2025年11月28日金曜日

読み手、書き手として留まることの危機  

 リーディング/ライティング・ワークショップでは、「生涯にわたる読み手・書き手を育てよう」というフレーズを、よく耳にします。耳障りの良いフレーズですが、それが難しいと感じる時期、読み書きとどう付き合えばいいのでしょうか。

  そんなことを考えたのは、ここしばらく、家族の介護のために自分の時間が取れなくなり、頑張ろう!と自分を励ましても、頑張りきれなかったからです。読み手、書き手でいたい気持ちはありましたが、図書館から本を借りてきても、1ページも開かずに返却することが続き、予約の本が届いても取りに行けず、そのうちに、予約申込をすることもやめてしまいました。

 ▶️ 読み手でいるために? 

  そんな状態になる前に、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(三宅香帆、集英社新書、2024年)を図書館から借りて読んだ時に記した、簡単なメモがあることを思い出し、今、それを見ています。

 「自分から遠く離れた文脈に触れることーーそれが読書なのである」と書かれ、「そして、本が読めない状況とは、新しい文脈をつくる余裕がない、ということだ。自分から離れたところにある文脈を、ノイズだと思ってしまう。そのノイズを頭に入れる余裕がない。自分に関係のあるものばかりを求めてしまう。それは余裕のなさゆえである。だから私たちは、働いていると、本が読めない(234ページ)」となっています。

 「働く」ことではなく、家族の健康に関わる理由であっても、本が読めなくなる状況には、共通点を感じます。「自分に関係のあるものばかり」と書かれていますが、確かに、手続きの書類や諸手続きに必要なメールのやり取り等々、読んでいるのは「とりあえず」必要なことが中心です。

  『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』の「あとがき」 (267-275ページ)の中で、働きながら本を読むコツ(267-270ページ)は、以下のように記されています。(以下も、借りた時に作成したメモのため、雑なメモですみません。)

 ① 自分と趣味の合う読書アカウントをSNSでフォローする 「『次に読みたい本』が流れてくる環境をつくる」268ページ

 ② iPadを買う (スマホより読みやすい、iPadにはSNSをアプリを入れない(通知がきたら気になってしまうため)268ページ

 ③ 帰宅途中のカフェ読書を習慣にする 「店に寄ることでここにいる間は読書の時間と決めてしまって、癒される趣味の時間、と区切るのはおすすめです」269ページ

④ 書店へ行く 
⑤ 今まで読まなかったジャンルに手を出す
⑥ 無理をしない 

 上の①-⑥を見ていると、今の私には、②〜⑤がフィットしないので、「⑥の無理をしない」時期のようです。

  幸い、①に関連して、これまで、たくさんのいい本を教えてもらってきた「あすこま」さんのブログは不定期ですが、読み続けています。それは、これまでの、本との楽しい時間のおかげです。リーディング・ゾーンに入った時の楽しさ、読んでいてびっくりしたり、納得したり、「お見事!」と思わず思った書き方との出合い等々を、感覚として覚えている気がします。子どもたちにとっても、本にギュッと掴まれたり、思わず本と対話してしまった経験ができることは、将来、本が読めなくなる時期においても大きいと思います。「読み手に戻りたい」という気持ちにつながるからです。

 ▶️ 書き手でいるために 

  外出するときに、書くことに関わる本を持ち歩きつつ、パラパラみています。今、持ち歩いている本(★1)の中では、「時間がないというウソ」(The Time Lie)というセクションがあり、「もっと時間があれば書けるのに」と願うことの不毛さが述べられています。

  「十分に時間がある時期を待つのではなくて、時間を見つけていく・その時間をしっかり掴まえていく」という、当たり前といえば当たり前のことが書かれています。

  その当たり前のことを実現させてくれる土台は、「書くことが好き」という感情だと、著者は考えているようです。

 「書くことそのものへの純粋な愛から書くことを学べば、時間は常に十分にある。しかしその時間は、逃亡中の恋人たちの一瞬のキスのように、盗み取らねばならない」(14ページ)という文まで、出てきます。

  「書くことそのものへの純粋な愛」と言われても、私にはピンきません。私にとっては、「書くことで何かを発見できた」ことが、「書くことへの愛」に近いかもしれません。 

  手続きに関わる問い合わせメールを書くときでも、「これは、どう進めればいいのか」と、決断や選択が必要なものは、機械的に効率よく処理できません。下書きを書いて、翌日、読み直していると、「こっちの方向で考えたほうがいい」等と、自分の考えが整理されたり、新たな発見があったりします。

  もちろん、どんどん決断して、どんどん処理できれば、効率という点からは、ベストかもしれません。ただ、私の場合は、急ぐと、結局、後悔したり、やり直しで時間がかかることも結構あります。

  そう思うと、私には、「書くことで何かを発見する」ことと「効率よく何かを書き上げる」ことは、「時折、交わる平行線」のようです。書くことで、発見があり、方針が決まると、「書き上げる」線と交錯して、前に進める感じです。

 短いメールなどの日々の生活の中の最低限必要な「書くこと」であっても、「読み直して、書き直す」ことで、新たな発見があったり、「相手(読者)の視点で考える」など、これまでライティング・ワークショップで学んできたことが土台にあるのもわかります。

 ▶️ 読み手・書き手を「細々と」続ける

  上で書いたように、「あすこま」さんのブログの本情報は読み続けているので、先日、久しぶりに図書館に予約申し込みを出し、今回は予約した本を取りに行けました! その中の1冊『杉みき子撰集3』は、一つひとつが短いので、「細々と」読み続けのにはぴったりです。

  また、読み書き教育についても多くの本を出版しているHeinemann社の、読み書きについての動画シリーズ(その時間に視聴できないと、後で、動画を視聴できる)にも申し込みました。 

  書くことについては、「逃亡中の恋人たちの一瞬のキス」よりは長めに、メールチェックのためにコンピュータを開いた時に、数分の入力を細々続けてみようと思いました。(→それが今回の投稿です。)

 介護のように健康が関わることは、状況が一定ではありませんので、予想外の新たな対応が必要になってくることもあり、続けよう!と思っても、頓挫することはこれからも出てきそうで、様子見しながら、工夫しながらと思っています。

 そう思えるのは、「読み書きはとても辛抱強い」からです。どんな読み方をしても、著者は異議を唱えることはなく、書き散らしたメモも同様です。

 今回、フランク・スミスの本『なぜ、学んだものをすぐに忘れるのだろう?』の中の、以下の文を思い出しました。

「著者は、どんなに子どもに甘い両親と比較しても、子どもたちや幅広い世代の読書にとって、最も忍耐強い協力者であると言えよう。学習者が一七回続けて物語を読みたくても、難しい文章をとばしても、頻繁に間違った解釈をしても、ある部分に戻り続けても、著者は決して異議を唱えることはない」(フランク・スミス著、橋本直美ほか(監修・翻訳)、大学教育出版 2012年 44ページ)

 読み書きの辛抱強さはありがたいです。

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 ★1 Julia Cameron著 の The Right to Write: An Invitation and Initiation into the Writing Life という本です。 (題名を直訳すると「書くことのある生活への招待と開始」みたいな感じです)。Jeremy P. Tarcher/Putnamから1998年)。The Time Lie というセクションは13-17ページ。

2025年11月22日土曜日

ともに「意味の源」に向かう仲間となる

  エリンさんは『理解するってどういうこと?』の「はじめに」で、ズィマーマンさんと一緒に書いた『思考のモザイク』が教育現場にどのようなことをもたらしたのかということを次のように振り返っています。

 「この十年ほどのあいだ、多くの教師たちが『思考のモザイク』で私たちが提示したアプローチを活用してくれただけでなく、それらを巧みに、そして創造的に応用してくれました。読み手が理解するための7つの方法(以下、「7つの方法」ないし「理解するための方法」と略)を子どもたちに教えることで、それほど多くの学習が可能になるとはまったく想像していませんでした。教師たちは一つひとつの方法に、私たちが考えていなかったような側面があることを発見し、7つの方法をどのような順番で教えたらいいかをさまざまに試し、そして特定の方法を教えるのにふさわしいタイミングを見出しました。さらに、子どもたちに方法について明確に説明する新しい言い方を考え出したり、子どもたちが考えたこと(=理解していること)を捉えて記録する方法を開発したり、7つの方法について考えたことを声に出して言うことが巧みにできるようにする方法まで見出したのです。」(『理解するってどいうこと?』ⅲページ)

 7つの方法」とは、『理解するってどういうこと?』の巻末「資料A 理解するための方法とは」に掲げられた「関連づける」「質問する」「イメージを描く」「推測する」「何が大切かを見極める」「解釈する」「修正しながら意味を捉える」の7つです。どういう「方法」かということは「資料A」にエリンさんの詳しい説明がありますのでご参照ください。しかし、その一つひとつを解説することが「7つの方法」を教えるということではありません。『思考のモザイク』を読んだ教師たちがやったように、「7つの方法」を実際に本や文章を読む際に子どもたちが使いこなすことができるように、どの「順番」で教えたらいいかを試行錯誤したり、ある方法を教える「タイミング」を発見したり、子どもたちが理解したことを書き留める(記録する)方法を編み出したり(ワークシートも含めて)。どうすれば「7つの方法」をつかってわかったことを他の人に話して伝えることができるのか、そのやり方を編み出したりすることです。本や文章のなかで「7つの方法」のどれかを使わざるを得ない箇所を見つけて、それを「道標(signposts)」と名づけた研究者もいます★。

 「7つの方法」は言うなれば学ぶための「道具箱」のようなものですが、エリンさんが述べているような教える工夫をしなければ、学習者の頭と心は動きません。

 20221119日の「メッシュワーク(編細工)としての理解過程」で取り上げた『生きるということ』の著者で哲学者のティム・インゴルドの近著『教育とは何か』(古川不可知訳、亜紀書房、202510月)には次のような一節があります。

 「盤をはさんで対峙するチェスの指し手が、それでもゲームへの共通の愛に加わるように、教育においても教師のアカデミックな構えは、言語への愛と世界への愛を児童と共有するというさらに根本的な責任によって支えられており、それが教育の根底にある使命をもたらす。それは何が周囲で進行していのかに注意を払うように訴える形の、直接法現在のなかで展開する使命であることを思い出すかもしれない。「いいものを見せてあげる」と教師は児童に言い、「きっと見る価値があると思うよ」と付け加える。まさにこの瞬間、児童は興味の源に視線を向け、もはや教師と相対するのではなくその源へと同じ方向を向く。そして児童たちは教師とともに、仲間としての構えに加わるのだ。」(『教育とは何か』、155156ページ)

そして「勉強」についてこんなことも言っています。

 「勉強は永遠の開始の過程において進行するのであり、あらかじめ定められた目的の達成を目指すのではない。それは共通の関心を生み出すことであり、個人の欲求を充足させることではない。それは友情や配慮(ケア)、愛さえももたらすのだが、個人的な幸福を提供するふりはしない。勉強は変容をもたらすものであって、訓練ではない。保護や安全を提供したり、物事を容易にしたりすることとはまったく違い、勉強は困難かつ不穏なものであるだろう。それは先入観の防壁を打ちこわし、思考を揺るがす。だがそうすることによって、勉強は私たちを自由にすることができるのだ。」(『教育とは何か』、165ページ)

  教師と学習者が一つの関心を共有し、変容する。学ぶことがお互いを「自由」にする。こういう「勉強」なら夢中になることができると思いませんか? 

 エリンさんが自分の本に示した「7つの方法」を、子どもたちが使って本や文章をわかることができるように工夫した教師たちのやったことは、インゴルドの言う「いいものを見せてあげる」「きっと見る価値があると思うよ」と働きかけることだったのではないでしょうか。だからこそ子どもたちは教師の顔色などには目もくれず「意味の源」にまっすぐに「視線」を向け、本や文章を理解することに没頭したのです。「7つの方法」を使って「意味の源」を探ろうとする「仲間としての構え」をとることができたのです。それが「7つの方法」を教えることの理由だと、教師たちは気づいたはずです。「意味の源」へと同じ方向を向いた仲間に加わる――理解することを教え・学ぶうえでとても大切で、とても素敵なことだと思います。

 Kylene Beers and Robert Probst(2013) Notice and Note. Heinemann. たとえば登場人物の「予想外の言動」に注目して、「この人物はどうしてそういうことを言ったりしたりしたのか?」という問いを考えていけば「推測する」という「理解のための方法」を使わざるをえなくなります。

 

2025年11月14日金曜日

「作家の時間」実践記録:かんくら文学賞

  大阪府にある中高一貫校、関西大倉中学校高等学校で国語を教えている堀内誠太郎先生が実践紹介をしてくれました。かんくらでは中学1・2年生を対象に「作家の時間」「読書家の時間」を実践しているそうです。堀内先生は今年度は高2学年の所属ですが、中学の「読書家の時間」も4クラス受け持っています。

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 本校では「作家の時間」は文章のジャンルを指定する形で進めています。1学期は詩と小説、2学期はエッセイと弁論大会の原稿、そして3学期は集大成として「かんくら文学賞」に応募する作品の執筆です。

 「かんくら文学賞」とは、我々が創設した校内の文学コンクールです。出版の機会を作り出し、生徒たちが書き手として(読み手として)他者とつながることを目的として設けました。この文学賞には「詩歌」「小説」「エッセイ」の3部門があり、生徒はどの部門の作品を書くかを選ぶことができます。多くの生徒が意欲的に取り組んでいますが、「短くて楽そうだから」という理由で詩歌部門に流れてしまう生徒が一定数いるのは毎年悩みの種です。3学期をまるまる使って俳句を一つ書いただけで終わってしまう生徒もいます。次年度に向けて、「詩歌の場合は3学期の間に5つ以上書く」というような条件をつけることも検討しています。

 作品に与えられる賞は作家大賞、編集者大賞、先輩大賞、天川賞の4種類です。作家大賞は、同じ作家仲間である中学1・2年生の生徒の投票により選出されます。この賞があることが、互いの作品を共有する役割を果たしています。生徒たちには選んだ作品に対するファンレターを書いてもらい、それらは全て作品と併せて成果冊子に載せます。

編集者大賞は、「作家の時間」を担当する数名の教員が選考会を開いて選出します。中学生からはなかなか票が集まらないけれど大人の目から見て素晴らしい作品を評価するためのものです。教員は選評を書き、それも成果冊子に掲載されます。

先輩大賞は、「作家の時間」を修了した中学3年生の有志が選考会を開いて選出します。本校では中学1~2年生の2年間しか「作家の時間」は行っていません。執筆から遠ざかってしまう3年生に選考に加わってもらうことで、「作家の時間」での学びを継続してもらいたいという狙いがあります。選考会で議論することで、3年生の読む力を向上させたいというのも狙いの一つです。3年生にも選評を書いてもらい、これも成果冊子に掲載します。

「天川賞」はプロの小説家である天川栄人先生が選ぶ賞です。本校で文章教室を開いていただいたときにお願いしたところ、快く引き受けてくださいました。プロの作家さんが選考に加わってくださるということで、生徒たちの意欲も俄然高まります。天川先生はすべてのノミネート作品に対して良いところを見つけてコメントをくださるので、生徒たちの大きな励みになっています。

応募締め切りの後、教員たちは自分の担当クラスから「詩歌」「小説」「エッセイ」部門それぞれのノミネート作品を1作ずつ選び出します。まずは「作家大賞」、「先輩大賞」、「編集者大賞」の順に選考していき、一人でも多くの生徒に受賞の喜びを味わってもらうため、各賞がそれぞれ別の作品に与えられるようにしています。(ただし天川賞だけは別で、他の賞と重なってもいいことにしています。)

受賞作品とノミネート作品を併せて製本します。製本が完成する頃には彼らは次の学年に進んでおり、新たな作家となる新入生が入ってきています。新入生に先輩たちの書いた受賞作品を読んでもらい、ファンレターを書いてもらいます。「先輩大賞」の存在と、新入生からのファンレターによって、この文学賞が縦のつながりを生み出す装置になるように工夫しています。

今年度の実施に向けて今検討しているのは、テーマを設けるか否かです。今は特にテーマを設けずどんな内容を書いてもいいことにしていますが、あまりに自由すぎると書くことを見つけにくい生徒もいるように感じます。「道」「手」「生」といったような、多義的な漢字一字で毎年テーマを決めるのもいいかもしれません。書きたいことがある生徒の邪魔にはならず、書きたいことが見つからない生徒にとっかかりを与えてくれるような、そんなテーマを模索しています。

2025年11月7日金曜日

生徒と成長する教師 ~ 北海道からのライティング・ワークショップ実践紹介

 北海道の私立中学校で国語を教えている江刺家先生が実践紹介を送ってくれました。

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国語の授業を続ける中で、言語活動はどこか「強制」を感じることがありました。生徒にとっても、教師にとっても楽しさを感じにくい場面がありました。自分の授業をもう少し自由に、創造的なものにしたいという思いが次第に強くなっていきました。

 『最高の授業』で紹介されているスパイダー討論や『たった一つを変えるだけ』で紹介されている質問づくりの研究や実践を通して、「学びを自分たちで創り出す」という経験に出会えたことが転機になりました。これを国語でも活かしたいと考え、作家の時間(=ライティング・ワークショップ、以下WWとする)に関心をもつようになりました。WWは、大人が好むいい作品を書かせることではなくて、よりよい書き手/生涯にわたって書き続ける書き手/自立した書き手・考え手・発表者・探究者/読み手を意識した書き手を育てることを大切にした実践です。この考え方は、自分が求めていた国語の方向性と重なっていました。

 従来の国語の授業では、文章の書き方の説明が教師からの一方的な説明であることが多く、文章を創る時間が足りない、生徒が書きたくなるようなテーマではない、強制的に書かせるなどの課題がありました。これらを以下のような形で乗り越えることができます。

WWでは、生徒一人ひとりのアイディアや思考の過程、表現の工夫を尊重することができます。→あらかじめ用意されている問いに答える活動ではないので、生徒自身が自由に発想することができます。登場人物や場所、出来事、テーマ、表現技法なども全て生徒自身が選択します。どこから手をつけるのかも自身で選択することができるのです。

・時間をかけて集中し、自分の言葉で世界を描こうとする姿が見られるようになります。→書くための時間を授業で確保することで、粘り強く考えることができるようになります。実際に出版されている本や先輩方の作品集をじっくりと読み、自分の好きな形で表現しています。

・生徒が自分と向き合い、他者の作品を楽しむ時間が生まれたことも大きな変化でした。→製作途中で仲間とお互いの下書きを交流する場面では、仲間の新たな面を発見したり、自分の作品と対比したりすることで、楽しみながら自分の視野を広げることができました。

 授業では、教師が全体を導くというよりも、生徒がそれぞれのペースで学びを進めていきます。最初の10分ほどは、前回の振り返りとミニレッスンを行います。ミニレッスンでは、構成の工夫や描写の方法など、その日のテーマに沿って短く書き方のヒントを提供します。生徒はそれを自分の課題に重ね合わせながら、「今日はここを直してみよう」「この場面をもう少し膨らませよう」と考えを整理していきます。

 その後、それぞれが自分の好きな場所に移動し、書く時間に入ります。机に向かう生徒、窓際でノートを開く生徒など、姿はさまざまです。

 教師は教壇には立たず、生徒のそばに移動して一人ひとりとカンファランスを行います。今どんなことを考えているのか、どこで悩んでいるのかを問いかけながら、一緒に言葉を探していきます。アドバイスというよりも、対話の中で生徒自身の考えを形にします。そうしたやりとりの積み重ねが、教室全体に落ち着いた集中の空気を生み出しています。生徒が自分のペースで書き、考え、振り返る。その時間そのものが、WWにおける「学びとしての書く時間」になっています。

 実践を重ねる中で、次のような変化が生徒たちに見えてきました。

 書く時間と書くための読む時間を意図的に多く設けたため、参考にするために本を探している中で、お気に入り作家に出会ったり、物語自体の素晴らしさを体験したりして、国語や読書が好きになった生徒が増え、読む冊数も増加しました。

 仲間同士の共有の時間やカンファランスの時間が設定されていることでメモや下書きなどを褒められることにより、自信をもち、書くことへの苦手意識が薄れ、自分の考えを表現しようとする姿が見られるようになりました。中には、放課後も文章を書き続けたり、友人同士で作品を見せ合ったりする生徒もいます。書くことを通して自分を理解し、他者の表現を尊重する学びが生まれています。

  これらを実現するために、教師サイドが努力したことは、以下の4つです。

①まず、毎回のミニレッスンで、書くための具体的なスキルや構成の工夫などを短く示します。生徒が「どう書くか」を自分の課題に照らして考えられるようにするためです。

②そして、十分に時間を確保し、落ち着いて書くことに集中できる環境を整えます。「書くための時間」を保障することを大切にしています。

③書く過程では、考えを可視化することを重視しています。ノートや記録用紙に構想や疑問を書き出し、教師や仲間と共有することで、アイディアが広がります。カンファランスでは、生徒の良さや可能性を引き出す対話になるよう心がけています。作品の表現や意図を一緒に確認しながら、「なぜそう思うのか」「どんなふうに伝えたいのか」を対話の中で整理していきます。相手の良さを認め合い、互いの表現から学び合うことを大切にしています。

④また、活動の終わりには作品集を出版し、互いの作品を読み合う時間を設けています。生徒は他者の表現を通して、自分の文章の新たな可能性を発見します。

 WWに取り組む目的は、「本物の作家になる体験を通して、自立した書き手を育てること」です。生徒が自分の言葉で思考し、表現し、共有することで、文化的な成長や民主的な学びにつながっていくと感じています。その可能性を、日々の教室の中で実感しています。WWを通して、私自身もまた、書くことの意味を問い直しながら授業を続けています。

参考文献: ①『イン・ザ・ミドル』、②『読書家の時間』、③『ライティング・ワークショップ』、④『国語の未来は「本づくり」』