2023年8月19日土曜日

自分たちの記憶の世話をする

 

6月に書いた「読むこと・書くこと・感情・記憶」では、エリンさんの次のような言葉を引いて、いしいしんじさんの『書こうとしない「かく」教室』(ミシマ社、2022年)に触れました。

 

「私は知識を得るために読みます。あるいは、さまざまな登場人物を通して、自分の感情を経験するために読みます。いずれの場合であっても、読むことや学ぶことが、ずっと残り続ける何かに導いてくれるということを知っています。それは自分自身について発見することだったり、読んでいなければ消え去ってしまったであろう細部が記憶にとどまる、ということです。感情と記憶は切り離せないのです。」(『理解するってどういうこと?』339ページ)

 

 いしいさんは作家として、エリンさんの言う「ずっと残り続ける何か」について大切なことを教えてくれました。「釣り糸」の比喩は、私のなかにもずっと残り続けています。感情と切り離せない「記憶」のことを言い当てる巧みな比喩です。

 いしいさんの本よりも少し前に刊行された山本貴光さんの『記憶のデザイン』(筑摩書房、2020年)は「膨大な情報を扱えるようになった現在の情報環境と、それを使う人間の、とりわけ記憶とのあいだに、よりよい関係を結ぶような仕組みをつくれないか」「現在の情報環境を前提として、自分の記憶をよりよく世話するためにはなにができるか」という問いに答えるように書かれた本です。

 「膨大な情報を扱えるようになった現在の情報環境」の出発点がインターネットの普及であることを疑う人はおそらくいないでしょう。そして端末の進化や小型化にともなって、そうした情報環境はより身近になりました。

インターネット検索は大変便利なもので、何かを調べようとするときにまずはスマホやパソコンを開いて、検索語を打ち込み、調べることが少なくありません。とくにはじめて訪れた街の宿泊先のホテルがどこにあるかを調べるときなどには重宝します。こういう経験を重ねると、もしかしたら様々な情報を頭のなかに記憶する必要はもうなくなるのではないかと都合のいいことを考えてしまう状況がかたちづくられつつあります。が、ほんとうにそうなのでしょうか。山本さんはそうしたところから問い始め、次のように指摘しています。

 

「人がなにかを検索するとき、それに先だって探したいことが念頭にある。つまり、知りたいことそのものではないが、それに関わる疑問を思い浮かべている。なにもないところから検索ができるわけではない。検索するためには、なんらかの答えを予想した疑問が必要なのだ。」(『記憶のデザイン』52ページ)

 

「検索をかけるには、探し物を思い浮かべ、それに関連する検索後を思いつく必要がある。その出発点となる探し物や検索語は、その人の過去の経験とその記憶に基づいて思い浮かぶものである。」(『記憶のデザイン』55ページ)

 

 山本さんの指摘に従うと、もしも私が「過去の経験とその記憶」をすべて失ってしまったとしたら、私には検索はできないということになります。何かを探そうとする、その何かを支えているのは探そうとする人間の「過去の経験とその記憶」だというのです。山本さんは「検索するためには、なんらかの答えを予想した疑問が必要」だと言っていますが、その「疑問」の源は「過去の経験とその記憶」です。わからないことがあればインターネット検索をしてみればいい、とよく言われますが、そのためには「なんらかの答えを予想した疑問」が不可欠だというのです。これは、理解の仕方を左右する大事な見方です。ケヴィン・ケリーは『〈インターネット〉の次に来るもの』(服部桂訳、NHK出版、2016年)で「いい質問は人間にしかできない」と言っていますが、山本さんの指摘する検索の問題もそこにつながります。インターネット検索のありようは、検索する人の「過去の経験とその記憶」に根ざした「疑問」に左右されるのですから、その人が世界をどのように理解しているのかということが反映されると言っていいかもしれません。

 もう一つ、『記憶のデザイン』のなかで印象に残ったのは、記憶が社会的なものだという指摘です。

 

「会社とは、それらの人のあいだで取り結ばれた契約によって、そのようなものがある、と設定されたなにものかなのだ。法律で認められた、そういってよければ言葉の上で創造された存在である。(中略)私たちはそうした虚構を経験しているということになる。/ここでの私たちの関心に照らして言い換えれば、国家や法律や企業その他、人間がつくる組織は、人びとの頭のなか、記憶の上にのみ存在するものだと言えるだろう。といっても、それは幻想であって、意味のないものだ、ということではない。まったく逆で、むしろモノとしては存在していないのにもかかわらず、人間たちは共同して、そのような各種の組織や仕組みを存在するものとして扱い、運用している。これなども社会的な記憶のあり方としてみることができる。」(『記憶のデザイン』p.103

 

 「人間がつくる組織」はいずれも人間が共同して言葉を使ってこしらえる「社会的な記憶」として存在するという考え方は、人間という動物の特徴を言い当てていると言っても言い過ぎではありません。同じ出来事の記憶が異なっていても、忘却することが少なくないとしても、なお記憶することが人間とその社会にとって重要なのは、そのためです。

山本さんはこの本の最後に次のように述べています。

 

「思うに自分たちの記憶の世話をするということは、自分たちのあり方を世話することでもある。いまさら言うことではないかもしれないけれど、自分たちはどうありたいかによって、記憶の扱い方も変わってゆくだろう。」P.218

 

「自分たちはどうありたいか」ということを絶えず問い続けることが「記憶の扱い方」を左右するというこの指摘は、「記憶」が人間の感情や経験と切り離せないということを含意しています。そして山本さんの言う「自分たちの記憶の世話をする」という営みは、私たちの大切な理解の種類の一つであると思います。

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