『理解するってどういうこと?』の第3章「理解に駆られて」には、著者の母親が急性リンパ腫を発症した時に、著者が父親や兄と一緒にこの病気についてありとあらゆる情報を集めながら懸命にこの病気を理解しようとした「熱烈な学び」の記憶が記されています。著者が24歳の時の出来事で、母親は49歳であったと書かれています。あまりに辛い出来事のなかで行われた「熱烈な学び」のなかで、懸命に母親の病を探る手がかりとなった本の一つに、ハロルド・クシュナーの『なぜ私だけが苦しむのか』(斎藤武訳、岩波現代文庫、2008年、初版はダイアモンド社、1985年)があります。クシュナーはユダヤ教のラビ僧ですが、息子を早老症のために亡くしたことで自身に降りかかった辛い運命を告白しながら、苦悩の中心に立たされた時に人は何をどのように考えればよいのかという問題に取り組んだこの本は、多くの言語に翻訳され世界的なベストセラーになったと言います。
そのクシュナーの新しい翻訳が出ました。『私の生きた証はどこにあるのか―大人のための人生論―』(松宮克昌訳、岩波現代文庫、2017年)です。「さあ、喜んであなたのパンを食べ、気持よくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れてくださる。」にはじまる、旧約聖書の「コヘレトの言葉」に導かれながら、クシュナーは本書で満足できる人生とは何かという問題に取り組んでいます。彼の思考の根底には、私たちを欲求不満にさせ人生から喜びを奪う」のは「意味の不在」だという考え方があります。これを逆に言うと、満足できる人生のために一番必要なのは人生を意味づけることです。人生を意味づけるためには何が必要か。クシュナーは「コヘレトの言葉」をはじめ、ゲーテ、ユング、ピアジェ、ブーバー、ジェームズ、エリクソンら古今東西の知性が残した言葉を引きながらそれをわかりやすく語っていきます。
「人生を充実して生きてきた、無駄にはしなかったと感じられるために、絶対的に持たねばならない、行わねばならないこと」としてクシュナーは次の三つをあげています。
・人々の一員となる
・痛みを人生の一部として受け入れる・自分が違いを作りだしてきたことを知る
最初の二つはいろいろな人が言っていることだと思います。しかし、三番目の「自分が違いを作りだしてきたことを知る」ということはどういう意味で、満足できる人生のために必要なのでしょうか? クシュナーは「人生」を「良書」に喩えて次のように言います。
本に深く入り込めば入り込むほど、ますます本の世界と一体化し意味を理解するようになります。登場人物を理解する目がしっかりと養われ、その前に書かれた出来事の意味がより明確になります。本の終りにたどりつけば、完全に読み遂げたという満足感があります。
いうなれば人生は芸術作品です。さらに作品の細部にまで愛情深いまなざしを向けるなら、仕上がった作品を誇りに思うことができるでしょう。芸術家は、見ず知らずの人が自分の芸術作品を購入し、また作品が新しいオーナーにどれほど喜びを与えるかを知るすべもないのに、どうして絵を描き、彫刻を作り上げることができるのでしょうか? 作家は、自分の本が何百マイルも離れたところに住む知らない人に読まれ、そのような読者にどんな影響を及ぼすかを知ることもないのに、どうして書くことができるのでしょうか? 私たちがそれらの問いへの答えを知るとき、私たちはなぜ、いつの日か命を召されることをよく承知しながら、人生において懸命に働き、自分の人生を通して何かを作り上げるかを理解するでしょう。そして、他者だけが、私たちの人生を通して作り上げた作品がどれほどよいものであったかを記憶にとどめてくれるでしょう。(224~225ページ)
「自分が違いを作りだしてきたことを知る」とは、「人生」という「作品の細部にまで愛情深いまなざしを向ける」ことを意味します。それは決して自己満足で終わるということではありません。むしろ逆です。自分の作品が未見の「他者」に受けいられるかどうかもわからないのに、それでもその未見の誰かに向けて作品を表現しようとすることが、その人を豊かにするということだと思います。そして、「自分が違いを作りだしてきたことを知る」ことができるのも、クシュナーの言う通り「他者」がそれを伝えてくれるからなのではないでしょうか。
自分自身の生活に閉じこもろうとするのではなく、他者とその世界に違いをもたらしながら、いかに他者と人生を分かち合えるかを学ぶかどうかは、重大なことです。(249ページ)
『私の生きた証はどこにあるのか』には、『理解するってどういうこと?』と重なる言葉が少なくありません。クシュナーの本は〈私たちが生きている証とは何か〉についての本なのですから、人間存在そのものの「理解」について書かれてあるのは当然と言えば当然なのかもしれません。『理解するってどういうこと?』もまた、本や文章の理解にとどまらず、人間を理解するということについての本です。一方は「満足できる人生」を探究し、もう一方は「理解すること」を探究していますが、ともに私たちの人生が「意味づけ」を必要とするものだと言っています。その「意味づけ」とは、クシュナーの言葉で言えば自らのつくり出してきた「違い」に自覚的になる、ということなのではないでしょうか。「違い」をもたらしながら、いかに他者と人生を分かち合うかを考える。そのことによって「違い」を力に変える理解の姿を、クシュナーは教えていると思います。
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