2011年3月22日火曜日
感覚を取り戻すための「書く」
学校の授業で使えそうなアイディアも結構あると思いました。例えば、
①「好きなもの/ことを20個リストアップ」したり、②その中の一つについて具体的に書いてみたり、③詩や文章をタイトルなしで示し、タイトルを考えて出し合ったり(みんな違うのがおもしろい!)、④椅子にタイトルをつけてみたり、対話してみたり、⑤言葉の組み合わせ遊びをしてみたり(たとえば、北原白秋の「赤い鳥」を切り刻んで並べ替えたり)といった具合です。
今回、詳しく紹介しようと思ったのは、「言葉には、見えなかったものを見えるようにする力があるのです」(100ページ)という部分です。
たとえば、引越ししたいと思い始めると、やたらに不動産屋さんが目に入ってくるという体験をもつことがあります。逆に、アンテナがはられていないために見逃していることも、無数にあるわけです。
世界のなかに「わたし」はおり、「わたし」は五感をつかって世界を感じ取り、世界と関係を結んで生きているのですが、感覚というのは意外とすぐにすりきれて、弱まってしまいます。あまりにもいつも当たり前に目にしているものや、当たり前に繰り返しおこっていることは、次第に新鮮に感知できなくなってしまいます。 ← これは、残念なことであると同時に、継続して感知していたら大変なこと!! 疲れてしまいますから。
著者たちが行っている「出張授業」でこんなことを行ったそうです(101ページ)。
大学生たちには、授業中に教室の外へ出て、そこにあるものをあらためてみてきてもらいました。皆、1年や2年あるいは3年間を過ごしてきたキャンパスで、普段はもうほとんど意識して何かを見ることもなくなっています。でも、あとで文章作品に書くのだと思って歩けば、ぜんぜん違うはず。学生たちが教室に戻って書いた作品には、いつもと違うことをした、新しい意識を持った(=アンテナを立てた)からこそ取りもどせた新鮮な目が発見したものが、いくつもありました。
私自身、俳句をつくるという意識で外を歩いていると、目や耳などの感覚に飛び込んでくるものが、他のことを考えて/何も考えないで(?)歩いているときとは確実に違うことを日々体験しています。ある意味では、俳人や詩人の視点で世界に触れるということは、見えてくるもの、聞けるもの、感じられるものがまったく違う世界だと言えます。これはまさに、作家やノンフィクション・ライターやジャーナリストや詩人などになることを通して書くことを学ぶライティング・ワークショップ(WW)の根幹の部分の体験と言えます。(まずは、教える側の教師自身がそういう体験をもっていることの大切さも痛感します。)
本の最後は、「新しい言葉を書き、読むことで、新しい自分をかたちづくっていきましょう。人は何度でも、生まれ変わることができるのですから」で締めくくられています。去年の9月から長年の念願だった俳句(というよりは川柳のレベル)や詩を毎日一句ずつ書いているにすぎませんから、まだそこまでの感覚はもてません。でも書く前の状態とは違う何かが生まれだしている感覚はあります。単なる自己満足という錯覚かもしれませんが。
2011年3月18日金曜日
いろいろな言葉があること、そして選択
長期でできることを考え、行動に移していかなければと思います。
ました。
ということを考えていて、ある詩集のことを思い出しました。
「私の知っているこの場所~安らぎ、癒しの詩」という感じでしょうか。
が起こったあとに、安らぎ・癒し、希望をニューヨークの子どもたちに与えよう
として、19世紀から現代の詩人まで、いろいろと集めたようです。
いうことで、それぞれの詩に絵を描くアーティストたちも参加し、そして、18
の詩とそれに合う絵がついたこの絵本のような感じの詩集がつくられたそうです。
た。子どもそれぞれに反応も思いも違うだろうと思うからです。
多発テロが起こらなければ、この絵本をつくられなかったのではないかとすら思
えます(アマゾンには、「とりわけ感動的なのは、本書の最後を飾る絵――
フィリップと彼の渡り綱によってつながれた、今や『記憶の中』の存在となった
書くということ一つをとっても、それぞれに、詩、絵本と、いろいろな表現方法があるとも思
いましたし、その選択を子どもたちが持っていることも大切だと思います。
(メンター・テキストについては 2010年9月17日と10月1日のブログをご参照ください)。
○ ここ何回かのWW便りに紹介したドナルド・マレー氏の書いた、直訳すると
「ひとりの書き手が書くことを教える」(原題: A Writer Teaches Writing)と
いうような題になる本を最近読んでいました。
その中に、以下のような文がありました。ざっと訳の拙訳で申し訳ありません
が、2カ所、紹介します。
「どのクラスも、いろいろな生徒がいて、その多様性がチャレンジでもあり喜
びでもある」
「書くことは、世界を理解する一つの方法であり、私たちの多様な理解を共有
することによって、私たちが匿名性と孤立から抜け出す一つの方法である」
出典など:
This Place I Know: Poems of Comfort という詩集の説明は、以下のアマゾン
のサイトで、(上で説明したよりも)もう少し詳しく書かれています。
http://www.amazon.com/This-Place-Know-Poems-Comfort/dp/0763628751/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1300430778&sr=8-1
http://www.amazon.co.jp/This-Place-Know-Poems-Comfort/dp/0763619248/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1300431685&sr=8-1
『綱渡りの男』(モーディカイ・ガースティン著、川本 三郎訳、小峰書店
2005年)の説明は以下で見れます。
http://www.amazon.co.jp/綱渡りの男-YOU-絵本コレクション「Y-」-モーディカ
イ・ガースティン/dp/4338202041/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1300431832&sr=1-1-
catcorr
(→ もし、実話をもとにしたすぐれた絵本を生涯10冊選べと言われると、私の
場合、この絵本は入るように思います)
マレー氏の本情報は以下です。
Donald M. Murray, A Writer Teaches Writing (revised second edition)
Thomson, Heinle, 2004.
2011年3月11日金曜日
1×4 > 4×1
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今日の「WW便り」は数字の題です。
普通なら「1×4」と「4×1」はイコールのはずなのですが、書くことにおいてはそうではなさそうです。
この前、読んでいた本の中に、「一つの作品に4回取り組むほうが、一回書いて終わりにする作品を4つ書くよりもよい」と書いてあり、なるほどと思いました。つまり、「1×4」のほうが、「4×1」より、いいということです。(→ そこから上の題を思いつきました)。
今日は、この言葉から考えたこと、思い出したことをいくつか書きたいと思います。
○ 『ライティング・ワークショップ』の共著者の一人、ラルフ・フレッチャー氏の作家ノートについてのある本の中に「下手に書く場所」という名前の章があります。
これはもちろん、意識的に下手に書くという意味ではありません。
フレッチャー氏によると、ちょうど初めてスキーにトライしたときには沢山転ぶように、書くことにおいても、たくさん転んでもいい場所が必要だということです。
また、同じ本の違う章の中で面白いエピソードも紹介しています。
洗濯機に入れる前にシャツのボタンをとめているフレッチャー氏を見て、奥様が「前から聞きたかったんだけど、どうしてそうするの?」と尋ねます。
「そのほうが、形が崩れないから、ってマリアン(前の妻の名前)が言っていたから」とフレッチャー氏。
現在の奥様の前で、急に前の妻の名前が出てきた、そのときの感情を、フレッチャー氏は、作家ノートに「汚れたシャツのボタンをとめるーーマリアン」、と数単語だけメモします。
そして、その数週間後、その数単語の書き込みに戻り、そこから詩を仕上げます。
最初からうまく書くということを目指すのは無理だし、最初は断片だけ書いて、あとからそこに戻ってもいいということを教えられます。
○ 先週のWW便りでも紹介したドナルド・マレー氏ですが、面白いことを言っています。
拙い意訳で恐縮ですが、2つ紹介します。
「多くの教師は、子どもたちがちゃんと文を書けないと嘆く。私は、自分の学生たちが文を書くことを嘆く。(自分の学生たちは)あまりに早すぎる時期に(文を書く)。(文という)形を整えつつ、意味をなおざりにする」
「上手に書くためには、下手に書くことをしなければいけない。もちろん。下手に書くというのは、きちんと整っているかとか、完全であるかとか、そういういう点において、そうではないということである。というのは、しっかり頭が動いているときには、その思考は、まだ整っていないし、完全ではないからだ」
つまり、頭がどんどん動いているときには、そのスピードに、文をつくるということはついていけないぐらいだというわけです。
マレー氏の上の言葉がでてきた章を見ていると、最初から文を書くことはありえない? とすら思わされます。
*****
フレッチャー氏やマレー氏の本を読んでいると、本当の作家にとっては、1×4ではなくて、4のところの数字がもっと大きい気がしました。
そして本当の作家にとっては、読者に読んでもらうに耐えるものを書くために、まずは文をつくろうとも思わずに、どんどん思考し、その断片を書きとめ、それに何度も修正、校正両面から、「手を入れる」、これが本当に書くサイクルなんだろうとも思います。
本当に書く体験をめざすWWの授業では、1×4(以上)というサイクルは存在しても、4×1は存在しないのでは?とも思います。
1×4 > 4×1は、「本当に書くサイクル」 > 「本当ではない書くサイクル」みたいな気までしてきました。
出典:
「一つの作品に4回取り組むほうが、一回書いて終わりにする作品を4つ書くよりもよい」と書いてあったのは、Mary Sullivan, Lessons for Guided Writing Grades 5 & Up, (Scholastic, 2008) 10ページ。
フレッチャー氏の「下手に書く場所」という章が出てくる本は Ralph Fletcher, Breathing In, Breathing Out (Heinemann, 1996) 55-57ページ、汚れた洗濯物にボタンととめるエピソードは、17-19ページ。
マレー氏の上の言葉がでてくるのは、Donald M. Murray, Expecting the Unexpected (Boynton/Cook, 1989)の39ページと46ページ。
2011年3月4日金曜日
こぼれてしまったミルクからアイスクリームをつくる → 作家のサイクルを動かす ためには
追伸: ドナルド・マレー氏の、おそらく唯一邦訳されている本『人生、これからがときめきの日々』(村上博基訳、集英社、2002年)を読みました。これは書くことの教え方についての本ではなくて、マレー氏の回想録です。最初、こんな人生を送ってきた人だったのか、と少し戸惑いましたし、驚きもしましたが、最後まで読み終わって、読んでよかったと思いました。なお、書くことは、まさにマレー氏の一部ですから、当然、随所に出てきていています。