道に迷うことの意味
『理解するってどういうこと?』の第9章でエリンさんは「感情と記憶」という理解の種類について次のように書いています。
・感情的な関連づけがおこなわれると、理解は豊かなものとなる。私たちは美しいと感じることを再度体験したくなり、学習に喜びが含まれているとよりよく理解できる。創造的な活動をするなかで、私たちは光り輝くもの、記憶に残るもの、他の人たちに意味のあるものをつくろうとする。最終的に、私たちがしっかり考えて発見したことは強力で、長持ちするものとなる。こうして、記憶に残る。(『理解するってどういうこと?』339ページ)
そして「私たちは、人々が自らの学んだことに感情的な結びつきを作った場合に、学んだことを理解し、記憶し、他の場面で応用できるようになるということを知っています」とも言っています(『理解するってどういうこと?』342ページ)。このような「感情的な関連づけ」「感情的な結びつき」はどのように生じるのでしょうか。それはむしろ、自分にとって既知のことがらのあたらしい意味を発見して心が揺さぶられる経験のことを言っているように思われます。
マイケル・ボンド著(竹内和世訳)『失われゆく我々の内なる地図―空間認知の隠れた役割―』(白揚社、2022年)という本を読んでそのことを思わざるを得ませんでした。この本の原著タイトルはWayfinding。「道を見つける力」という日本語で訳すことができます。「空間アプローチ」と「自己中心アプローチ」という二つの認知的アプローチの話が出てきますが、ここの部分でわたくしはこの著者が「理解」のことを扱っているのだと思いました。
ありがたいことに人間は、どんな人工システムと比べても計り知れないほど複雑で、有能な脳内ナビを備えている。ではどうやって私たちはそれを使うのか?
心理学者によると、不慣れな土地で道を見つけるとき、人は次の二つの戦略のうちどちらかをとるという。すべてのことを空間の中の自分の位置と関連づける「自己中心的」アプローチか、それともランドスケープの特徴に頼り、ランドスケープ同士の関係を見て自分の位置を知るという「空間」アプローチのいずれかだ。自己中心的アプローチは、一連の指示に従うような感じである――いくつ道路を渡れば目的の交差点に出て、その後、左右どちらに曲がるか? 一方、空間アプローチのほうは、鳥の視点をとる必要がある――あの丘から見て、私の家はどこにあるのか? 南に向かうべきか、それとも西に? 自己中心的アプローチはいわば自分の勘に頼り、空間アプローチは全体像から考える。(『失われゆく我々の内なる地図』134-135ページ)
「不慣れな土地」での道を見つけるときにここで言われている二つのアプローチは誰しもがとるものではないでしょうか。そして、「自己中心的アプローチ」が「自分の勘」に頼るもので、「空間アプローチ」が「全体像」から考えるためのものだと考えれば、私たちにとって「空間アプローチ」が非常に重要だということになります。
ひとつの空間スキルに熟達していても、必ずしもほかの技能にもすぐれているとは限らない。イケアの家具を組み立てるのがとても上手でも、方向感覚が劣っていることもありうる。ただそうは言っても、ナビゲーションに熟練している人はどの空間的なタスクも巧みにこなせるという傾向はある。彼らは周囲の環境に注意を払い、適切な時に決定を下す。前に言ったことのある場所を、違った視点からでも認識することができ、しかもおおむね視点取得が得意である。彼らはすぐれた作業記憶を持ち、どのくらい遠くまで来たか、何回曲がったか、さらにランドマークの位置も覚えていられる。詳しい空間情報が処理される脳の領域である海馬も、平均より大きい。彼らは、いわゆる「場独立」のテストで高い成績を収める。このテストは大きくて複雑な形の中に単純な形をどれほど簡単に見つけられるかを測るもので、ランドマークや道などの特徴をメンタルマップの中にまとめあげるのに役立つスキルである。彼らはまた、ナビゲーションをする際に、鳥の目で見る空間アプローチと、ルートに基づく自己中心的アプローチの両方を使うのがうまく、またそのふたつをいつ切り替えるかよく分かっている。(『失われゆく我々の内なる地図』153-154ページ)
「鳥の目で見る空間アプローチ」と「ルートに基づく自己中心的アプローチ」のあれかこれかではなくて、この両者をどのように切り替えるかが大切なことなのです。これは経験的にはよくわかります。そしてなにごとかを理解しようとするときに私たちの頭のなかで起こっていることでもあります。
では道を見つけるときに私たちには何が大切なのでしょうか。「発達性地理的見当識障害(DTD)」についての研究をふまえて、ボンドは次のようにも言っています。
海馬の空間記憶がどれほど正確であっても、前頭前皮質の意思決定がどれほど効率的であっても、もしくは自己中心的な座標系をより広い世界へつなげる脳梁膨大後部皮質の機能がいかにすぐれていても、もしそれらがひとつのネットワークとして機能しなければ、私たちはどこにも行き着くことはできないのだ。(『失われゆく我々の内なる地図』288ページ)
「海馬」「前頭前皮質」「脳梁膨大後部皮質」…私たちの脳の部位をあらわす言葉ですが、それぞれの働きが関連しなければ、私たちには道がわからないというのです。その「ネットワーク」が欠けているために自分がどこにいるかわからないというのが「DTD」の特徴です。逆に考えれば、その「ネットワーク」が欠けているからこそ、それを探そうとするわけです。だからこそ「道に迷う」わけです。
では「道に迷った」とき私たちはどうするか。本書後半には「認知症患者の空間行動」の研究が取り上げられていますが、「介護施設」での入所者の行動分析を行ったいくつかの研究からボンドは次のように言っています。
ミツバチが蜜を探すように、彼女は手がかりから手がかりへとダンスをする。人々がルートを知らないときに旅をするやりかたと似ていなくもない。分からなくなるたびに、馴染みのあるものを探して進むのだ。(『失われゆく我々の内なる地図』297ページ)
自分が完全に世界を理解していないとき、そこを探求するのは――そう、自分がまだ見つけていないものを探すのは――理にかなっている。トールキンが『指輪物語』で私たちに思い出させてくれたように、「さまよう人のすべてが迷っているわけではない」。(『失われゆく我々の内なる地図』298ページ)
「道に迷う」ことは実のところ「自分がまだ見つけていないものを探す」営みであって、そのこと自体が生きている証なのかもしれません。逆に、GPSなどの道に迷うことのないようにするテクノロジーは私たちに何をもたらすのか。本書の終わり近くでボンドは次のように述べます。
GPSによって、いっさい道に迷わないということもあり得るようになった。人によっては魅力的に聞こえるだろう。だが必ずしもそれは、想像するほど魅力的なものではないかもしれない。常に地理的に間違うことのない世界に生きるとき、私たちは自分というもののいくらかを、成長の可能性のいくらかを失う。レベッカ・ソルニットは著書『迷うことについて』で、確実性と知らないということについて熟考し、こう言っている。「決して迷わないというのは生きていることにはならない。どうやって迷うかを知らなければ、破滅が待っている。発見に満ちた人生は、未知の土地のどこか、その中間に横たわっている」。続けて彼女はヘンリー・デイビッド・ソローの文章を引用する。ウォールデンの池のほとりに彼が建てた小屋での二年間は、「思慮深く」生き、「人生のすべての真髄をすすりとろう」とする試みだった。「道に迷って初めて」と彼は言った――「つまり世界を失って初めて私たちは自分を発見し始め、自分がどこにいるのか、そして私たちと世界とのかかわりの持つ無限の広がりを認識できる」。(『失われゆく我々の内なる地図』304ページ)
ここではレベッカ・ソルニットと彼女が引用するヘンリー・ソローの言葉が引かれています。引用に次ぐ引用となりますが、それだけに「道に迷うこと」が人間にもたらす可能性についての思考の系譜を見る思いがします。それは、迷いながら「自分がまだ見つけていないものを探す」ということが、理解の種類の一つであることを物語ってもいるのです。道に迷いながら「自分がまだ見つけていないものを探す」過程で、既知のことがらのあたらしい意味を発見することになるからです。そのとき、理解しようとする人の頭のなかに「鳥の目で見る空間アプローチ」と「ルートに基づく自己中心的アプローチ」とのネットワークが築かれ、自分が「いま・ここ」にいるという認識がうまれ、強い「感情的な関連づけ」がひき起こされるのだと思われます。
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