パウロ・フレイレの『被抑圧者の教育学』という本をご存知でしょうか? 私は大学院生の頃に購入して読んではいたのですが、訳文がなかなか呑み込めずに、何度も何度も読み直したのを覚えています。わかったつもり、でいました。
ところが、三砂ちづるさんの『新訳 被抑圧者の教育学』(亜紀書房、2011年)を読んだところ、びっくり。同じ出版社から出された以前の訳が1979年5月初版ですから(私が大学に入学した年です!)、30年ぶりの新訳です。たとえば、
(旧訳)実践とならない言葉は、真の言葉とはいえない。したがって真の言葉を話すということは、世界を変革することである。(95ページ)
(新訳)本当の言葉のないところに実践はない。だからこそ本当の言葉は世界を変えることもできる。(118ページ)
旧訳も、重みがあるのです。それは疑いようがない。でも、すんなりと私の頭のなかに入ってくるのは新訳のほう。「本当の言葉のないところに実践はない」と言われたほうが「実践とならない言葉」と言われるよりもしっくりときます。「真の言葉を話す」ことがそのまま「世界を変革する」と言われても、その実現には大変な困難が予想されるように思われます。でも、これを、「だからこそ本当の言葉は世界を変えることもできる」と言われると、「本当の言葉」を求めたくなる、やってみようかなと思えてくるのです。三砂訳の巧みなのは、今の部分で「も」を使って、読者に選択肢を与えていることではないかと思います。
そして次のような一節にも魅力を覚えます。
「銀行型」教育ではなく、問題解決型教育のビジョンをもつような手段として、雑誌や新聞の記事や本の一節を読んで議論したりすることもあるだろう。前にあげた専門家のインタビュー録音のときと同様に、記事や本の一節を紹介する前に、著者はどういう人なのか、一言加えることは必要なことである。その後で読んだものの内容について議論を進めるのがよいだろう。
読み物を使った同じ方向の作業として、同じ事件を取り扱ったいくつかの新聞記事の内容を分析してみることも欠かすことのできない重要な作業だと思う。同じ事実がなぜ新聞によってこんなに違ったふうに書かれるのか? そのようにすることで人々は批判精神を身につけ、新聞を読んだり、ラジオを聴いたりするにあたり、ただそこで流されている情報を受け取るだけの受動的な姿勢から、自由を求める意識的な主体となっていくのである。192ページ~193ページ
ここで知識を詰め込む「「銀行型」教育」と対照的に示されている「問題解決型教育」とは、リーディング・ワークショップそのものではないでしょうか。
『理解するってどういうこと?』の参考文献に『被抑圧者の教育学』は上げられていないのですが、三砂さんの訳だと、フレイレがキーンさんと重なって見えてきて、奥行きがさらに広がります。三砂訳でフレイレを改めて読んで、そういうことに遅ればせながら気がつきました。30年前の私が、そのことに気づくのは無理でしょうが、それなら、私はいったいこの本の何を理解していたことになるのでしょうか? 『理解するってどういうこと?』の第7章「変わり続けること以上に確実なことはない」で、ネルーダが「よきメンター」に選ばれている理由や、第8章「すばらしい対話」の「よきメンター」にピカソとマチスのライバル関係がどうして選ばれているのか、よくわかるのです。そして読んで理解するということは、「流されている情報を受け取るだけ」のことではなくて、つねに本や情報を読み解かれるべきものとして捉えて、「自由を求める意識的な主体」となることなのだという思いを強くします。この二冊を重ねて読むと。
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