『理解するってどういうこと?』の第9章冒頭にはハイチ出身の作家エドウィージ・ダンティカの『息吹、まなざし、記憶』の一節が引用されています。娘のエリザベスさんが大学に進学することになり、その直前にでスペインのバロセロナを訪れた時のエピソードがそれに続くわけですが、娘さんと離れて暮らすことになるその時のエリンさんの思いも綴られています。
私は知識を得るために読みます。あるいは、さまざまな登場人物を通して、自分の感情を経験するために読みます。いずれの場合であっても、読むことや学ぶことが、ずっと残り続ける何かに導いてくれるということを知っています。それは自分自身について発見することだったり、読んでいなければ消え去ってしまったであろう細部が記憶にとどまる、ということです。感情と記憶は切り離せないのです。」(『理解するってどういうこと?』336~339ページ)
これは「わかる」ことと「感情」「記憶」とのつながりを具体的に述べたくだりです。もちろん、ダンティカの『息吹、まなざし、記憶』を読んだ誰もがエリンさんがしたように、この本の登場人物たちの感情と自らの感情を絡み合わせることができるとは限りません。読む人を取り巻く「状況」が異なるでしょうから。しかし、「ずっと残り続ける何か」に導かれることはあり得ます。その「ずっと残り続ける何か」のゆえに、読む人と書く人は絆を結ぶことがあるかもしれません。
いしいしんじさんの『書こうとしない「かく」教室』(ミシマ社、2022年)は、発行元のミシマ社のオンラインイベント等をもとにしてつくられた本です。「「かく」教室」という言葉がタイトルに付いていると、書き方のノウハウがわかりやすく説かれているのではないかと考えてしまうのですが(実際、わたくしもそう思ってこの本を手に取りました)、そういうつくりにはなっていません。むしろ、いしいさんのライフヒストリーを基盤にしながら、「かく」ことで大切なことを読み手の心に届く言葉で伝えてくれます。わたくしはいしいさんの作品のいい読者ではないのですが、彼の個体史に引き込まれるようにこの本を読み進めていきました。そこにはたとえば読み書きについての次のような考察があります。
「ことばというのは、紙の上に、こうやって書き留めていくから、ある形のままに止まっていると思っているけれど、読むことで、書くことで、動いていく、流れていくことができる。それがおもしろさの一つじゃないかと思うんですよ。」(『書こうとしない「かく」教室』200ページ)
この本の終わり近くの「ことばの釣り針」という節でいしいさんは次のように語ります。
こういうものは、ふだん目に見えます。そしてすぐにその名前をいうことができます。お茶だな、とか、本だな、とか、赤いペンだな、とか。名前が付いていて、目に見えるからです。学校の作文とか、ぼくたち大人がふだん書く文章は、こういう目に見えることばで書くことが多いようです。
でも、それだけじゃなくって、ぼくたちは生まれてからずっといろんなものを見てきています。聞いてきています。いろんな記憶がたまっています。それらは記憶の奥底に沈んでいる。名もなく、目にも見えないから、ふだんのことばではつかめないわけです。奥のほうで溶け合わさっているんです。
そこに、釣りみたいにことばを垂らしてあげる。たとえば、「おかあさんの財布」とか、「おとうさんの癖」「昔好きだったひと」「おばあちゃんの手のひら」とか。やっぱり、家族まわりのことばがよく効くようですけど。
すると、不思議なことに、この溶けた記憶、忘れてしまったと思っているものがことばのまわりにくっついてきます。」(『書こうとしない「かく」教室』209ページ)
いしいさんの本は、エリンさんの言う読み手に「ずっと残り続ける何か」がもたらされるゆえんを、書き手の側から伝えてくれています。エリンさんの言う読み手の内部に「ずっと残り続ける何か」は、いしいさんの言う書き手の「記憶の奥底」と響き合っているように思われます。エリンさんもダンティカの「ことば」を「釣り糸」にして「ずっと残り続ける何か」に導かれたのだと思います。
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