2018年1月26日金曜日

自分の実践を磨き続ける効果的な方法


『「考える力」はこうしてつける』(ジェニ・ウィルソン他著、新評論から来月に増補版が発売予定)と『In the Middle』(Nancie Atwell著、三省堂から6月に発売予定。日本語タイトルは未定)の2冊の親和性が極めて高いことに気が付きました。★
 両方とも、類まれなる実践紹介の本ですが、同時に、常に改善修正している舞台裏も見せてくれている本です。(いいところだけ見せてくれて、失敗や舞台裏まで見せてくれる本は、極めて稀です!)言葉を換えると、実践者が実践を通して常に成長し続けていることを紹介してくれています。力点のおき方は違いますが。
両方とも、ほぼ毎日WWRWの授業を時間割の中に位置づけられています。『「考える力」はこうしてつける』は、すべての教科領域での考えること、振り返ること、新たな目標を設定して取り組むことなどにフォーカスしているのに対して、In the MiddleはあくまでもWWRWにフォーカスしている違いがあるだけで、そのアプローチの仕方は変わりないと思います。
 ある意味では、両者のアプローチは、以下の2つの図に集約されるかもしれません。
(出典は、一つは、『「考える力」はこうしてつける』の16ページと、もう一つは、吉田の手製です。)


 従って、このアプローチが効果的であることは、二人の実践者によって(それも、オーストラリアとアメリカという異なる環境下で!)証明されているわけです。まだ、これらのサイクルを自分のものにされていない方は、早速、日本でもやり始めてください。そして、その報告をお聞かせください。(あるいは、自分はこういう形でやっている、という異なるアプローチも大歓迎です!)


★ 私が、教師ががんばって教えるのではなく(その中心は、教科書をカバーする授業です)、子どもたちが主体的に学び、「自立した学び手」を育てる方法を探し始めたのは、1995年からでした。★★そして、1996年にたまたまオーストラリアのブリスベンにある教育専門の本屋さんで見つけたのが『「考える力」はこうしてつける』でした。当時は、ライティング・ワークショップも、リーディング・ワークショップの存在も知りませんでした。(この本は、そのことについては一言も述べていないのです。時間割の中で、それを毎日していることが分かる以外は。ですから、当初、私も「単に読み・書きの指導を分けて毎日やっているんだ」としか思いませんでした。)
その2~3年後、アメリカの教育シーンからいろいろ情報を収集している中で、ライティング・ワークショップとリーディング・ワークショップが読み・書き指導の分野で盛んに行われていることを知り、その傑作として評判の高かった『In the Middle』を購入しました。(当時は、まだWWRW関係の本も、いまほどたくさんは出ていませんでした。In the Middle以外に、一緒に購入していたRegie RoutmanKathy Shortなどの本も、これに負けないぐらいの厚い本ばかりでした。何でこんなに厚い本ばかりなんだろうと思ったものです。日本の普通の教育書の4~5倍はありますから。)その厚さに圧倒されて、2000年までは読めませんでした。

★★ 文科省の、いま風の表現になると「主体的・対話的で深い学び(アクティブ・ラーニング)」ということになります。しかし、「新しい学力観」「生きる力」「総合的な学習の時間」「指導と評価の一体化」等、すべて言葉だけは存在しますが、実態はほぼゼロの状態が続いていますから、これも例外ではないことが最初から想像できてしまいます。本気度は感じられませんし(単なる作文でしかないことが伝わってきてしまいますし)、教科書アプローチを続ける限りは、基本的に無理なことが分かっています。換言すると、現場レベルで不可欠な、具体的な方法の提示も、継続的なサポートが得られる仕組みもないので、なかなかいい実践は期待できない、ということになります。ここでも、いつもの「ボタンの掛け違え」が!



2018年1月19日金曜日

On Reading


   アンドレ・ケルテスという写真家の『読む時間』(創元社、2013年)という写真集を手に入れました。1915年から1970年にかけて、ケルテスが世界中で撮影した「読書する人」の写真が収められています。書斎で本の山に埋もれて分厚い本を読む紳士の写真もあるし、町中の市場のような場所で、うち捨てられていた本をむさぼるように読む子どもの写真もあるし、絵やレリーフに描かれた読書する人や、暑い日の公園の芝生の上で熱心に読書にふける半裸の男性の写真もあります。

 『理解するってどういうこと?』にも、翻訳書を出版するにあたって著者のエリンさんからいただいた写真がいくつも収められています(原著には、メンターに関する絵の図版はありますが、これらの写真は翻訳書だけにしかありません)。ガイド読みやワークショップでの読み聞かせや、教室環境の写真などが収められています。必ずしも読書だけにかぎりません。むしろ、理解しようとする人の姿がそこには映し出されていると言っていいでしょう。ケルテスの被写体とはそこが違います。違うなぁと想っていたら、もう一冊、読書についての写真集を持っているのを思い出しました。

 On Readingというその写真集は、甲斐扶佐義(かい・ふさよし)の本です(光村推古書院、1997年)。どうしてこの本を買ったのかは覚えていません。しかし、改めてこの本を開いてみると、そこにはケルテスとは違った視線で、甲斐が19501970年代、1990年代の京都の人々の「読む」姿を映し出してます(そのなかには、若かりし鶴見俊輔の姿も映っています)。ケルテスの本は読書の写真集そのものでしたが、甲斐の本は「理解すること」の写真集と言ってもいいでしょう。写真のところどころに次のようなキャプションがあるからです。

 写真集の各セクションが「よむ。」「よむとき。」「よめば。」「よめ。」。なにやら文法の時間を思い出しそうなセクション名です。たとえば、「よむ。」のセクションに収められている写真につけられたキャプションを列挙してみます。



公園でよむ。/スニーカーでよむ。/時間のすきまを見つけて読む。今読まなくてもいいんだが読んでしまう。読みだすと、今読まなくてはいけないと思う。/たこやきのつつみ紙をよむ。/座り込んでよむ。/みあげてよむ。/カモの気持ちをよむ。/子供の心をよむのはむつかし。/こんな所でよんだり。/こんな所でよんだり。/酒と本の日々。学者、哲学者、建築家の人…。/ねこはぼくの気持ちをよみ、ぼくはねこの気持ちをよむ。/高い所でよむ。/思わずよむ。/無心によむ。/猫がよむ。/影をよむ。/日傘でよむ。/なにをよんでいるの?



 こんな調子です。「カモの気持ち」って? 写真を見たくなりますね。甲斐の選んだ写真のなかには、ケルテスと違って、本が必ず出てくるわけではありません。現にこのキャプションにも「カモの気持ちよよむ。」や「子供の心をよむのはむつかし。」というものがあります。また、後ろの方の「よめ。」のセクションには、路地裏にたたずむ老夫婦が接骨院の看板とその向こうのモニュメントらしきものを見上げている写真があって「この風景をよめ。」とキャプションがついています。甲斐のOn Readingは、読書の風景を写真に収めながら、被写体の読書行為が「本を読む」ことにとどまらないことだということに、甲斐自身が気づいて、それを読者にも伝えようとしていることがわかります。紛れもなくこの本は「理解する」ことについての本で、日常のさまざまな場所で営まれる理解することの光景を、私たちの前にみせてくれます。そこがとてもおもしろい。だから、この写真集なら、エリンさんの写真がいくつか収められていても違和感はありません。『理解するってどういうこと?』の写真は図版に「よむ」「よむとき」「よめば」「よめ」のどれかを使ってキャプションを考えてみれば、いろいろな理解の種類があることに思い至るでしょう。

 さすがに、スマホを(で?)読む姿はどちらの写真集にもありません(ありえません)。が、ケルテスや甲斐ならその姿をどんなふうに映すのでしょうね? そして甲斐さんならどんなキャプションをつけるのでしょうか?

2018年1月12日金曜日

リーディング・ワークショップで学ぶ理由?

年末・年始も、まったくそんな気分にはならないかのように、ナンシー・アトウェル著の『In the Middle』★1の翻訳をブラッシアップする作業は続いていました。
彼女は、自分のクラスでリーディング・ワークショップ(RW)を体験した生徒たち(中学生)に「リーディング・ワークショップで学ぶ理由」を尋ねました。生徒たちが出した理由は以下のようなものでした。

リーディング・ワークショップで学ぶ理由

・本物の、成熟した読み手としてふるまうため
・選書の仕方を学ぶため
・大好きな本をみつけるため
・大好きな作家をみつけるため
・お気に入りのジャンルを見つけ出すため
・新しい本、作家、ジャンルに挑戦するため
・合わない本をどのように、いつやめるのかを学ぶため
・新しい言葉や知識を学ぶため
・今までとは異なるタイプの登場人物や人々に出会うため
・他の書き手たちから、どうやって上手に書くのかを学ぶため
・本、作家、ジャンルについてクラスメイトから学ぶため
・どんな人になりたいかを見つけていくヒントを得るため
・現実世界ではできない経験をしたり、感情をもったりするため
・本の世界に逃避するため
・学ぶため (出典: 原書169~170ページ)

 なかなかのリストというか、すごいリストです。★2

 このリストに、RWを教える教師として、アトウェルさんは次の一つを追加しています。

・ひたすら読む、読む、読む。頻繁にたくさん読み、読む経験やそれを通じて得られる他の人たちの経験を積み重ね、それを長期記憶に蓄え、生涯にわたる読み手としての習慣を培うため

 はたして、このリストのどれだけが国語の授業で得られていますか?★3
 獲得する必要はないのでしょうか?
 国語はまったく異なる目的のためにしているとしか、言いようがありません。
 いったい、国語をやり続けている目的とは何なのでしょうか?

 国語の時間を使って、上のリストを実現する方法として、RWがあります。
 国語とは別の時間にするものではなく。

 RWをやり始めると、生涯にわたる読み手として育つことはもちろんのこと、学習指導要領に書かれていることのほとんどをヤスヤスと押さえます。(上のリストをすべて押さえますから、「はるかに超えて」押さえます。学習指導要領に書かれているレベルでは、子どもたちに対して、失礼とさえ言えます! あまりにも、子どもたちのことを見くびっているというか、過小評価した前提で書かれているのが学習指導要領なのです!)
そうなんです、アトウェルさん自身も発見したように ~ それは、かなり痛い発見でした!その点に関しては、本の第1章で詳しく紹介されています ~ 教師主導で全員に決まったことを教える指導案をベースにした一斉指導では、教師は教えた気になれ、生徒たちは教師へのお付き合いをしているだけで、上のリストのほとんどが得られない授業を続けることを意味してしまうのです。★4

 アトウェルさんは、いまではまったく違ったビジョンの元に授業をつくり、そして実践しています。その詳しい内容までは紹介しきれないので、ぜひ翻訳本をお読みください。

 ところで、朝の読書の時間や図書の時間で得られているのは、上のリストのどれでしょうか?
 それらの時間は、どう改善したらいいでしょうか?


★1 このタイトルの日本語訳に苦戦しています! 何かいいタイトルが浮かんだ方は、ぜひ教えてください。

★2 日本人の教師や子どもたちが出した似たリストが、『増補版「読む力」はこうしてつける』の第1章に複数掲載されていますので、興味のある方はご覧ください。

★3 「国語を通して得られるもの」をテーマに、ぜひ生徒たちに出してもらって、その結果をぜひ教えてください。小学校中学年以上なら、間違いなく出せます。

で紹介されている『授業の見方』の中の授業のことです。


2018年1月5日金曜日

「パンダ読み/レインボー読み」再考





 「パンダ読み」も「レインボー読み」も、日本での小学校の教室から生まれた言葉です。どちらも、同時進行で、複数のものを読むときの状態を示しています。複数の本を同時進行で読むことから、白と黒が代わりばんこに出てくることにたとえて「パンダ読み」、虹色みたいに様々な楽しさを味わうから「レインボー読み」と呼ばれることになりました。『読書家の時間』(新評論、2014年)の6163ページでは、こういう読み方が、読書生活をつくるミニ・レッスンとして紹介されています。先生は、例えば、軽い本は鞄の中に入れて電車の中で読む、重たい本は枕元に置いて寝る前に少しずつ読む等、現在読んでいる3冊に関して、読む時間や場所を分けていることを説明しています。その説明には納得ですし、読書を日常生活に取り入れる、とてもいいモデルだと思います。

 

私も、いつも「パンダ読み」/「レインボー読み」をしています。日常の一部ですし、その現実的な価値も実感しているので、つい最近まで何の疑問も感じませんでした。

 

でも、ある先生のコメントがきっかけで、「パンダ読み」/「レインボー読み」をしている「中身」の組み合わせには注意が必要ではないかと思い始めています。

 

教室の実践が紹介されている本で、昨日、持って帰った本を忘れてきた子が、他の厚めの本を読もうとしていたら、教師が、それをやめさせて、その日の授業中に読み終わるような短編を読ませる、という場面がありました。

 

その場面を読んだある先生が「僕の授業でも本を忘れてくる生徒はけっこういるので、この先生の対応が気になりました。(自宅に本を忘れてきたら、その日のリーディング・ワークショップで読むのは)今日1日で完結する短編でないとダメということ?」とコメントされました。

 

このコメントがなければ、私は、すっとそのまま通りすぎていた箇所だと思いますし、パンダ読みやレインボー読みを再考することもなかったと思います

 

レインボー読みをよく行う私は、「読まなければいけない」ものが複数たまってくると、こっちの本に疲れてきたら、あっちの本を少し読んでと、いったりきたりしながら、自分の体調や時間に合わせて、選択したりもします。細切れの時間で軽く読めるもの、じっくり読むもの等々を分けるのは、現実として必要なスキルだと思います。

 

でも、レインボー読みから切り離された読書時間があります。それがいわゆる読みのフロー状態に入っている時間です。2017410日のRWWW便りで、リーディングのフロー状態に入ってしまい、面白くてやめることができず、どうしても本を閉じることができず、これでは夜更かししてしまうので「まずい!」と思ったときのことを書いています。リーディングのフロー状態に入ると、他のものを同時進行で読むなんて考えられず、フロー状態中は、「パンダ読み」/「レインボー読み」をする余地は、私の場合はありません。

 

一度に一気に読めなければ、その続きを読むまでに、他のものをいろいろ読む(仕事上や書類を書く上で読まなければいけないものも含めて)と思います。でも、読み終わる前に、同じようなレベルでフロー状態に入れる可能性のある他の本を読み始めることは、私の場合、まずありません。単純に、その1冊を早く読みたくて仕方ないからですが、どこかで、そういう同質のもの二つのパンダ読みは両立しにくい、と感じているのかもしれません。名作映画を2本同時に、1時間ずつ区切って、みるようなことはしたくないのです。

 

読み手もそれぞれなので、歴史小説とサイエンス・フィクションを1章ずつ同時進行で読み、読んでいる間はすっぽり、それぞれの本の世界に入れる人もいると思います。

 

でも、まだ読むことの経験があまりない読み手が、昨日読みはじめた本を自宅に忘れてきたら、同じぐらい読み応えのある本を新たに読み始めないようにして、すぐに読み終わる短編にするように助言することは、「あり」だと思います。それは、まずは1冊でのフロー状態の質を確保し、その本をできるだけ邪魔されずに味わう経験を重視しているからだと思います。


1冊の本にすっぽりひき込まれるような経験を積み重ねることを優先するなかで、パンダ読みやレインポー読みに含まれる本の組み合わせも、上手になっていくように思います。複数読むのは必要なスキルですが、その組み合わせは少し注意が必要かもとも思い始めています。