『理解するってどういうこと?』の第9章でエリンさんは次のように言っています。
「私は知識を得るために読みます。あるいは、さまざまな登場人物を通して、自分の感情を経験するために読みます。いずれの場合であっても、読むことや学ぶことが、ずっと残り続ける何かに導いてくれるということを知っています。それは自分自身について発見することだったり、読んでいなければ消え去ってしまったであろう細部が記憶にとどまる、ということです。感情と記憶は切り離せないのです。」(339ページ)
そうは言っても、面白く読んだ小説だったはずなのに、その内容をいざ誰かに話そうとしてもうまく思い出せないという経験をしたことがある人は少なくないと思います。メルヴィルの『白鯨』という小説は岩波文庫で3冊ほどあります。私は10年ほど前に読んだのですが、細かいところはかなり忘れてしまっています。ところが、大半は忘れてしまっているのに、『白鯨』の後半で、マッコウクジラの頭部の樹脂を採取するため開かれた頭蓋にマストの上から乗組員の一人が落下してしまう場面など、手に汗握る思いで情景を思い浮かべたので記憶に残っています。ハラハラしたので感情との関連づけができて記憶しているのだと思いますが、それにしてもむしろ記憶に残っている場面があることが不思議でもあす。
作家で書評家の印南敦史さんの『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書、2018年)に『海賊のジレンマ―ユースカルチャーがいかにして新しい資本主義をつくったか』(マット・メイソン著、玉川千絵子他訳、フィルムアート社、2012年)★を地下鉄丸ノ内線の車内で読んで「異常なくらい興奮した経験」をした時のことが書かれています。この「経験」を経た後、彼は地下鉄丸ノ内線に乗ると、いまでも6年ほど前にこの本のことをよく思い出すと書いています。そして次のように言います。
「そのように、「読書していたときの記憶」と「読書していたときの光景」、そして「そのとき読んでいた箇所」、この三者は強く連動するものなのです。それはつまり、記憶に刻み込まれたということです。自分自身が体験していることだからこそ、それはとても大切名ことだと僕は強く訴えかけることができます。」(90ページ)
「記憶」と「光景」と「読んでいた箇所」が「強く連動」したということが、印南さんにとって『海賊のジレンマ』を忘れ得ぬ本としたのです。印南さんはさらに続けます。
「大切なのは、その本を読んだことによって「自分の内部になにか残ったのか」ということ。結果として残ったそれは記憶のひだに刻まれ、自分自身の新たな価値観を形成することになったり、読書に対する意欲を刺激してくれたりするわけです。」(94ページ)
その「自分の内部」に「残った」なにかのことを印南さんは「1%のかけら」と呼んで、それを見つけ出すことが、その本の内容を記憶に刻みつけることだと言っています。
「しかも多くの場合、自分に必要なかけらは、そのときの自分が必要としていることがらを記憶に残すことに大きく役立ってくれます。そのかけらが「かけら化」するのは、その言葉なりフレーズなりが、自分自身のなかでなんらかの価値、あるいはインパクトを持っているからです。そのため、そこで見つかったかけらは勝手に記憶に残る(「貼りつく」と表現したほうが適切かも)ことになるということ。だとすれば、それは記憶に深く刻まれ、忘れにくいものとなって当然なのです。」(96ページ)
上に書いた『白鯨』のある場面を読んでいた時の山陽本線瀬野駅から八本松駅に至る山の中の長い区間の窓外の光景を私は覚えています。太平洋が舞台の小説のはずなのに、その場面の記憶は、私にとって山陽本線でもっとも標高が高いと言われる山間の光景と切り離せないのです。私の『白鯨』を読む経験の「かけら化」はそのようにして起こりました。「1%」もないかもしれない「かけら」のおかげで、『白鯨』という小説は私の記憶に刻まれることになったのです。対象の内部に「自分に必要なかけら」を見つけ出すこと。これはおそらく本や文章に限りません。きっと、人でもモノでも本でも映画でも「自分に必要なかけら」をいくつか見つけだし、それらを結び合わせてみることが、対象を「理解する」ことになるのです。
★『海賊のジレンマ』はオープンソースや3Dプリンター、ヒップホップなどの「情報を共有もしくは盗むことによって成り立つ“海賊的”な価値観と手法について綴った著作」です。たとえば、楽曲などの情報を共有したり盗んだりするというかたちの「デジタル形式での販売」は、伝統的なレコードやCDの販売を中心とした伝統的な業界にとってそれと「競い合う」ことができなければ消えるほかはない「海賊のジレンマ」を生むということが書いてあって、私自身も読んでいて興奮を覚えました。現在の文化状況を鋭く描いているところにです。
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