アントン・チェーホフに、私自身それほどこだわりはなかったのですが、なぜかチェーホフを扱った本を先月に続いて読むことになりました。キリン・ナラヤン著(波佐間逸博訳・梅屋潔訳『文章に生きる―チェーホフと、エスノグラフィーを書く―』(新曜社、2025年)で、『理解するってどういうこと?』と同じく新曜社から今年のはじめに出た本です。
「エスノグラフィー」は、一般的に「民族誌」と訳される言葉です。著者のナラヤンはインド出身でアメリカの大学で教えている人類学者。その人の本のタイトルがなぜ『文章に生きる』なのかと思って読み進めると、この翻訳書タイトルの意味がよくわかりました。5章構成でそれぞれ「ストーリーとセオリー」「場所」「人」「声」自分」と見出しが付けられています。冒頭の「本書にようこそ 文章に生きる」には次のように書かれていました。
「書くことを通して、生きるという営みに対する共感が自然に育っていくし、人の認識は正確な言葉の選択によって鍛えられていきます。自分のイメージや洞察を遠くの読者まで届けることができるかもしれません。この本には、ライティング・エクササイズが含まれています。これらは、自己の内面を深く掘り下げていく思考と、自分の考えや感情を他者に伝える技術を同時に鍛えます。」(『文章に生きる』ixページ)
一文目と二文目に、本書が『文章に生きる』と題された理由が書かれています。「生きるという営みに対する共感」という言葉になるほどと思いながら、昔読んだチェーホフの短編「牡蠣」のことを思い出していました。この小説に登場する少年の並外れた想像力にはとても強い印象が残っています(『新訳 チェーホフ短編集』沼野充義訳,、集英社、2010年ほかで読めます)。その根底に私が感じたのも「生きるという営みに対する共感」だったからです(ただ、『文章に生きる』には「牡蠣」のことは出てきません。むしろ村上春樹『1Q84』を連想させる『サハリン島』のことがたくさん出てきます。)。
三文目にある「ライティング・エクササイズ」はむしろ『文章に生きる』の最大な特徴だと言っていいでしょう。最初の三つだけ「エクササイズ」を引用させてください。
「「私がいちばん書きたいのは・・・・・・」につづく文章を五分以上書き続けてください。」
「作品の中で使おうかなと考えている素材を思い浮かべ、その中からぱっと目に浮かぶ二、三のイメージをざっと書き留めてみましょう。少なくとも五分間は書き続けてください。」
「「私が一番読みたいものは・・・・・・」に続く文章を書きましょう(二分以上)。」
(『文章に生きる』9~11ページ)
最低12分間で、自分が書こうとする文章の骨格が見えてきます。エッセイでも小説でも論文でも、書こうとする人の意思が具体的に表現されるところがとても大切に思います。そしてこの「エクササイズ」で書いた文章を、当の書き手が何度も読み直すことができ、それを変換していくことができるというのも重要です。
「自分の声を育てる」という一節も私の印象に残りました。早朝にたった一音を繰り返し練習し「自分の声を見つけるのが何より大切なんだ」と説いたヒンドゥスターニー・クラシックの名歌手シーラ・ダールの言葉を引いた後に、ナラヤンさんは次のように書いています。
「私はこの一節を何度も読み返しながら、完璧な音の線を、開かれたコミュニケーションの流れとして考えてみました。ただひたむきな練習だけが、自己の認識を強化することだけが、線を、「探究すべき領域」にまで拡張することを可能にします。ヒンドゥスターニー・クラシック歌手の孤独な音の探求は、作家たちが個々に実践している、外部の要求から個人の時間を守るためのルーティーンを思い起こさせます。(中略=引用者)私の場合、トレーニングとしてできるだけ毎朝、ノートに手書きで少なくとも一ページの文章を書いています(いつもちゃんとできるわけではないです)。ノートにはどんなことを書いてもかまいません。なにしろ自分自身と向き合うための方法なのです。この孤独で内面的な書き込み練習は思考、イメージ、感情、物語を整理するのに役に立っていると私は感じます。日々めくるめく渦のように変動する内的テーマにしっくりとなじむ言葉を見つけるトレーニングは、よりのびやかで自信に満ちた声を鍛え、他の人に向けて文章を書くための声をもたらしてくれていると実感しています。」(『文章に生きる』161~162ページ)
この引用後半に書かれているナラヤンさんの「ルーティーン」のことを読むと、エリンさんが書いた次の一節のことが思い出されます。
「ガレアーノの文章を読んだその夜に、私はこの短い一節を書きました。その夜私は大きな助成金の申請書を書くはずでした。翌日が申請書の締め切り日で、その準備のために何時間も集中する必要があるとわかっていました。しかし、この本に誘いこまれて読み終えると、私はこの文章を書かないではいられなかったのです。この文章を読んでいるあいだの自分の思考を忘れたくなかったからです。申請書作成の責任感は頭の片隅に押しやって、音楽をかけ、ガレアーノと自分自身の言葉に没頭しました。後悔などしていません。結局、助成金の申請書も書き上げ、自分の思考を書き上げる時間も手に入れましたが、それから6年経ってみると、私の宝物になったのは、後者のほうでした。何年もあとになってネルーダについてこうして書くことなど思ってもいませんでしたが、ガレアーノのエッセイとこのノートを読み返して、この詩人についてより深く理解することができたのです。時間をどう使うか、私たちは毎日判断をしています。そして私は思うのです。何がもっとも長く残るのでしょうか。毎週一人が費やすほんのわずかな貴重な時間に自分が焦点をあてるべき価値のあるものとはいったい何なのでしょうか? 何を「招き入れ」、何が私たちをほんとうに換えてくれ、行動を起こさせ、共感の助けとなるのでしょうか?」(『理解するってどういうこと?』280~281ページ)
ナラヤンさんの言う「声」とは「書かれた言葉の背景に感じられる存在やメッセージ」(『文章に生きる』137ページ)のことです。エリンさんがここに書いていることは、ナラヤンさんの言う「よりのびやかで自信に満ちた声を鍛え」「他の人に向けて文章を書くための声」を見つけるためのエクササイズのことだったのではないでしょうか。それは、ネルーダという詩人や彼について書いた友人ガレアーノの言葉を深く理解するためのエクササイズでした。「自分の声を育てる」ことは、自分と他者と世界を深く理解することに確実につながります。『文章に生きる』は、そのような「理解の種類」を浮かび上がらせてくれる本でした。そして、「生きるという営みに対する共感」で貫かれたチェーホフの作品群がそれを伝える格好のモデルだということも教えてくれます。
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