エリンさんは『理解するってどういうこと?』の第7章には「ノンフィクション」を読む困難さとそれを克服する方法について書かれています。
「子どもたちにフィクションを読むときとは違った方法でノンフィクションを読むように教えたときは長持ちします。それは、子どもたちが教室を巣立ってから後にも長く使うことのできるツールですし、私たちが想像もできないような難しいノンフィクションを読み、情報を理解するときに活用できる方法です。ノンフィクションの構造と障害について学ぶことは、多様な種類の理解に役立ちます。ノンフィクションを読みこなすツールは、理解のための7つの方法と同じく、新しい情報を自分のものにする際に使いこなしてほしい方法です。」(『理解するってどういうこと?』277ページ)
実際、私たちが日常生活で読む文章はおそらく圧倒的に「ノンフィクション」がかなり多いはずです。私自身は「フィクション」を好んでよく読みますが、それはちょっと変わった読む生活ではないかと思います。ましてや、書く文章が「フィクション」ばかりという人もっと少ないはずです。私たちは多くの場合、「ノンフィクション」の読み・書きをしながら人生を送っていますが、「ノンフィクションを読みこなすツール」をどれほど手に入れているでしょうか。
エリンさんは「理解の種類とその成果モデルを用いながら、もっとも熱中度の高い学習に結びついている多くの性質をつきとめ、それらを子どもたちに日常の読み・書きの体験で使うよう求めることを、私は提案しようと思います」とも言っています。「ノンフィクション」の「もっとも熱中度の高い学習」はどのようにすればいいのか。これは難問です。
読むことばかりでなく、書く方向からこの「ノンフィクション」問題に迫ることはできないものか。たまたま、「創作」の仕方について考えようと思って手に入れた ロイ・ピーター・クラークの『名著から学ぶ創作入門』(越前敏弥・国広喜代美訳、フィルムアート社、2020年)を読んでいると、ルイーズ・ローゼンブラットについて書いてある一節が目に飛び込んできました。「読者反応理論」のもとをつくった人物ですが、クラークは書き手が読者の反応を予測するための重要なヒントをこの理論家から学んでいます。
「ローゼンブラットはそれまでの研究と教職の経験から、異なる目的で書かれたふたつの文章によって、それぞれに特徴的なふたつの読書体験が生まれると考えた。その区別はどちから一方だけという性質のものではなく、同じ領域に存在するものだ。ローゼンブラットは一方のタイプの読み方を『導出的』、もう一方を『審美的』と呼んでいる。」(『名著から学ぶ創作入門』218ページ)
ちなみに『理解するってどういうこと?』の「理解の種類とその成果」モデルのなかにもこのふたつの読書体験のことは登場します(ここで「導出的」と訳されているefferentを「情報を取り出す」と、「審美的」と訳されているaestheticを「喜びを味わう」と、それぞれ訳してあります。それぞれ、理解の「成果」をあらわす概念として使われています)。ちょっとむずかしいローゼンブラットのこの概念を、クラークは次のように端的に書きます。
「導出的な文章は、一度読めばじゅうぶんだ。審美的な文章は、読者が何度も繰り返して読みたくなったとき、そのたびに新たな知恵や喜びをもたらすことで、そのすばらしさが証明される。」(『名著から学ぶ創作入門』220ページ)
クラークの解説がすばらしいのはこのあとです。ローゼンブラットの用語は一般向けには「難解すぎる」かもしれないと言って、「作家の道具箱」にある言葉をそのまま使って表現しています。すなわち「レポート」と「ストーリー」(物語)です。
「たとえば、『ニューヨーク・タイムズ』紙や『タンパベイ・タイムズ』紙に見られる文章のほとんどはレポートであり、『だれが』『何を』『どこで』『いつ』『なぜ』『どうやって』といった疑問に対する答えをもとに組み立てられている。その評議会でだれが発言したのか。地面にあいた穴を修復する計画はどうなったのか。新しい美術館はいつオープンするのか。(中略)レポートの書き手には、正確に、明瞭に、できるかぎり偏見のないように仕上げる大きな責任がある。/ストーリーはちがう。ストーリーの目的は情報を伝達することではなく、身代わりの体験を提供することだ。八月の暑いさなかのフロリダ州の教室で、エアコンの恩恵にあずかれない生徒たちがどんな体験をしているかを伝えるには、ストーリーの特別な力が必要で、それには目撃者の立場で語る手法を用いるしかない。」(『名著から学ぶ創作入門』221-222ページ)
どうでしょうか。さらにクラークは前者が「ある場所を指し示す文章」だと言い、後者は「そこへいざなう文章」だと言っています。この両者の「書き方」の違いを知ることで、それぞれの文章に対する「反応」の違いも予想することができるというのです。そして、歴史家のポール・クレイマーの「ストーリーからレポートのあいだにはさまざまな作品が並んでいるが、ある作品の一部が他方の端に近いということはありうるので、配列は作品間だけでなく作中においても存在する。この揺らぎが巧妙に組み合わされていると、豊かな読書体験が生み出させる」という言葉が引用されています。
クレイマーの言う「揺らぎ」をいかに意識して読んでいくか。「ノンフィクションの構造と障害について学ぶことは、多様な種類の理解に役立ちます」というエリンさんの言葉はそのことを言っているのです。教科書の説明的文章にしても、クラークの言う「レポート」のような「読む者に場所を指し示す」性質(導出的:情報を取り出す)だけでなく「読む者にその場所へいざなう」性質(審美的:喜びを味わう)も持っているわけですから、「ノンフィクションを読みこなすツール」(『理解するってどういうこと?』の「表7.4 ノンフィクションをしっかり読めるようにするには」(274-6ページ))のどれかを使ってその文章と交流してみましょう。「文学的文章」と「説明的文章」を切り分けて考えがちな私たちですが、そういう考えを脇に置いて、クラークがローゼンブラットの言うことをふまえて言うような二つの種類の読み方や書き方を試みてみると、あたらしい情報を自分のものにしていくことができるのではないでしょうか。きっと新聞記事も誰かの伝記もネット記事も、客観的に情報を伝えるだけでないということがわかってきて、もっと調べてみたくなるはずです。そういう読み方が世界を知る喜びを味わうことにつながるはずです。
(ちなみに、クラークの本の訳者の一人である越前敏弥さんは、『ダヴィンチ・コード』等、ダン・ブラウン作品の翻訳者でもあります。読者にその場所を指し示しながら読者をその場所にいざなう名訳の書き手です。)
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