと考える。その上で、他の人がやりそうなものは全部捨てるんです。
    嫌われないようにするためにはどうすればいいか。それは紋切り型をよすことです。で、その紋切り型の書き出しの最たるものが、さっきの挨拶なんです。
263 半ばのコツは、
・とにかく前へ前へ向かって着実に進むこと。逆戻りしないこと、休まないこと
    → 歌仙が参考に。
    まず自分の書く中身を全部考えて、どうもこの枚数には、これじゃ足りないぞと思ったら、もう一度、考え直す。この内容で何枚書けるかということは、たくさん書くとわかってくるんです。ところが、この考え直すことをみんなしたがらないのね。
264 考える時間が短いから、書く時間が長くなるんです。たくさん考えれば、書く時間は短くてすむ。
   ・終わりの挨拶は書くな。パッと終れ。

  全体に関わる心得を付け加えます。それは「書くに値する内容を持って書く」です。
265 書くに値する内容といっても、別に深刻、荘重、悲壮、天下国家を論じたり人生の哲理を論じたり、重大な事柄である必要はない。ごく軽い笑い話、愉快な話、冗談でもいい。重い軽いは別として、とにかく書くに値すること、人に語るに値すること、それをしっかりと持って書くことが大事なんですね。


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267 内容がないから言葉が出てこないという例があります。それが国語の教科書。
 小学校1年の国語の教科書で最初に出てくる文章:

 はるのはな/あおい あおい/はるの そら/うたえ うたえ/はるの うた

 みんな/あつまれ/もりの なか
 あおい うみ/みつけた/なみの おと/きこえた/みんな/はしれ

採択率の一位と二位なんですよ。

 谷川俊太郎さんの批評:「作者がぜんぜんみえてこない」「無味乾燥といえばいいか、なんの表現にもなっていない」「学校に入って子どもたちが最初に出会う日本語がこんなチープな言葉でいいものか」と、憤慨している。
268 僕の言葉で言えば、言うべきことが何もない人たちが、言うべきことが何もなくて書いた文章がこれなんです。だから「チープな」日本語になるのは当たり前なんです。

 谷川さんたちがつくった小学1年生用の教科書

              ないたり ほえたり さえずったり
              こえをだす いきものは、
              たくさんいるね。
              けれど ことばを
              はなすことの できるのは、
              ひとだけだ。

 これが文章というものなんですね。言いたいことがあって、それを技術や学識、教養を身に備えた人が書いてる。しかし一番大事なのは、言いたいことがあるということです。小学校の1年生が、最初に教科書を開く。その幼い読者に向かって、筆者は何を伝えたいか。人間と言葉との関係について書きたい、言いたい、そういう思いがあるから、これだけの美しい言葉が出てくるわけです。
 だから、言うべきことをわれわれは持たなければならない。言うべきことを持てば、言葉が湧き、文章が生れる。工夫と習練によっては、それが名文になるかもしれません。でも、名文にはならなくたっていい。とにかく内容のあることを書きましょう。
 そのためには、考えること。そう思うんですよ。