2024年9月28日土曜日

新ルール「会話文だけはだめ!地の文を」はどうなる? 特別支援学級での作家の時間

(全ての人物の名前は仮名です。障害特性や学習場面等にも、ある程度のフィクションが入っています)

気だるい篤くんとひまわり



 学校の花壇に伸びる背の高いひまわりが、頭を垂れて疲れているように見えます。9月、一向におさまらない暑さの中で、何だか立ち尽くしているようです。クーラーのよく効いた教室から、ガラス窓を隔てて灼熱の外、熱気で蒸し上がる頭を垂れたひまわりを眺めていると、どこか罪悪感すら感じてしまいます。


 作家の時間で夏の詩を作っている6年生の篤くん。普段通り、身体中から一生懸命に「一生懸命ではない様子」を表現しています。私たちのチームもこの様子には慣れたもので、篤くんの背中を突いて、なんとか姿勢を保てるように意識を促しています。

 そんな彼が夏の詩に添える写真を撮影する時、暑くて外に出たくないことから、教室の中から頭を垂れるひまわりの写真を撮影しました。

 こうやって、頭を垂れるひまわりを写真に撮影して眺めてみると、余計につらそうに見えてきます。篤くんに、「このひまわりに合う言葉ある?」と聞いたところ、「目の検査の時に使う欠けた環のことなんていうか知っている? ランドルト環」と話すので、そのまま写真の側のテキストボックスに入力してあげました。最近、雑学本を読んだらしく、いくつか雑学を披露したので、それもそのまま入力してあげました。

「ひまわり、何だか暑そうだなあ。」と話しかけると、篤くんは、「おれも暑い」と答え、それもテキストボックスに添えました。こうして「ひまわり」という篤くんの詩が完成しました。1枚10円以上もかかるカラーレーザープリンターで画用紙に印刷し、廊下にきらびやかに飾りました。


 篤くんは優しい子です。ただ、自己肯定感がとても低く、自分は何をやってもうまくいかないと考えがちです。本当は、四六時中(もちろん授業中も…)本を読んでいるので、とても博学です。でも、「受け身」や「やらされ感」に耐えることや、体を器用に動かすことも苦手なので、話をよく聞いて字を書いたり、タイピングしたりすることは、こちらが思う以上に精神的負荷が高いのかもしれません。


 調べてみると、ひまわりが下を向くのは、雨水で種を腐らせないようにしたり、鳥などから種を守るためにしているそうです。学校や社会から、彼が蓄えた豊富な知識を守っているとするならば、ひまわりは篤くんそのものなのかもしれません。

 わたしたちが篤くんの今とこれからのために、どのように関わっていくべきなのか、みんなで模索しているところです。


篤くんはこちらにも登場しています

特別支援学級の作家の時間で子どもたちのベースキャンプを守る〜弘前大学の先生方の訪問記より〜https://wwletter.blogspot.com/2024/03/blog-post_22.html



新ルール「会話文だけで書かない。地の文を作る」


 夏の詩作りが終わり、特別支援学級の作家の時間は、フィクション作品作りの期間に入っています。10月終わり頃まで行って、いろいろな作品作りを楽しんだ後、自分のお気に入りの作品1つを出版したいと考えています。11月から個人面談も始まるので、そこで保護者の皆さんにファンレターを依頼し、作家たちのモチベーションを高めていこうと思います。

 今回、私にはねらいがありました。会話文と地の文を書き分けられるようになることです。どうしても、アニメや漫画の影響なのか、地の文がまったくなく会話文だけで進んでいってしまう物語を書く子が何人かいました。作家として新しいステージに上って欲しいと思っていた私は、昨年度は半ば諦めましたが、もう一度この部分に言及することにしました。物語を描き始めてしまうと、子どもたちにとっては折角書いたのに…と直すモチベーションが下がります。今年は、ユニット冒頭のミニ・レッスンで、「ルール」として打ち出したのです。


新ルールがうまく重なる子と重ならない子


 この新ルール「会話文だけで書かない。地の文を作る」で、自分のスタイルを修正できる子もいました。この子にとっては、このミニ・レッスンは成果があったように思います。この子の作家としてのステージとミニ・レッスンがうまく重なり合う結果になったわけです。

 けれど、カギカッコが取れただけで、結局文章の内容は会話文という子が、どうしてもいます。「先生、『〇〇は言いました』ばっかりになってしまうからいやだー」という声もありました。どうしてそのような「会話文だけの文章」から抜け出せないのか、私は迷うことになりました。


 一つ目に、絵が好きな子が絵を描くことによって登場人物の行動や表情などを表現してしまうことが挙げられます。「絵を見れば分かるでしょ」というわけです。自分の考えたことを伝えたい欲求も、絵を描くことによって満足してしまうのだと思います。しかし、その絵で伝えたかったことが読者であるクラスメイトに伝わっていないことが多いのです。特別支援学級の児童は、非常に独特で個性的な絵を描くので、その絵を見る人に伝わっていないことがよくあります。しかし、相手に伝わるか伝わらないかよりも、自分自身の表現をしたいという気持ちの方が勝り、相手に伝わっているかどうかにあまり関心がないように見えます。

 二つ目に、子どもたちは作家の椅子で発表することを日常的な共有としています。絵を大型テレビに映して発表するのですが、そこで子どもたちは自由に解説をすることができるのです。それでクラスメイトには雰囲気で伝わってしまうことで、問題意識が芽生えないこともあります。出版したものは、クラスメイト以外にも保護者やお世話になっている先生方も読む機会があるのですが、結局はそのような紙面からしか物語を楽しめない読者のことは、あまり想定に入っていないようです。


地の文を「心の理論」で考える


 そして、一つ目や二つ目とも重複する三つ目の問題ですが、そもそも、自閉傾向のある子どもたちは、目で見たこと、耳で聞いたことの情報処理には問題がない子が多い一方で、目や耳で確認できないこと、たとえば、登場人物の感情や読む人の気持ち、人によって受け取り方が違うことなど、情報として現れていないことを推測するのが苦手なのです。そういった理由からか、自分がイメージした情報を全て登場人物の会話文として目に見えるようにしたり、耳で聞こえるようにすることで、見えにくい情報を可視化して整理しようとしているのかもしれません。

 また、三人称視点の地の文のような俯瞰してものを見る見方は、特性のある子には苦手なのだと思います。これで思い返されるのが、「サリーとアン課題」や「アイスクリーム屋課題」と言われる心の理論課題です。詳しい内容については、私も専門家ではないので検索していただきたいのですが、自閉症などの発達障害をもつ児童は、正解率が一般的な児童よりも低くなる傾向があるそうです。

サイト「脳科学辞典」へのリンク」

https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E5%BF%83%E3%81%AE%E7%90%86%E8%AB%96#%E5%BF%83%E3%81%AE%E7%90%86%E8%AB%96%E3%81%A8%E8%87%AA%E9%96%89%E7%97%87%E5%85%90%E3%83%BB%E8%80%85

自閉傾向のある児童が、他者の意図や心の状態を推測することが苦手であることから、第三者視点の地の文のように、そこに登場していない俯瞰的な語りを描写することは、難しいのではないかと予想しています。



新ルールは「いい塩梅」にしよう


 そのような子達に、「これ地の文ではないよね」と指摘しても良いことがないのは明らかです。結局表現自体を止めてしまうのではないかと私たちは心配しました。私たちが一番大切にしていることは、その子がのびのびと自分を表現できることであり、良い書き手として自分のペースで成長していけることです。決して「良い作品を作らせること」を目標にしていません。

 私たちは、新ルールを作ったのはいいものの、それを「いい塩梅」で曖昧にすることにしました。つまり、子どもたち一人ひとりを、障害特性や現段階での書く力からもういちどアセスメントを行い、その子が「地の文と会話文をかき分ける指導」に相応しい段階にいるかを再考することにしました。そして、今必要なアプローチが、地の文の指導ではなく他の支援になるのであれば、そちらを優先するようにしたのです。


一人称視点の地の文ミニ・レッスン


「ルールをいい塩梅にする」以外にも行ったことがあります。一人称視点の地の文のミニ・レッスンを行い、子どもたちの地の文の幅を広げました。これまで、全てが人物の会話文になってしまい、一人称視点の物語を書く子はあまりいなかったので、主人公の視点で語る地の文はイメージがしやすく、反応が良かったように思います。実際に話した部分だけカギカッコをつけるというルールも明確で、これからの作品作りに応用してくれる子が出てくれるのではないかと期待しています。『桃太郎が語る桃太郎』(文:クゲ ユウジ、絵:岡村 優太 高陵社書店 2017年)などの「1人称童話」シリーズというものもあり、読み聞かせをしようと思っています。


 それでも、新ルールは時折、ミニ・レッスンの中で触れています。意識できた子にとっては、成長のまたとない機会であるので、より強く意識できるようにし、それでもミニ・レッスンだけにしぼり、いたずらに地の文ができていないと指摘はしないようにしています。




それでもアセスメントは尊い


 冒頭に登場した篤くんの場合、言葉を巧みに扱うことはできる一方で、手指の巧緻性は課題で、鉛筆やタイピングなどは精神的負荷が高い作業になっていました。さらに、自己肯定感が低く、修正したり、やり直したりするような、「否定」につながるような活動には取り組めないという性質もあります。そこに、教師や支援員が入って篤くんが生み出した言葉をタブレットにタイピングする支援を継続し、新ルールは曖昧にすることにしました。

 ところが一緒にタイピングをしていると、思った以上に篤くんは理解しルールを受け入れようとしていて、「ここにはカギカッコを入れて!」など、支援者にお願いすることもありました。本当にアセスメントは難しいです。ただ、夏休み前の篤くんは、バトルイラストと作家の椅子での解説ばかりの作家の時間を続けてきていたので、この篤くんの感じは良い傾向の兆しであるように思います。ここは臨機応変に様子を見ながら、地の文の理解が篤くんにどこまで可能か、もう少しよくアセスメントしていこうと思っています。


継続的なアセスメントで指導・支援を調整する


 今回の新ルール「会話文だけで書かない。地の文を作る」を振り返ると、当然のことながら、この段階などとっくに超えている子どもと、ちょうどこの段階にいる子どもと、この段階を迎える前にもっと会話文だけのお話作りに没頭するべき子どもと、さまざまな段階にいる子どもが私たちの教室にはいることが分かりました。この3段階の子どもたちを一直線上に並べてアセスメントをするのは、児童の実態を読み誤る危険もあることは承知の上ですが、会話文主体の物語を味わい尽くした次のステップとして、第三者視点が加わる地の文という段階があり、地の文に引き上げたいからといって、会話文物語を味わおうとしている子どもを無理くりに引き上げることは、最も大切な表現しようとする意欲を削ぐことになるかもしれません。

「表現したい気持ち」「表現しようとする意欲」は、特別支援学級で作家の時間を行う私たちにとって、もっとも大切にしていることです。そして、地の文を書く技能は、今回ばっちりミニ・レッスンが重なり合った子どものように、タイミングがくれば向上させるのは簡単なことですが、篤くんのようなケースでは、意欲や自尊心を向上させる支援は本当に根気のいる難しいものになります。目の前の子どもを性急に伸ばそうとしない私たちは、もしかしたら悠長なのかもしれません。それでも、新ルールを全員に厳格に当てはめることは、やはり断念しました。

 新ルールを設定することによって、子どもたちに刺激を与えたことは事実です。私たちは、チームでアセスメントを行うことによって、新ルールが子どもたちにどのように作用しているかの情報を集め続け、それをカンファランスによって調整することにより、「いい塩梅」に納めることに成功しました。新ルールを設定したこと自体は失敗とは考えていません。ただそれ以上に、アセスメントを続けて、支援を調整することが本当に大切だと再確認する機会になりました。

オオシロカラカサタケかなあ?
ゴルフボールみたいでした。


2024年9月21日土曜日

理解することへの励まし

 『理解するってどういうこと?』の第4章に、スペイン語を母語にしているリタという女の子とキャスィという先生のカンファランスのシーンが出てきます(127ページ以降)。リタが読んでいたのはアレン・セイの『おじいさんの旅』という絵本でした。しかし、英語を読むのになれていないリタには、知らない単語が少なくなかったようです。そこで先生は、「えっとね、リタ、自分の知らない単語に出会ったときにあなたにできるのはどんなこと?」と質問します。するとリタは「声に出すの」と答えます。先生は「他にできることは?」と問いかけます。リタは教室の壁に貼られている「知らない言葉に出会ったとき、私たちができること」というタイトルの模造紙を見上げ、そこに書かれている「知らない言葉に出会ったときに自分が使うことのできるすべての方法」をキャスィに向けて話します。こうして彼女は自分のいま持っている力で『おじいさんの旅』を読むことにチャレンジするのです。

  リタとのカンファランスを聞くことによって、自立心を生み出すということは、子どもたちが読んだり、書いたりしているときに、新しいことに挑戦させること、そしてそのときには、その新しいことが今子どもが理解していることの少し上のレベルにあるということを理解しながら促すことなのだということを私は理解しました。普通の教師なら『おじいさんの旅』はリタにはむずかしすぎると考えるでしょう。しかし、思い出してみると、彼女がはじめから終わりまでこの本を読むのを、確かに私は見たのです。彼女には読む時間と意志がありました。これまでにその本の読み聞かせを4回も聞いていました。単語の認知と理解に必要な方法も身につけていました。私たちの多くは、彼女のような子にはもっと簡単なものを読むように言うことでしょう。でもそれはとんでもない間違いなのです。キャスィは『おじいさんの旅』を読めるというリタの能力を強く信じていました。だからこそ、リタには、自分がこの本が読めると確信させることができたのです。(『理解するってどういうこと?』132133ページ)

  キャスィ先生はリタの「新しい」取り組み(『おじいさんの旅』を読むこと)が、今のリタの「理解していることの少し上のレベル」にあると理解しつつ、それに取り組めるように促しています。それがリタの「自立心」を生み出し、彼女が『おじいさんの旅』を終わりまで読むことを可能にしたとエリンさんは考察しています。

 ロシア文学者の奈倉有里さんの『ことばの白地図を歩く―翻訳と魔法のあいだ―』(創元社、2023年)は奈倉さん自身の翻訳についての体験を10代の読者にもわかるような言葉で書かれた翻訳論でありながら、本を読み、理解することについてのすぐれた道案内でもあります。

  少し大きくなると、学校で母語以外の言語を習うことも多い。たとえば英語だ。いまの日本の小中学校では、算数や理科と並んで「英語」という科目はごく自然に存在している。

 だから私たちは、母語というひとつめのことばに親しみ、小中学校で習う新しい言語にふれるところまでは、とくに自覚がなくてもやっていることが多いわけだけど、そのうちさらに、世界にはまだ自分の知らない言語があることに気づく。町で知らないことばを話している人を見かけたり、現代だったらテレビやインターネットなんかで耳慣れないことばを聞いて、「いまのことばって、なんだろう?」と気がつく。そしてふと、「学校で習わないことばを学んでみたい」と思う、かもしれない。

 少なくとも私は思った――「ロシア語がやりたい」と。

(『ことばの白地図を歩く』1112ページ)

 祖父母の暮らす新潟で奈倉さんがロシア語と出会ったことからこの本は語られはじめ、やがて留学したロシアのゴーリキー文学大学で経験した数多くのエピソードを交えながら、彼女の翻訳理論が、読者を巻き込むように語られていきます。

 ロシアの大学でフランス語のマルガリータ先生の授業で「新しい言語を習うとは新しい子ども時代を知ることだ」という考え方を学んだという一節は印象的です。

 心理学風にいうなら、誰しも自分の内に「5歳の自分」を持っているという、あれだ。この「5歳の自分」はしばしば大人の世界についていけなくて、だだをこねることがある。ところが語学学習のなかに「5歳の自分」を解放できる空間を組み込んでしまえば、5歳の私はすっかり満足して、おとぎ話に聞き入って幸せそうに眠ってくれる。そして夢のなかで、詩人アレクサンドル・プーシキン(17991837)の書いた物語詩『ルスランとリュドミーラ』に出てくる学者猫(歌をうたったり、おとぎ話をきかせてくれたりする猫のことだ)と一緒に、こんなことを感じている――子供は間違えてもいいし、舌足らずでもいいし、まだまだ知らない単語がたくさんあってもいい、そのことばの世界に生まれてきただけで、じゅうぶん偉いのだ、と。(『ことばの白地図を歩く』3536ページ)

  英語の読み書き、聞く話すもままならない私にとっても、この「ことばの子供時代」の考え方は魅力的です。そしてこれは「母語」についても言えることなのではないかと考えました。『ことばの白地図を歩く』は母語や学校で習う言語以外の自分に知らない言語を学ぶことについての本ではありますが、母語の読み書き、聞く話すという行為についてもこのようなまなざしを向けてみると、新しい発見をすることがかなり多くありそうです。

 また、次のような一節にも読者として励まされました。

 人には自分の背負う「文化」を選び、学ぶ権利がある。私にかんしていえば、幼いころに好きになり、その「好き」を追いつづけている「本」や「小説」や「詩」の世界が、自分が最も重要とみなしている「文化」である。だからモスクワの文学大学は自分にとっては「異文化」的な環境ではまったくなかったし、私が本を読む人間だとさえわかってもらえれば、同級生からも異質な存在とはみなされず、すぐに仲間になれた。もちろん言語を学ぶ必要はあったが、学べるものは学べばいいだけだ。(中略-引用者)

心配しなくても大丈夫、思うままに好きな文化を選び、その知識や技術を磨いていけば、誰でも世界じゅうに「共通の文化」を担う人を見つけられるから。(『ことばの白地図を歩く』58ページ)

先程触れたリタという女の子はメキシコから移住してきたばかりで、『おじいさんの旅』についてのキャスィ先生とのカンファレンスのなかで「そうか! このおじいさんは日本も愛していたし、ここ(アメリカ)に住むことも愛していたね。」と言っています。彼女はキャスィ先生と語り合いながら、『おじいさんの旅』の中心人物(作者アレン・セイの、若い頃日本から米国に移住した祖父がモデル)に自分と共通のものを見出したのです。そのことも、リタがこの本を読み通すことを強く後押ししたのだと考えられます。

キャスィ先生がリタの『おじいさんの旅』理解を促したように、『ことばの白地図を歩く』の奈倉さんの語りそのものが、それを読む私に読むことや翻訳することについての新しい理解を促し、励ましてくれました。読んで理解するということは、自己を知る「鏡」にもなり、「共通の文化」を担う人を見つける「窓」にもなりうるのだという思いを強くしました。そして、母語を「知らない言語」として考えてみる視点を持つことのたいせつさも。

2024年9月13日金曜日

グレイヴスが考えるリーディングでの読者(reader's audience)

  リーディングにおける教師の役割は、ライティングにおいてもそうであるように、子どもたちの様々な解釈や、意味をつくりだそうという「下書き」をしている子どもたちの試みに、耳を傾けることだ。

                                              ーードナルド・グレイヴス(197ページ)(★1)

 アメリカでのライティング教育の大御所?の一人、ドナルド・グレイブス氏 (Donald H. Graves) が、40年近く前に、ライティングではなくて、リーディングについて論じた「The Reader's Audience」(★1)を最近、読みました。「なぜ、グレイブス氏がリーディングを論じるのか?」と、最初、意外な気がしました。

 その背景にあるのは、1980年代、アメリカでライティング・ワークショップが実施されていた教室の多くで、リーディングの授業になると、子どもたちが本を選ぶこともできない、教師主導の授業が多かったということがあります。『イン・ザ・ミドル』の著者、アトウェル氏もその一人で、当時、ライティング・ワークショップをスタートしたものの、「リーディングに時間になると、私は教室の前に立って一方的に教えていました」(『イン・ザ・ミドル』38-39ページ)という状態でした。

 この時期、ライティング・ワークショップがうまくいき始めた教室で、教師たちは、その成功の要素から、読みと書きのつながりを考えたり、リーディングに活かせることは何かを模索し始めます。グレイヴス氏も、氏がライティングにおける読者について考えたことを出発点にして、リーディングについて論じています。

 ライティング・ワークショップでは、書き手それぞれの「声(voice)」を引き出し、育てていこうとしているのに対し、多くのリーディングの教室で、読み手一人ひとりの「声(voice)」やそれぞれの解釈の余地が少ないことに警鐘を鳴らし、それぞれの「声(voice)」のある読み手を育てるためにどうすればいいのかを考えています。つまり、グレイヴス氏は、ライティングにおいてのみならず、リーディングにおいても、子どもたちが自分の「下書き」や「テキスト」を創出しているというスタンスで、リーディング教育を考えているという印象を受けました。

 グレイヴス氏は、リーディングにおける「読者 (audience)」(★2)を多面的に考えています。教師やクラスメイトは、読み手の外側にいる読者 (external audience)です。よくある弊害は、教師が自分の外側にいる読者 (external audience) として、最重要になる場合です。そうなると、子どもたちは、一人ひとりが、それぞれに本から得られるものを見つけようと努力するのではなく、教師の解釈に一致しようとしてしまいます(197ページ)。

(→ ライティングにおいても、読者が教師しかいないと、子どもたちは、教師が喜ぶことを、教師から高い評価が得られるように書こうとするのに似ている、と思いました。)

 グレイヴス氏は、1980年代、若き日のアトウェル氏がブースベイ学校で、生徒たちと、読んだものについてノートを使う手紙形式のやりとりを実践したこと(★3)も紹介しています。グレイブス氏が実践の中で注目したのは、アトウェル氏が、読むことに苦労している子どもに対して、アトウェル氏がまだ読んでいない本を読むようにした事例でした。教師の解釈が確立する前に(子どもが教師の解釈を知る前に)、その子どもが、自分の「声(voice)」や解釈を作り出すことができる、としています(197-198ページ)。

→ 読むことに苦労している子どもに対しては、私は「読みやすく」なるように事前のサポートが肝心!と思ってしまいます。ただ、そのサポートが、子ども自身が、そこから意味をつくり出そうとする部分を損なうほど「手厚く」なっていないか、このことは注意していく必要があるように思いました。

 自分の外側にいる読者 (external audience) として、クラスメイトはどうでしょうか。

 2024年8月17日の投稿「沈黙と対話」の中でに登場する事例で、クララ先生は、ジャスミンの質問に対する答えをすぐには発言させずに、意図的に生徒たちに「沈黙」の時間を与え、「ときには、質問にすぐに答えようとしない方がいい。その代わり、しばらくのあいだ頭のなかに漂わせておく」(★4)と黒板に書いたことが紹介されています。この時の投稿によると、この日の授業は「ジャスミンという生徒の質問によってとても大切な局面を迎え」という、とてもクリティカルな質問だったようです。「クララ先生はジャスミンの素晴らしい質問が出された後、意図的に生徒たちに「沈黙」の時間を与え、考えさせながら『ルビー・ブリッジス物語』を「ひたすら読む時間」へといざなっていきました」という対応が紹介されています。

 → このような沈黙があることで、テキストから何が得られるのかを、それぞれの子どもがそれぞれに見つける助けになると思います。

 → 逆に、教師がこの質問について生徒の前でたくさん話して、すぐに答えさせてしまうと、深く考えずに同調したり、流される子どもも出てくるかもしれません。

 グレイヴス氏は、教師が、子どもたちそれぞれに、読んだものや書いたものを共有できるようにすると、読みにおいても解釈の共同体(interpretive communities)が生まれる、としています。解釈の共同体の中で、子どもたちは自分の「声」に耳を傾けるより、むしろ、他の読み手の声に耳を傾けすぎる傾向があり、ある種の「集団思考」が生まれることもある。そのような中での、教師の役割は「本の選択、読書の過程、テキストの解釈において、それぞれの個性を強調すること」としています(198ページ)。クララ先生は「沈黙」を使うことで、それぞれの子どものテキスト解釈の余地を作り出していることを感じます。

 解釈の共同体として、クラス全体や教師が決めた小グループ以外に、子ども自身が自分が読んだものを「誰に」シェアするのかを、子ども自身が選ぶ場合もあります。グレイヴス氏は、この「子どもが、シェアする人を選ぶ」ことに大きな可能性を見出しているようです(198ー199ページ)。 

 教師やクラスメイトは、外側の読者(external audience) ですが、読者の中には、内側の読者(internal audience) つまり読み手自身 (other self) もいます。書き手も自分とたくさん対話するように、読み手にとっても、自分(other self) との対話は大切です。そして、自分(other self)という読者(audience) も多面的です。これまでの読み手としての歴史も関わるでしょうし、著者を自分の中にイメージして、その著者と対話することもあります(196-197ページ)。

 読み手としての成長には、自分という多面性のある読者との対話の余地も必要ですし、外側の読者との関わりも必要です。その第一歩は、教師だけというような「限られた読者」から、読み手自身も含めて、多面的な読者の役割に目を向けることなのかもしれません。

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 グレイヴス氏の「The Reader's Audience」が掲載されているのは、Breaking Ground: Teachers Relate Reading and Writing in the Elementary Schoolという本で、22名の教育者が寄稿しています。その中には、ドナルド・グレイヴス氏 (Donald H. Graves) とともにライティング教育を牽引したドナルド・マレー氏 (Donald M. Murray)、『イン・ザ・ミドル』の著者のナンシー・アトウェル氏( Nancie Atwell)、アトウェル氏をライティング・ワークショップに導くきっかけとなったスーザン・ソウア氏  (Susan Sowers) なども含まれています。

 1980年代について、アトウェル氏は、「多くの国語教師にとって高揚感に満ちた時期」で「ドナルド・グレイヴスやドナルド・マレーのおかげで、多くの教師が、こう教えるべきだと言われていたそれまでのやり方を捨てて、生徒自身が自分の伝えたいことを表現できる道を拓いていた」(『イン・ザ・ミドル』 22ページ)と述べています。この本からも、教師たちが考え続けることで、教師が前に立って一斉に教えるだけのリーディング授業から、新しい地平を切り開かれつつある、というエネルギーを感じます。

 なお、この本のタイトルですが、当初、「ライティングとリーディングを理解する」「読み書きのつながり」「読み書きのスパイラル」など、ドナルド・マレーであれば「タイトルではなくて、ただのラベルだね」と却下するようなものしか候補になかったようです。編者たちが話しているときに、その一人が「この本に登場する教師たちはまさに新しい地平を開拓してきているね(breadking new ground)と言ったことで、タイトルが決まったそうです(ixページ)。

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★1 

Breaking Ground: Teachers Relate Reading and Writing in the Elementary School. Heinemann より1985年に出版。

★2

「The Reader's Audience」という題名で、ライティングで、audienceを(書き手に対する)「読者」と書いてもあまり違和感を感じないのですが、リーディングで(読み手に対する)「読者」と訳すとわかりにくい印象も受けますが、名案がありません(💦)。「他者」とするとニュアンスがズレる印象もあります。何かご助言があればぜひ! グレイブス氏はリーディングにおける audienceには、自分の内側にある多面的な other self と、外部のaudience として、教師と、クラスメイトと、読み手が自ら選んだ audience があるというような説明をしています(196ページ)。

★3

これについてアトウェル氏は『イン・ザ・ミドル』(290-291ページ)の中で、当時、「書くことで本についての対話をすれば、生徒が読み手としても批評家としても成長できるのではないか」と考えて実践したこと、ただ、「全員の生徒と毎週やりとりをしようとすると、その用紙が山のようになり、疲れ切ってしまいます」と、その負担にも言及しています。この時の実践を発展させていったのがレター・エッセイです。

★4

2024年8月17日の投稿「沈黙と対話」をご参照ください。板書については『理解するってどういうこと?』323ページが参照ページとして記されています。


2024年9月6日金曜日

ライティング・ワークショップの教え方は今、なぜ重要なのか?

 ライティング・ワークショップは、すべての生徒があなたの授業に安全で歓迎されていると感じる機会を提供し、生徒たちが学びに全力で取り組むことができるようにエンパワーします。そして、生徒たちが自分は大切にされていると感じ、自分の「声」が教室で尊重されていると知ると、1年間すべてがより良い方向に向かう可能性があります(そして、それが他教科にも及ぼす影響も考えられます)。

 ライティング・ワークショップは、単なる授業時間以上のものです。それは、生徒が全力で学び、選択と自己決定、関係性、自分にとっての意味を見出すことで学ぶという信念をベースにしています。ここでは、生徒たちは私たち教育者だけでなく、お互いの仲間によっても見られ、聞かれる関係になっています。ライティング・ワークショップは教室だけでなく、学校全体の雰囲気を変える力があります。書き方を教えている学校の廊下を歩けば、そこが子どもたちを支援し、彼らの経験や独特な言葉の使い方、率直な自己表現を称賛している教師であり、学校であることが実感できるでしょう。

ライティング・ワークショップは、教室にコミュニティーをつくる

 ライティング・ワークショップに参加する生徒たちは強いコミュニティー意識を得ます。初日から、ライティング・ワークショップは次のことを実現します。

  • リスクを取る意欲のある書き手のコミュニティーをつくる
  • 書き手に自分自身に忠実でいるよう促す
  • 生徒が自分のアイデンティティーを共有できるようにする
  • 書くことを鏡や窓★をつくる手段として活用する
  • パートナーシップや作家クラブ★★を通じて協力を促進する
  • 多様な教え方★★★ですべての学習者を引き込む

 このコミュニティーの基盤が、ワークショップ・モデルの本質です。生徒と教師は共に試行錯誤し、発明し、振り返り、修正し、成長します。クラス全体の授業、小グループでの活動、11のカンファレンス、仲間のサポートなど、多様なアプローチ★★★により、すべての生徒が適切に支援され、適度に刺激されるのです。

ライティング・ワークショップがエイジェンシー(主体性)を育む

 ワークショップ・モデルはまた、生徒のエイジェンシーを育む役割も果たします。生徒はライティングが一律のアプローチではないことを学びます。各単元を通じて、作家たちはアイディアの生成(題材集め)、計画、下書き、修正、校正、出版のための様々な戦略を習得します(この作家のサイクルについては、https://wwletter.blogspot.com/2012/01/blog-post_28.htmlを参照)。毎日、自分の個人的な目標と、それを達成するために必要な作業について考えます。計画を慎重に練った後、作家たちはライティングの冒険に出かけ、自分の言葉を作家ノートに思うままに表現します。生徒は自分自身を作家として育て、作家のサイクルを回し続ける方法を身につけます。

練習と修正の大切さ

 ライティングはスキルであり、生徒がよりよい書き手になるためには、実際に書く練習をすることが必要です。生徒には頻繁にたくさん書く時間を提供しています。ライティング・ワークショップ(=作家の時間)では、授業の少なくとも半分(つまり、20~30分)は、生徒たちがひたすら書く時間に当てられています。ライティングの量に対する期待が重要だからです。頻繁に書く生徒は、流暢に言葉をページに乗せ、口頭言語の抑揚が表れた文章を作ります。一方で、ライティングをほとんど練習しない生徒にとって、書くことは労力を要し、まるで各単語を大理石に彫刻しているかのように感じられることがあります。

修正★★★★に関しては、生徒が書く前に自分が書こうとしていることを声に出して言うことが役立ちます。それを、下書きを書く前に何度も繰り返すとよいでしょう。例えば、生徒はまず、自分が以前にしたことのある話を、出来事の順序を声に出して思い出します。そして、「最初にどれだけ興奮していたか、後でどれだけ悲しかったかを伝えたい」と言い、同じ話を再度語り、その感情の変化を表現します。その後、「もっと詳細に伝えたいので、読者が本当にイメージできるようにする」と宣言し、再び話をすることによってより多くの詳細が加えられます。下書きを実際に書く段階では、物語はすでに初めの語りよりも改善されています。


★書かれた内容が読者に対して自分自身を映し出す「鏡」になると同時に、他者の視点や経験を覗き見する「窓」となることを指します。

★★作家クラブについては、

https://wwletter.blogspot.com/search?q=%E4%BD%9C%E5%AE%B6%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96 をご覧ください。また、ライティング・ワークショップでは、生徒たちに生徒としてではなく、作家ないし書き手(英語では、両方ともwriter)として接するのが大きな特徴です。同じことは、読む領域はもちろん、他の教科でも言えます。数学者、科学者、市民や歴史家として接するのか、それとも単に知識をドバドバ飲み込む生徒として接するのかでは、自ずと関係も、主体性も、学びの質や量も違うことになります。『読書家の時間』『言葉を選ぶ、授業が変わる!』『国語の未来は「本づくり」』『教科書では学べない数学的思考』『だれもが科学者になれる!』『社会科ワークショップ』『歴史をする』を参照してください。

★★★https://wwletter.blogspot.com/2019/05/blog-post_31.html の2番目の図をご覧ください。ここで紹介されているのは読む際の教え方ですが、書く時の教え方も、これに似た方法を使います。

★★★★これについては、https://wwletter.blogspot.com/2011/07/blog-post_22.htmlを参照ください。

出典:https://blog.heinemann.com/why-the-writing-workshop-is-more-important-now-than-ever