2022年2月25日金曜日

『国語の未来は「本づくり」』のブッククラブへのお誘い

 

皆様

 

クリスチャンソンと申します。Markと呼んでください。

慶應義塾横浜初等部という小学校でEnglish for Global Communicationというオリジナル・カリキュラムの担当をして10年目になります。

その前はICUで大学生に英語論文の指導をしていましたが、その時に『国語の未来は「本づくり」』の共訳者の吉田さんに会ってリーディングとライティング・ワークショップ(RW/WW)のことを初めて知り、大学でワークショップ形式の英語のライティング科目を開講しました。

いまの学校では限られたRW的なことはやっていたのですが、今学期から初めてWW的に6年生に自由に英語で「本づくり」をしていいよ、というプロジェクトを立ち上げ、今6週目です。

子どもたちが好きなテーマで作家活動に取り組む時のエネルギーに驚かされています。

 

さて、昨年11月にアメリカの小学校低学年のWWRWの実践と理論を綴った本Engaging Literate Mindsの翻訳『国語の未来は「本づくり」』を出版しました。

原書の対象は、アメリカの小学校教員です。

日本の教育関係者者の参考になればと思い、翻訳しました。

国語の先生、小学校の先生、英語の先生、子ども主体の授業に興味ある方は、この本で紹介されている実践や理論の中に参考になる点がたくさんあると思います。

https://www.shinhyoron.co.jp/978-4-7948-1196-7.html

 

以下の#ではフルカラーで原書にある子どもたちの作品が一部見られます。5〜8歳の子どもたちが創造する作品、その本づくりのプロセス、そしてその中での社会性、主体性、自己表現の成長が原書Engaging Literate Mindsの大きな魅力です。

#国語の未来は本づくり

 

ここで皆さんにお尋ねしたいのは:

Q1) 読んでくださった方、おりますでしょうか?

もし良かったら感想が聞きたいです。よかったこと、印象に残ったこと、難しいこと、質問などでも大歓迎です。

Q2) この本をまだ読んでいないが、Book Clubの形で何人かで一緒に読み、感想を章ごとに共有することに興味ある方、おりますでしょうか?

まだ開始時期は決まっていませんが、3月下旬、春休みにスタートすることを考えています。

皆さんのほとんどとは面識がないので、このように尋ねるのは少しドキドキなのですが、興味をもってくれる方とつながれたら嬉しいです。(Q1Q2への反応を、コメント欄にお願いします。)

Q1: Any reactions to the book?

Q2: Any interest in reading it together and discussing it?

Thank you for considering. -Mark

 

2022年2月19日土曜日

「理解する」を「メタ認知」する

  理解しようとするときに自分がどのような方法を使うのか、考えてみたことがありますか。おそらくそのようなことを立ち止まって考えることはあまりないのかもしれません。頭のなかで何が起こっているのかを考えることになるのですから、無理もないと思います。しかし、自分や他の人の話や文章が見事なできばえだと思う時に、いったいなぜそうことができるのだろうかとか、頭のなかで何が起こっているのだろうと考えることは、時々あると思います。

 心理学者・三宮真真智子さんの『メタ認知―あなたの頭はもっとよくなる―』(中公新書ラクレ7552022年)の冒頭近くに次のように書いてありました。

 Aさんの話が聞き手を引きつけるのは、たとえ話が適切だからだ」

「レポートの内容が頭の中でうまくまとまらなかったが、いったん書き始めると、スムーズに進むものだ」

「最近、うちの娘は、うまく意見を言えるようになった。論理的な思考ができるようになったのかな」

 このように私たちは、ふだんからある程度、メタ認知を働かせているのです。

「メタ認知とは、一言で言うと、認知についての認知です」

 私は講演の冒頭で、このように話し始めることがあるのですが、そう言われても、初めての人にはピンと来ないでしょう。そもそも認知とは? それは、頭を働かせることです。心理学では、見る、聞く、書く、読む、話す、記憶する、思い出す、理解する、考えるなど、頭を働かせること全般を指して認知(cognition)と呼びます。頭の中で行われる情報処理と言い換えることもできます。(中略―引用者)

 また、「メタ」という語は、ギリシア語に由来する接頭語であり、「~の後の」「高次の」「より上位の」「超」「~についての」などという意味を表します。したがって、メタ認知とは、認知についての認知、認知をより上位の観点からとらえたものと言えます。自分自身や他者の認知について考えたり理解したりすること、認知をもう一段上からとらえることを意味します。自分の頭の中にいて、冷静で客観的な判断をしてくれる「もうひとりの自分」といったイメージを描いてみると、少しわかりやすくなるかなと思います。(『メタ認知』1819ページ)

  三宮さんのとてもわかりやすい説明によれば「認知」とは「頭を働かせること」。その「頭を働かせること」のなかには「見る」「聞く」「書く」「読む」「話す」「理解する」もはいります。その「自分や他者の認知について考えたり理解したりすること」が「メタ認知」ということになります。ということは、理解しようとするときに自分がどのような方法を使うのか、を考えることは「理解する」ことについての「メタ認知」になりますね。

 具体的な先行研究や実例の大切なところに触れながら、三宮さんはどのようにすれば「メタ認知」を使うことができて、頭のなかを活性化させることができるのかということをわかりやすく伝えています。たとえば『メタ認知』第3章の「他者に教えることが確かな理解をもたらす」と言う一節では次のように書かれていました。

  授業の中で生徒同士が互いに教え合う「相互教授」という方法がありますが、この方法は、教え合うことを通して理解を確かなものにすることに役立ちます。実際、テキストを読んで学ぶ際には、理解した内容を他の人に説明する場合の方が、ひとりで学習するだけの場合よりも理解成績がよくなることが、実験によって明らかにされています。この説明の効果を、自己説明効果と呼びます。さらに、相手にビデオを通して説明する場合と、相手の反応を見ながら対面で説明する場合とを比較すると、相手の反応を見ながら説明する場合の方が、説明者自身の理解を促進するという研究報告があります。(『メタ認知』124ページ)

  このことは「理解する」とはどういうことかを「理解する」あるいは「説明する」行為にもあてはまります。そのことをテーマとした『理解するってどういうこと?』第4章「アイディアをじっくり考える」の140ページから141ページには、「理解のための方法と得られる成果」という表があります。これは、エリンさんが担当したある教員研修のなかで、エドワード・ホッパーの絵「ある日曜日の朝」とその絵について書かれたジョン・ストーンの同名の詩を参加者たちに解釈してもらった時につくられたものです。参加者たちが語った「理解のプロセス」には次のようなものがありました。表のなかに書かれていることを列挙してみます。

・自分がもっている知識にもとづいてイメージを描いた。

・詩と絵の両方に共通するもののなかで、最も大切なものは何かを判断した。

・何度も読み返した。

・不信の念を保留した。第一印象は否定的だったが、「この詩にチャンスを与えよう」と決めた。

・その作品について考えるために、会話のなかで何度も長い沈黙をさしはさんだ。

・自分が理解していなかった部分を埋めた(推測したり、作り上げたりした)。

・作品の構造を用いて、飛び飛びのアイディア相互の関係を推測した。

・質問を投げかけて、パートナーと話し合った。

自分の使った「理解のプロセス」をこのようなかたちで言葉して、他の人に説明するだけでも、自分と他者の理解の仕方の共通点や相違点を意識することになるのですが、大切なのは「理解のプロセス」を通して得られた「理解の成果」についても参加者各自が語っているということです。「質問を投げかけて、パートナーと話し合った」という「理解のプロセス」の「成果」は次のようなものです。

 パートナーが自分と同じ疑問を持っていたんだとわかって、そのうちのいくつかを二人でああでもないこうでもないと言いながら話していたら、この詩と絵をもっと知的に話し合えるようになった。(『理解するってどういうこと』141ページ)

 エリンさんがやったのは、「理解のプロセス」とそれによる「理解の成果」を語ってみることを求めただけなのです。込み入ったことではありません。ただ、私たちが日頃あまりやらないというだけのことです。しかし、このようなかたちで、「理解する」ことを「メタ認知」すると、私たちの理解の仕方についてどういういいことが待っているのかがよくわかります。その対象を理解しようとするときに自分がどのような方法を使っているのかを語り合うことで、対象そのものへ理解の仕方だけでなく、対象を理解しようとする自分自身についても知ることになるのです。それが「わかる」ということなのかもしれません。

2022年2月11日金曜日

一斉指導では実現できない世界

東京のある公立小学校の教師が『国語の未来は「本づくり」』の感想と合わせて、試行錯誤している「作家の時間」の要素を組み込んだ授業について書いてくれました。また、研究サークルで共有したスライドも添付してくれました。(Mark)

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『国語の未来は「本づくり」』は、一斉指導から「協働型」「ワークショップ型」「児童・生徒主体型」「対話型」「探究型」「自己調整型」など、様々な「転換すべき」とされる指導へと移りたい人にとって学びとなる本だと思います。

10年以上前に『作家の時間』を読みましたが、その学び直し、アップデートになりました。

作家の時間について、「社会的主体性(Social Agency)」という考えをもとにしながら考えることができるという箇所がありました。それを読んで、目から鱗が落ちた思いです(この点について詳しくは、後述します)。

自分の実践についても書かせてください。

作家の時間では、はじめ「出版」がもたらす子どもたちの変化を体感しました。子どもたちが指導に対して貪欲になり、書くことに意欲的になります。また、子どもたち同士のフィードバックが活発かつ有効に働くようになります。

それまでは、作文に対するフィードバックは「どうして指摘してくれたんだ。気づいてくれなくてもいいのに」といった気持ちをともなったものでした。なぜなら、指摘された後に直すのが面倒だからです。それに、書きたくて書いた物でもないからです。

作家の時間では、「次の出版」があります。そのため、助言する際も、「次に活かすといいですよ」という先を見越した言い方をすることになります。あるいは、時間ごとのシェアや子どもたち同士のカンファレンスの中で指摘されたことは、子どもたちは比較的素直に受け入れる様子が見られました。

現在の公教育の現場で、今あるカリキュラムを考慮せずに、たくさんの時間を年間の国語の時間に割く「作家の時間」の授業をおこなっていくことは、簡単ではありません。より多くの理解を得ていく道を探る必要があり、カリキュラムの中に無理なく位置付けることができれば、「作家の時間」という実践が、国語教育の進化や発展につながるものになります。実は、「作家の時間」に含まれる要素を抽出してみると、それは驚くほど簡単に取り入れることができました。そして、それはICTがより可能にしてくれました。

 最近の教科書は、光村図書の国語ならばほとんどの単元が、「読む」「読んだことを生かして書く(表現する)」というサイクルで提示されています。このサイクルで積み上がっていきます。サイクルとなれば、「次回」があるということです。表現は出版に置き換えられます。つまり、単元ごとに作品を出版し、単元が変われば「次回」があるということです。残念ながら生徒が題材を完全に自分で決めることができませんが、裁量は多少委ねることができます。

作家の時間と同じような考え方で国語の授業を行うと、単元のまとめは「作家の時間」になります。先生が一に授業を1コマずつ行うスタイルをやめ、中盤以降はミニレッスン形式に切り替え、活動時間としてまとめやピア・カンファレンスのような時間に使います。

このスタイルにしてしばらくは、手書きの作品を印刷して冊子にしていました。児童裏表製販や綴じるための機械を使いましたが、それなりに時間は費やします。

しかし、一人一台のPCがやってきました。ロイロノートというアプリを使うことで、途中の作品なども簡単にシェアできるようになりました。出版(表現)はアプリに投稿して終わりです。紙にする良さはもちろんありますが、それなりに横並びの公教育の中で、この手軽さは他の教師にも歓迎されました。4学級ある今の学年は、皆このスタイルでおこなっています。

 作家の時間を知らない教員にとっても、デジタルツールがあり、教科書にそれなりに沿ったプログラムにすることで、とても受け入れやすいものになります。そして、子どもも意欲を持って取り組みます。

また、従来の授業よりも自由で、友達との交流が頻繁に行えるため、能力差があっても教室は平和的に学び合う場所になっています。ヒエラルキーを感じる場所ではないのです。

この本(『国語の未来は「本づくり」』)の中で「すぐに主導権を与える」ことについて書かれている箇所があります。この箇所はなかなか理解されにくいところかもしれません。

多くの人は、教師の役割に対する固定概念があります。以下のスライドの中でも紹介していますが、こうしたことは社会的な視点から説得を試みるようにしています。日本の子どもの社会参加や自己効力感の低さについて問題だと感じていましたが、Social Agencyの記述はそうした問題意識の中でピタリと合う内容でした。教室の中での影響力への価値づけ。自分の与える影響への想像や手応えを、これからも子どもたちに意識させていきたいと思いました。

 自分が現在の授業スタイルにすんなりと転換できているのは、作家の時間をかつて体感していたからです。それに『国語の未来は「本づくり」』を通して気づきました。今やっている上で紹介した実践も、作家の時間を大きく意識していたわけではありません。しかし、この本を読んで、作家の時間が自分の中で意外と大きい土台になっているのだと思った次第です。

『国語の未来は「本づくり」』は教師の問いかけ、声かけ、距離の置き方などが詳しく書いてあり、真面目に読むと、さらり読み流していけないような濃密な記述が多いです。

アメリカの教師たちの実践からとても学びが多く得られる本で、仲間の教師に紹介しています。









2022年2月5日土曜日

Invitational education/ Invitational learning

 生徒たちに強制する学びではなくて、生徒たちを招待する/招き入れる学びのことです。

「招待教育」というのも変なので、カタカナのままにしました。

読み・書き(国語)を含めて、ほとんどの教科というか、学校での学びは「苦役」として捉えられることが少なくありません。楽しいものと捉えているのは小学校段階(低学年?)くらいまででしょうか? 「強制する学び」と「学校で教えること・学ぶこと」はほぼイコールと捉えられがちです。

それは、洋の東西を問わないようで、そうした背景から、この「インヴィテーション教育ないしインヴィテーション・ラーニング」が誕生しています。ある意味では、原点回帰の試みと言えます。学校に通い始める前の子どもたちにとって、学ぶことは生きることそのものであり、楽しいものですから。(ウェンディ・オストロフ著の『「おさるのジョージ」を教室で実現』は、そんな一冊なのでおすすめです。原書タイトルは、Cultivating curiosity in K-12 classrooms : how to promote and sustain deep learning。)

 ライティングとリーディング・ワークショップを実践している人の中には、自分を「インヴィテーション教育ないしインヴィテーション・ラーニング」の実践者とは位置づけなくても、実はそれを見事なぐらいにやっている人が少なくありません。

 そういう一人が、小学校のあらゆる学年を教えた経験があり、現在は全米英語教師協議会の会長を務めているフランキー・スィバソン(Franki Sibberson)です。その仕事で忙しくなる前は、A Year of Reading (readingyear.blogspot.com)というブログも書いていました。

 そんな彼女、「何よりも、自分の読書人生は招待で満ちている」と言います。「友人が読むべき本を薦めてくれるし、ブッククラブに招待してくれるし、SNSを通じて多様な本の紹介が流れてきます。これらはすべて、一切義務ではありません。選択は私にあります。私がその時点で読むか否か選ぶ裁量をもっています。」

 「私は、教室も同じような環境であってほしいと思っています。なので、教師としての私の大きな役割は、若い読み手たちが読むことに関してどんな可能性があるか招待することです。その際使う方法として、ブックトーク、テーマに沿って収集した本のかご、子どもたちに読み方/考え方を示した掲示物などです。」

 「しかし、テストが大きな位置を占める教育の中で、教師はテストのために(日本でいえば、そのテストのために「教科書をつつがなくこなす」?)授業をすることを強いられ、子どもたちを招待しにくい雰囲気になっていますし、招待する時間をどんどん削られています。そんな中では、招待も強制に変化してしまいがちです。でも、リーディング・ワークショップ(あるいは、読み書きを統合したリテラシー・ワークショップ)を実践するとは、本当の意味での招待を提供し続けることを意味します。」

 「“本当の意味での招待”とは、それが実際子どもたちによって行われなくても気にしないことが何よりも大切です。あくまでも誘いであって、指示や強制ではありませんから。この事実を、繰り返し自分の言い聞かせることも大事です。」

 具体的な例も挙げてくれています。教室のみんなが好きな作家による新しい本が出版されました。その本を読み聞かせした後、その作家の他の本も一緒にして、子どもたちに「もしよかったら、他の本も読み直して、感想を聞かせてくれない/紹介文を書いてくれない」と投げかけました。しかし、その時は一人だけがそれらの本に触れただけで、その後10日間、誰も興味を示しませんでした。新しい本はもちろん、彼女の他の2冊もいい内容の本なので、再度子どもたちを招待する声をかけることはできました。しかし、子どもたちにオウナーシップと選択権を与えたかったので、自分で選んですること待つことにしました。もし、私が再度声かけをしてすすめたら、子どもたちは教師が自分たちに望んでいることをしなければいけないと思いはじめ(そして、実際そうし始め)ることでしょう。

 スィバソンは言います。「もし、私たちの目標が生涯にわたって読み続ける人を育てたいなら、何は強制し、何は招待するのかを考え直す必要があります。子どもたちは、何に対して責任を負うべきなのでしょうか? 私は自分自身に対して次のように問うことを学びました。『自分がしようと思ったことは、子ども全員がしなければならないことなのか? それとも、いまのある子にとってのみ適切なことなのか?』と。ほとんどの場合の答えは、後者になります。

 もちろん、招き入れる役割を担う中心は教師ですが、教室の中にいる他のクラスメイトや、本の形で存在する有名な(あるいは、まだそれほど有名ではない)作家たちも、生徒たちを学びに招待することはできます。そのプロセスややり方が見事な形で紹介されている本が、ピーター・ジョンストン他著の『国語の未来は「本づくり」』ですので、ぜひご一読を!(それの中高用は、ナンシー・アトウェル著の『イン・ザ・ミドル』です。)

参考:https://choiceliteracy.com/article/invitations-vs-accountability/