2015年11月27日金曜日

読む・書くときのエンゲージメント(Engagement)

日本の教育界では、この学習する際にとても大切な概念であるエンゲージメント(Engagement)をなんといっているのでしょうか?
(少なくとも、国語では聞いたことがありません。読むこと・書くことを最初から「苦役」と捉えているからでしょうか?)
読み・書きの視点で捉えた記事を見つけたので、紹介します。

高いエンゲージメントを示している子の特徴は・・・
「リーディング・ワークショップに、すでに読みたい本をもってくる子。その子にとっては、ミニ・レッスンも邪魔な存在と思ってしまうのですが、それでも、自分が読んでいる本にどう活かせるかという視点で聞ける。ミニ・レッスンが終わるなり、自分のいつもの「読み場所」に行って、早速夢中で読み始める。周りで何が起こっていようが関係なく集中して。読む時間が終わると、読んでいることについて紹介したくて仕方ない。自分の暮らしとの関連でも捉えている。読んでいることを、書くことにも使っている。すでに、次に読む本もリストアップしている」
教師たちにとっては、クラスがこういう子たちばかりだと楽で、たのしいです。

でも、現実には以下の3種類の子たちがいます。

engaged reader/writer/learner ~ 上で紹介したような、興味・関心をもって自分で主体的に読み・書き・学べる子。それをすることが本当に好きな子たち。(そういう子たちの特徴・特性をしっかり把握して、一人でも多くの子たちがそうなれるように助けるのが教師の役割)

②教師へのお付き合いで集中して読み・書き・学んでいる子たち ~ 興味・関心があるから、好きだから、読んだり・書いたり・学んだりしているのではなく、その時間だから(仕方なく)取り組んでいる子たち。多くの子たちはこの分類に含まれる。①の読み手・書き手・学び手になってもらう候補者たち。

disengaged reader/writer/learner ~ 教師が期待していることをしてくれない子たち。本を探し続ける子。自分の本が見つけられない子。本は手にしていても、ほんとうに読んでいるとは思えない子。いろいろなことに時間を掛けすぎて、本来すべきこと(集中して読みふける)ができない子たち。目立つので、教師が引っ張られてしまうのは、少数のこの分類の子たち。

◆ 子どもたちの熱中度/取り組み度を上げるには ~ ここが一番参考になる点です

     読むことを好きになってもらう。好きな本に出会える場やきっかけをたくさんつくる。
     読む時間を確保する。読んでいるものについて、話せる(話し合える)時間も含めて。
     選択を提供する。それもできるだけ多様な。家にも持っていける本の。
     他の教科や行事と関連づけてテーマを設定して本を集め、子どもたちの興味をひけるようにする。お気に入りの作家の本をたくさん集めるのも効果的。
     集中して読む(書く、学べる)ようになるには、いい関係が大切。子どもに関する情報を読む(書く、学ぶ)際に使いこなせる。教師と子どもの関係だけでなく、子ども同士のいい関係も大切。(要するには、読み手・書き手・学び手のコミュニティづくりが大切、ということ。)
     好奇心/知りたいこと/調べたいことを常に集め続ける。それが読む(書く、学ぶ)引き金になるから。
     主役を教師から子どもたちへ転換する。これまで目標を設定していたのは教師。それを一人ひとりの子どもにしてもらう。それでこそカンファランスやミニ・レッスンが効果的なものになる。目標設定こそが自立した読み手(書き手/学び手)への大切な鍵。

     出典: A Closer Look at Engagement,  by Cathy Mere

以上は、読むこと(書くこと)を中心に書いてきましたが、このエンゲージメントは国語だけでなく、すべての教科や学習活動・行事でも言えることです。それほど大切なことなわけです。


★ 日本では学力テストの煽りを受けて、教育委員会などは点数を上げるために教師に努力するように迫っているところも少なくありません。しかし、このエンゲージメント(Engagement)に言及しているところは聞いたことがありません。これこそが生涯にわたって学び続ける際に必要なのに。テストのための勉強は、苦役をこらえるスタミナのありなしと、短期記憶の得意・不得意に左右されるだけだというのに。


2015年11月20日金曜日

『聴能力!―場を読む力を、身につける―』と『理解するってどういうこと?』

  先週、電車の待ち時間にたまたま駅の近くにある大きな書店に行きました。ほんとうにたくさんの新刊書があるものです。電車の時間も迫ってきたので、新書のコーナーで表紙をこちらに向けて展示された本のタイトルだけをざっと眺めて、足早に歩き去ろうとしたのですが、目に飛び込んできた本のタイトルがありました。
聴解力?・・・理解についての本かな? と思い、手に取ってみると、違いました。本のタイトルは『聴能力!』(伊東乾著、ちくまプ新書、2015年)。一字違いだったので、本棚に戻しかけましたが、それにしても「ちょうのうりょく」と読めるけれども、「聴」の字を使ってあるし、副題に「場を読む力」とあるので、けっしてオカルトの本ではなくて、理解についての本らしいことはわかります。そして、目次の見出し語が魅力的です。

 はじめに
1章 「離見の見」で空気を読む-視覚と聴覚の二刀流
2章 コミュニケーションの聴能力-平板メディアとライブの奥行き
3章 トラと子猫の見分け方-耳で大きさを測る法
4章 聴かない「聴能力」-早口言葉と速読のテクニック
5章 耳にまぶたはついていない-日常に耳を澄ます
6章 耳は何のためにある?-進化から見た聴能力
7章 仮面の告白と「聴能力」-気配りから思いやりへ
 おわりに……命と思いをつなぐ

 買って電車のなかで読むことにしました。読み始めるとすぐ、次のようなことが書かれています。

 一部の「超能力」の正体は、間違いなく「聴能力」にあると思います。かつて人間は、大自然の中で、もっと多彩な能力を縦横に活用して、力強く生きていました。文明が発達すればするほど、そうした人間本来の能力が退化してしまったような気がします。(18ページ)

 『理解するってどういうこと?』の第7章で「よきメンター」となっていたパブロ・ネルーダの詩や文章を思い出します。『聴能力!』の著者伊東さんがここで「人間本来の能力」と言っているのは、世界と自分自身を、全体として感じ取り把握する力のようなものです。それは、日常のささやかな出来事をいとおしむように見つめ、考える力であり、ものごとの「悪い味わい」をかみしめるようにして世界を生きようとする意思のようなものです。
 そういうことを、空気を読むことや、コミュニケーションをすること、聴覚をとおして「見る」方法、ということなどを具体的に論じながら解き明かしていくのです。理解について考えるための本を探しているつもりが、人生の処方箋を読むような思いにもなります。次のような一節があるからです。

 だいたい、あがるとか緊張するとかいうのは、自分の中であれこれ思いあぐねたり悩んだりするから、体が硬くなるのです。一種の妄想でしょう。そういうときは虚心坦懐に耳を澄まし、全神経をあたりを察知することに集中するのがいいですね。自分が自分が、という意識がすーっと消えて、全身全霊がセンサーとして研ぎ澄まされてゆくと、余計な妄想は消えてしまい、クリーンファイトの青い炎で燃焼する心の準備が整います。(45ページ)

 そういえば『理解するってどういうこと?』の第4章ではアメリカの画家ホッパーの絵が取り上げられて「耳を澄ます」という理解の種類とその成果について書かれていました。伊東さんの本は「聴能力」についての本ですから「耳を澄ます」というフレーズがあらわれるのは当然と言えば当然なのですが、上に引用した部分などを読むと、「耳を澄ます」ということがどれほど「わかる」ことそのものなのかということがよくわかります。
 そして「読み方」についての示唆ももちろんあります。第4章「聴かない「聴能力」」のところです。伊東さんは幼いころ、自分の母親から「本は頭のなかで音にしてはいけない」と教わったそうです。速読する場合にはそれが一番大切だということを伊東さんは身をもって体験しました。音や声に出すこととのわかりやすい対比は次のようになされます。

目の前に置かれた楽譜を見ながら音を出して演奏することも出来ますが、全体を瞬時で見て、そこにどういう形式や構造があるかを一挙に掴むという楽譜の読み方も、非常に大切なものです。(124ページ)

しかし、ここからがおもしろい。伊東さんは別に音読することに価値がないと言っているわけではないのです。いろいろな例が使われますが、ここでは「楽譜」の読み方と演奏の場合に「頭の中で音にする」ことと「声に出す」ことがどうなるのかについての伊東さんの文章を引用します。

楽譜は先に先に読んでいかねばなりませんから、いちいち音にせずに譜面を読むのは実際に役立つテクニックです。
これに対して、頭の中で音にして高速で読むのは、歌を所見で歌うときに役立つ方法です。ピアノやヴァイオリンと違って、歌つまり声楽は自分で音程やリズムを取ってゆかねばなりません。
ある部分を歌いながら、その先を読むというような場合、頭の中に響きのイメージを高速でまわしながら譜面を読むと失敗が少ないのです。
そして一番ゆっくり、書かれたリズムの通りに音楽を反芻する、というのは、自分固有の解釈や、新しい作品を創りだすとき、何度も何度も繰り返し、試行錯誤する方法です。(130~131ページ)

この三つのやり方は、本や文章をまずざっと点検しながら情報を取り出すようにする読み方、本や文章の物語内容や組み立て方を追いかけるようにして読む読み方、そして、表現をじっくりと捉えて著者の意図性を読み取ったり、本や文章についての自分の解釈を深めたりする読み方、に対応すると思います。三つ目の後に話し合いがなされると、他の人が行った三つの読み方と出会うことができますし、自分の解釈がさらに深まることになります。伊東さんが例に挙げている「譜面」を本や文章に置き換えれば、こうした考え方は、『理解するってどういうこと?』第5章での、表面的な理解構造と深い理解構造についてのエリンさんの考え方と通じていると思います。
こうして、二冊の本が意外に多くの点で共通していることに驚いているうちに、電車は私が降りるべき駅をもう少しで行き過ぎてしまうところでした。伊東さんの本が私を「熱烈な」読者にしてしまったのです。

                 (パソコンと格闘している山元さんに代わって、吉田が貼り付けました)

2015年11月13日金曜日

理解できないところを「自分で」見つけられるようにする


  (皮肉たっぷりの言い方で)「そりゃいいね。なにしろ全部分からないないんだから」 

 上のセリフは、時々読み直す本★の中で出てくる子どもの発言です。

 「分からない!」と言う子どもたちに対して先生が、「最初に分からなくなったと思った箇所に付箋を貼って、どのように分からないかメモしてみましょう」と言ったことへの、子どもの応答です。

 (先生)「どこか分からないの?」 
 (生徒)「全部」

 という会話は、この教室だけでなく、自分が教えてきた経験からも、けっこう耳にしてきた気がします。

 こういう子どもたちは、分からないまま過ごしてきた時間が長かったのでは?と思います。

 そういう子どもたちに、特に必要ではないかと思うのが、「分からない箇所がどこか、どこで分からなくなったのかを、自分で見つけることができる」という能力です。「自分が理解しながら読めているのかどうかを、自ら確認する能力」と言えるのかもしれません。

 分からないところを、自らはっきりさせないまま、長年、読むフリ?をしてきた子どもたちには、理解できないところを「自分で」見つけられるようにする、というミニ・レッスンはいかがですか?

 この本の著者は、以下のようなときは、分かっていない場合が多いと、子どもたちに教えています。

1.テキストと対話ができなくなり、ただ、単語を追っているだけになっているとき
2.頭の中の「映像カメラ」が切れてしまい、何が起こっているのかイメージできないとき
3.テキストから離れて、他のことを考え始めるとき
4.読んだことについて何も覚えていないし、再話できないとき
5.はっきりさせるための質問に、自分で答えられないとき
6.登場人物が再びでてきても、誰だったか思い出せないとき

 ミニ・レッスンなどで短いテキストを使い、「分かっている箇所と分かっていない箇所を、自分で見極める」という練習も、(特に高学年には?)時には必要な気がしています。

 また、学期の早いうちに一度行うことで、「分からないことを見つけることは大切、これは自分で行うこと」、というメッセージをはっきり送るのも、いいかなとも思っています。

*****

★ 上で紹介した本は Cris Tovani著のI Read It, But I Don't Get Itで Stenhouse より2000年に出版されています。うえの6つのは38ページにやや詳しめに、48ページにまとめて載っています。

 余談ですが、RWというと、私の頭にはまずナンシー・アトウエル氏の実践が浮かびます。同じRWと言っても、上の本を書いたクリス・トバニ氏の実践とは、受ける印象がかなり異なります。

 トバニ氏の方が、読み方をどうやって教えるか、そして、そのための練習も具体的に載っています。これらを意識しすぎると、かえって、読む流れが中断するのでは?と思うときもあります。でも、読むことは楽しい、とか、しっかり理解して読んでいる、という経験の乏しい子どもを教えるときのヒントは多いように思います。

2015年11月6日金曜日

『読書家の時間』を読んで (3)

 2014年4月に出版されたプロジェクト・ワークショップ編著の『読書家の時間』への3人の感想を紹介します。

● 10章の「教師の変容」は圧巻!

最初に、この本が扱っている内容が「読むこと」についてであり、それは一般の教員が常日頃教えていることなので、大変にイメージがしやすく、細かいノウハウが参考になる、と思っていました。
しかし、やはり圧巻は第10章の「教師の変容」でした。

ここにはRWを取り入れようとしながらも、従来の教師が学びをドライブすることへの未練を捨てきれない教師の姿が描かれています。これは、RWやWWに関心を持ちながらも実践には躊躇している教員にとって、とても身近に感じる姿です。まさに私自身のことでもあります。そして、子どもたちが自分の思いで学べないことによってクラスが荒れていく姿は衝撃的でした。この教師はこうした子どもたちを見て再びRWに取り組み、次第にうまく回るようになっていきます。こうした教師の姿を具体的に示しているこの章は非常に貴重だと思います。

私はこの章を読み終えて、これは教えることに対する一種のパラダイム変換の必要性を教えてくれるものだと思いました。教師は自分の力で子どもたちを教えよう、とどうしても考えてしまいます。しかしそれは、子どもたちの力を伸ばしているのではなく、教師の自己満足の追求です。真に子どもたちが自分の力を伸ばすには、子どもたちが学びの主体となって、自分たちで学んでいくようにさせることが必要です。10章の教師が語っているように、「(教師の)見たい姿だけ見るのではなく、子どものありのままを全部受け入れて、子どもたち自身が今よりもさらに目指す姿に近づけるように、助言したり繰り返しチャレンジできるようにしたりすること」が、これからの教師には必要です。これは、教えることのパラダイムを変換することだと考えます。
続けて10章の教師は「技術よりも、子どもを信頼することや、教師が学び方のモデルを示すことが大切な気がします」と述べています。ノウハウも確かに必要でしょうが、これから教育にとって必要なのは、まさにこうした教師の考え方の変革です。

           峰本義明(新潟青陵大学短期大学部幼児教育学科)


   <メルマガからの続き>


● すぐに実践できるように書いてある本

まずは、第一章と第二章の感想を送ります。

 この本のすごいところは、「時間」をしっかりと捉えているところにあります。何かを始めるときに、「こうするといいよ!! こうやるんだよ!!」というような説明がされます。「こうする、こうやる」と、「こうなるよ」って効果や結果ととともに。

 しかし実際にそれをやろうと思うと、すでにある日常の流れ、習慣の中に、どうやって組み込んでいけばいいのかが鍵になります。が、多くのケースは今やっていることの上に足し算をする形になり、結局は従来の方法との統合が取れずに、試みや取り組みは失敗に終わってしまいます。

 その問題をこの本は、見事に乗り越えていると思いました。そのあらわれが第一章と第二章です。

 第一章では、もっとも変化をつくるのに時間とエネルギーがかかる最初の段階を丁寧に紹介してくれています。「10時間」という具体的に達成可能な数字目標を示し、かつその10時間を実際のカレンダー(四季の流れ)の中に落とし込んでいる。何をどうすればいいのか? それはなんのためか? がしっかりと紹介されています。

 第二章では、環境面へのアプローチです。何をどうすればいいのか? その意図や目的は何か? などが具体例とともに紹介されています。教室の机の配置から読書ノート、その管理保存の仕方まで。

 この第一章と第二章があることで、読書家の時間を知りたいだけなのか? 実際にやりたいのか?がハッキリしてくると思いました。知りたいだけなら読んで終わりでいいし、実際にやるなら創意と工夫の余白がたくさんある。

                       Mさん


●指導と評価の一体化を実現している教え方

 全国の多くの学校で、「朝の読書」が実践されていますが、以前から私はそれだけではもったいないと感じていました。さらに、次の段階へ進むべきだと考えていました。この本の中には、その「次の段階」に進むヒントがたくさん散りばめられています。
 「ミニ・レッスン」「カンファレンス」「共有の時間」という流れで「読書家の時間」が構成されています。それぞれがうまくつながりあって、読書の楽しさ、面白さを子どもたちに味わわせることに成功しているように思います。
 「子ども主体」と言っても、すべてを子どもに任せるわけにもいきません。「ミニ・レッスン」の中で、読みに関するモデルを教師が示したり、様々な読み方を提示したりすることによって、子どもたちは本物の読書家に育っていきます。
 教師が手本を示すところと、子どもたちに自由に活動させるところが、有機的につながりあって、この時間のよさが最大限発揮されることになるのだと思います。まさに、ワークショップと共通するような「学び方」「教え方」です。
 また、評価に関しても、これまでのあり方を変える方法が示されています。
 本文158ページには次のように書かれています。

指導書の計画通りに進め、それに十分ついてきた子どもはよい評価をもらって喜んでいたことでしょう。逆に、指導書とは違う考えをもっていた子どもはあまりよい評価を得られず、学期末の振り返りには「国語は得意ではないです」と書いたことでしょう。評価は子どものためにあるとは考えず、ただ自分の仕事をこなすためにやっていたのです。

実は私も小中学生の時、国語の評定がよくありませんでした。なぜ、正解のように考えなければならないのか、どうしても納得できないことがしばしばありました。もし、評価観が上記のように変わっていれば、私も国語好きになっていたことと思います。
評価に関しては、最終的に「自己評価力」を目標とするというのは、とても大切なことだと思います。その力はおそらく単に教科の中だけという狭いものではなく、子どもの生活の様々な場面で活用される、学習指導要領でも取り上げられている「生きる力」の一部です。

最後に、第10章の「教師の変容」に触れておきたいと思います。
192ページに次のようなくだりがあります。(「読書家の時間」の実践を3年以上された教師のインタビューの部分)

 子どもたちが主体的に学ぶためにはどうしたらよいかについて、一生懸命「教材」研究もしましたが、教材のなかにその答えを見つけることはできませんでした。なぜなら、私にとっての教材研究は「どうやって教えるか」であり、その時点で「教師が教える」ということに力点が置かれていて、「子どもが学ぶ」ということに力点が置かれていなかったのです。

ここは教師の立ち位置として重要なところです。このことに無頓着な教師がベテランと言われる教師の中にも少なからず存在します。つまり、「読書家の時間」を進めていくことは教師としてのあり方を自らに問う貴重な機会を提供してくれるとも言えるでしょう。

こんな素敵な実践が今後多くの学校に広がっていくことを期待したいものです。


                 白鳥信義(帝京平成大学)