2020年7月18日土曜日

「深く耳をすます」行為としての「積読」



『理解するってどういうこと?』の第4章「アイディアをじっくりと考える」の冒頭には、ジョン・ストーンという詩人の「早朝の日曜日」という詩が置かれています。これは、アメリカを代表する画家エドワード・ホッパーの同名の絵画作品にたいするオマージュですが、次の言葉で締めくくられています。



 起こっていることと同じくらいたいせつなのは起こっていないこと。



 この言葉は「沈黙を使う、深く耳をすます」という理解の種類を示唆しています。ホッパーの『早朝の日曜日』という絵では、一見何ごとも起こらない日曜日のアメリカのある町の一角が描かれるだけです。何ごとも起こらない絵だからこそ、描かれていない細部を私たちはことさらに想像することになります。「起こっていないこと」に慎重に耳を澄まして深く考えるという理解がうまれると言うのです。

 永田希さんの『積読こそが完全な読書術である』(イーストプレス、2020年)はいくつもの読書論にもとづいて「積読」のもつ意義を考察する本です。私には、永田さんが「積読」にこの「沈黙を使う、深く耳をすます」という理解の種類を強く認めていると思われてないません。たとえば、永田さんが鋭く考察するピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』(大浦康介訳、ちくま学芸文庫、2016年)では「読み落としや内容の失念など、わたしたちが本を読むときに避けることのできない不完全性」をあらわす「未読」のもつ状態が「理解」にとって積極的意味をもつとされています。

 バイヤールの言う「未読」には大きく言って「ぜんぜん読んだことがない」「ざっと読んだ(流し読みした)」「人から聞いたことがある」「読んだことはあるが忘れてしまった」という四つの状態があります。よくよく考えてみると「積読」という状態はこのすべてにあてはまるのではないかと永田さんは言います。いや、自分の読む行為を振り返ってみるとこのいずれかの状態で、本棚や机上に積み重なっている本のいかに多いことか!読み通せていない「やましさ」、内容をはっきり思い出せない「うしろめたさ」にとりつかれてしまいます。私などはこうした「やましさ」「うしろめたさ」ばかりが膨らんでい方です。

 だから、永田さんの次のような言葉に出会ってはっとしました。



 書物は、それを読んでいない時間とそれを読んでいる時間との「あいだ」に存在しているいるのです。(中略)たしかに本は、「読むためにある」という性質を持っています。しかしそれと同時に、矛盾するようですが、「読まれないため」にも本は存在しているのです。本という形態は、それを読まずに「とっておく」ためにも機能するようにできているからです。(『積読こそが完全な読書術である』33ページ)



 本は「読むためにある」という考えにとりつかれている状態を、永田さんは濁流の水をガブのみする状態だと言い、「「読まれないため」にも本は存在している」という考えを持ち込むことは、その情報の「濁流のなかに、ビオトープをつくる」ことだと言います。現実に濁流のただなかに「ビオトープ」をこしらえるというのは至難の業だと思いますが、読む行為に関して言えば「自分なりの積読環境」をつくることが「情報の濁流」のなかに「ビオトープ」をつくることになります。この「積読環境」が他律的なものではなくて「自分なりの」ものつまり「自律的」なものとであるということが肝心なところです。自分なりの「積読環境」なのですから、他人からとやかく言われるいわれはなく、「未読」の「やましさ」「うしろめたさ」からは自由になれるのです。だからこそ「未読」の本に耳を澄ますことが可能になるのですね。「積読」を「環境」と捉えることでずいぶん気が楽になります。



 人がある書物を開き、そこに書かれている文字に目を走らせるとき、その人は何をしているのでしょうか。ある本のあるページの、ある一文に目を走らせるだけで、その人は読書をしたことになるでしょうか。あるいは、その一文が書かれた一ページだけを読んで、それを読書だということはできるでしょうか。本に書かれている内容に「ざっと目を通すだけ」という行為を「未読」に含めて肯定したバイヤールならば、このような「拾い読み」も読書として認めるかもしれません。

 どこからが読書で、どの程度から読書ではないのか、これを厳密に定義することは不可能です。完全な読書が不可能なように、読書の完全な定義も不可能なのです。

 「積読」は、手に入れはしたけれどちゃんと読んでいない、という状態を指す言葉です。「積読」は、バイヤールが『読んでいない本について』で「未読」と呼んだ読書と読者の関係の在り方の別の呼び方だと言えるのではないでしょうか。(『積読こそが完全な読書術である』7879ページ)



 ホッパーの絵について「起こっていることと同じくらいにたいせつなのは起こっていないこと。」と言い切ったストーンという詩人の言葉と共通していませんか。「起こっていない」読む行為を営むことで、私たちは自分と本との関係に「深く耳をすます」ことになります。「積読」は、自分にピッタリ合った本を選んで読み続けることができる自立した読み手となる大切な条件なのかもしれません。

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