2024年8月24日土曜日

今、ミヒャエル・エンデの『モモ』が指し示すこと

今、ミヒャエル・エンデの『モモ』が指し示すこと


 お盆休みが明けて最初の出勤日に、ミヒャエル・エンデの『モモ』で校内のブッククラブを行いました。参加者のみなさんは休暇で買ったお土産などを持参して参加してくださり、机上はとても華やかになりました。


2024年7月27日の投稿を参照 https://wwletter.blogspot.com/2024/07/blog-post_27.html


 本の読み方、本を読むペース、本との向き合い方は本当に人それぞれで、それぞれの学び方が尊重される学び方が、ブッククラブであるように思います。本を読了せずに参加して良いものか迷われている参加者もいらっしゃいましたが、まったく問題ないです。きっと、ブッククラブの後に本の続きが気になって読みたくなるでしょうし、次のブッククラブこそ最後まで読み終えて参加したいと、本との向き合い方も変わるかもしれません。


 『モモ』でブッククラブを行うのは、3回目くらいかもしれません。子どもたちともやりましたし、大人とも行いました。参加者が変わると自分の読み方が変わるのはもちろんですが、自分自身も歳を重ねるごとに読み方が変わっていきます。仕事を始めたばかりに頃に『モモ』を読んだ印象は、自分自身が「灰色の男たち」のように子どもたちの時間を奪い、豊かな時間の使い方ができていないかを後悔するような、強い衝撃を覚えたのを記憶しています。


 今回は、前回よりも『モモ』という物語から、少し距離を置いて考えることができたように思います。






灰色の男たち側とモモ側の分断


 灰色の男たちは順に番号をとなえました。すると議長はポケットからコインを出して言いました。

「これを投げてきめよう。数字の面がでれば、偶数番号のものがのこる。人の顔がでれば、奇数番号がのこる。」

議長はコインをほうりあげてから、つかまえました。 

「数字だ! 偶数番号がのこる。奇数番号のものは、即刻、消えたまえ!」

(『モモ 岩波少年文庫』P383)


 時間を倹約して時間銀行に貯蓄をした人から奪った他人の時間を、葉巻の煙で体内に取り込まないと生き続けることのできない「灰色の男たち」。お話の後半では、マイスター・ホラの画策で全ての時間を止められてしまった灰色の男たちは、仲間同士、時間の葉巻を奪い合って殺し合いを始めます。本の描写では、葉巻を奪われた灰色の男たちは、煙のように消えていくので、残酷な描き方はされていませんが、限られた時間を奪い合う姿は哀れで、とても同情してしまいます。


 そんなモモの側と灰色の男たちの側のあゆみよりは、あまり表現されていません。価値観の違う2つの世界の住人は、モモの側は正義、他者の時間を奪う灰色の男たちの側は悪として描かれ、勧善懲悪的な結末を迎えます。灰色の男たちは、時間を無駄にせず効率的に使うことを大切にしていますが、一方で、モモの側は時間を豊かにもつことに価値を感じ、灰色の男たちの効率的な時間の使い方に毒された被害者側という立ち位置で描かれます。『モモ』の物語自体が、モモの側から発信されたプロパガンダである可能性もあるかもしれません。


 以前のブッククラブで感じたように、自分は灰色の男のようだなあと反省する一方で、モモの側に肩入れしすぎる読み方もどこか危ういような気がしています。それは、分断を生むからです。私たちの社会には、いろいろな価値観をもつ人がいることは当然のことです。たとえば、学校での子どもの時間に関しても、灰色の男たちのように効率的に時間を活用するべきだという意見もあれば、モモのように自分で決められて余白のある時間を大切にするべきだという意見もあります。個人の中でも、この場合は、この状況ではと、二つの価値観が同時に存在し、イコライザーのように2極の間を行きつ戻りつして調整している場合も多いと思います。そんな中で、相手の考え方を型にはめてしまうことは、分断につながります。価値観の違う相手こそ、自分とはちがう何かをもっていることがあり、お互いによい仕事ができるように相手を尊重していかなければなりません。


 大切なことは、相手の価値観に入って物事を考えてみることです。モモは、序盤にある灰色の男の話を、得意の聞くことで歩み寄ろうとしますが、あまりの価値観の違いに灰色の男を恐れてしまいます。それ以降、モモ側の人物たちが、灰色の男たちの陰謀を食い止めようと立ち上がる展開になります。モモやモモ側の人間、もちろん、灰色の男たちも、もう一歩お互いの考えを交換し、限られた時間をどのようにするか考え合うことはできなかったのでしょうか。


仙丈小屋からの仙丈ヶ岳




持ち主から切り離された時間は生きることができない


 もう1点、改めて『モモ』から考えたことがあります。それは。時間は持ち主から切り離されてはその意味を失って、死んでしまうということです。


「時間の花をおぼえているよね? あのときわたしは言っただろう、人間はひとりひとりがああいう金色の時間の殿堂をもっている、それは人間が心をもっているからだって。ところが人間がそのなかに灰色の男を入りこませてしまうと、やつらはそこから時間の花をどんどんうばうようになるのだ。しかしそうやって人間の心からむしりとられた時間の花は、ほんとうに時間としてすぎさったわけではないから、死ぬことができない。だがほんとうの持ち主からきりはなされてしまったために、生きていることもやはりできない。花はその繊維組織のひとすじひとすじにいたるまで全力をふりしぼって、じぶんの持ち主の人間のところにかえろうとするのだ。」

(『モモ 岩波少年文庫』 P358)


 町中の人たちから時間を切り離して奪っていた灰色の男たち。切り離された時間はその持ち主のもとに帰ろうとするために、地下の貯蔵庫に冷凍保存をして閉じ込められていました。彼らはそれをすこしずつ取り出し葉巻にして時間を吸うことで、生きながらえています。


 時間というものは、その持ち主としっかり結びついてこそ、意味を発揮するものです。その持ち主から切り離されてしまうと、意味をなすことができなくなる。そのことは、示唆に富んでいるように思います。


 作中に、「子どもの家」なる施設が登場します。子どもたちが持つ貴重な時間を役に立たない遊びに浪費させないために、子どもたちを「子どもの家」に収容して、何か役に立つことを覚えさせることに使わせます。子どもたちの時間は、「子どもの家」で自分たちとは切り離されたものになってしまい、灰色の男たちに支配された時間となってしまうのです。


 学校の中に限らず、子どもたちの時間は大人たちの餌食になりやすいものです。塾や習い事、もしくはスマートフォンのアプリやゲームなど、大人たちが作った子どもたちにある身の回りのものは、子どもたちの時間を奪うための道具のように見えてきます。


 時間というものは何かという問いに、読者を直面させる物語が『モモ』なのではないでしょうか? 1分1秒という数字だけが、時間を表すものばかりではありません。その単位はむしろ、本来の持ち主から切り離された時間を数えるために編み出された道具とも言えるかもしれません。本来の豊かな時間というものは、その時間の持ち主としっかりと結びつき、楽しんだり、夢中になったり、夢見たりする行為として出現します。その際には、決して1分1秒という数字によって表されるものではないはずです。


 私たちの学校を振り返ってしまいます。子どもたちの時間は、45分という学習時間の単位だけでは事足りず、時には5分単位で切り分けられて、標準授業時数を満たしているか管理されています。そのようなもとで、子どもたちは、そしてわたしたちは、豊かな時間という価値を子どもたちに伝えることができているのでしょうか。


 それとはまた別の教育業界の潮流もあるでしょう。モモが時間の貯蔵庫を開けて本来の持ち主に時間を解放したのと同じように、本来子どもたちのものであった時間を、子どもたちの元に返そうという動きもあるように思います。子どもたちが学習の方法を選択できるように、また、子どもたちが時間の使い方を選択できるように、「自律」という名の下に子どもたちに選択権を委ねる動きもあるでしょう。子どもたちが自分たちの時間を自分のものとして豊かに過ごせているか、そして、子どもたちのまわりの大人たちが、その豊かな時間の過ごし方をモデルとして示せているかどうか、わたしたちはもう一度振り返る必要があるでしょう。


北岳山荘と間ノ岳




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