2017年6月30日金曜日

作家の時間、読書家の時間で活躍する特別支援級の子どもたち


『読書家の時間』を中心的に書いた横浜の冨田先生が最近の実践報告を送ってくれました。支援級の子どもたちが入れ込んで取り組めるということは、当然のことながら普及級の子どもたちも、です!!

 特別支援級で作家の時間と読書家の時間の実践を行っています。対象は、4月は6年生3人でしたが、6月の今では周りの子が興味を持ったり、周りの先生がこの子も仲間に入れてほしいとリクエストをもらったりして、今では6人。集団に入るのが難しかったり、集中が長く続かなかったり、それぞれニーズが違いますが、これまでの普通クラスでのワークショップの感じとは違って新鮮な気持ちで取り組んでいます。
 まず、とても個性的です。特徴的な子をあげれば、電車が大好きな剛くん(仮名)。「特急、僕が電車が好きなわけ行き」という作品を書きました。不思議に思って「行き」という言葉をどうして付けたか尋ねると、電車は◯◯行きというように、行き先を見せる。題名も同じように行く先を見せるから」という、意志のある説明をもらいました。こだわり派の男の子です。

 書きたいことリストを作ろうと言ったら、書きたいことリストが電車のことばっかりになりました。話をしていくと、剛くんは趣のある古い電車よりも、ピカピカでハイテクな電車が大好きで、お気に入りは青いロマンスカー(MSE60000系)だそうです。○○駅から○○駅を○○分で結ぶとか、車内がどうだとか、話しながらどんどん書いていきます。すごい集中力。
 剛くんは、学習時間に集中できないからということで、僕が一時的に引き受けた子でした。環境が変わったということもあるでしょうが、好きなことを選んで書ける作家の時間は、夢中になって書いているので、担任の先生も驚いていました。
 近くに、一緒に頑張っている仲間がいることも大切な一つ。学習時間が合わなくてなかなか友達と顔は会わせられないのですが、友達の作家ノートを見せたり、友達からの質問を預かったりして、この子が苦手である他者を意識することができるようにカンファランスをしています。自分だけが知っている用語を使ってしまうので、僕が読書ノートの右側に質問を書きます。すると、喜んで文章で答えてくれるので、やりとりが蓄積していきます。
 電車の中でも、車両基地が好きだという剛くん。ロマンスカーの車両基地で水圧をコントロールして洗車しているという内容の作品を、あっという間に清書まで書ききってしまいました。お気に入りの電車の写真を貼って完成。伝えたいという力は本当にすごいです。
 次に、集団の中に入ることに課題のある美香さん(仮名)。自分の作品が出版される(いろいろな人に読んでもらう)ことに、最初は戸惑いを示していました。けれど、お世話になっている担任の先生や、交流級の先生、一緒に作品を頑張って書いている友達から実際にファンレターをもらうと、やっぱりうれしそうでした。僕も、美香さんに関わりのある先生から積極的にファンレターを集め、書く喜びを味わえるような環境を作り、美香さんが自分を出しても大丈夫なんだという自信をつけられるように工夫しています。
 最初の作品はモデルになりたい子が主人公の物語でしたが、次の作品は自分が好きなスクイーズというおもちゃを紹介する作品、そして、今書いている作品は、自分が転校する前に習っていたというダンスの作品。徐々に、自己開示ができていることに、僕自身も手応えを感じています。美香さんの作品がみんなに受け入れられるということは、美香さん自身の自信につながることでしょう。美香さんの成長を感じています。

写真2: これは、なかなか助けを呼べない子がいて、いつでも助けを呼んでいいんだよ(時間の中で解決することが大切!)ということを考えてもらうために作りました。これを立てるという動作で、先生にヘルプを出せる仕組みです。


 ブッククラブもとても面白いです。4人の6年生と1、2週間に1回のペースでやっています。1冊目は「魔女の宅急便」。交流級の先生からは、よくあの子達に「魔女の宅急便を読ませる気になりますね」とびっくりされましたが、「魔女の宅急便」は短編集のような章編成でゆるやかに章同士のつながりのある物語で、読み遅れてしまっても参加できるし、映画を見たことがある子達だったので、人物の背景のベースはできているということで、この本にしました。
 交流級の先生の予想を裏切って、頑張って読んできていました。読む楽しみもありますし、毎日の情報交換のために行っているノートに、励ましながら進捗状況をチェックしていましたから、長いものでも読んで参加ができました。
 もともと個性の強い子どもたちですから、投げた話題を拾って話題を返すことには、難しい子ばかりです。だから、章ごとの再話から話をはじめて、食いついてきたところで話題を膨らましていきました。キキがお客さんから預かった詞のラブレターを読んでしまうところなんて、かなり盛り上がりました。そういうポイントを僕が探りながら進めていきます。なかなか友達とのトラブルも多い子達が、同じ話題で盛り上がっているところを見ると、僕も嬉しくなります。読むのは大変そうですが、次は章までにしたいと、自分達からどんどん言ってくるので、本が楽しめているみたいです。最後は、魔女の宅急便のポップを作って、図書室に掲示しました。


2017年6月23日金曜日

「およそ1分の読み聞かせに魅せられて」

  絵本 『アヒルだってば!ウサギでしょ!』(エイミー・クローズ・ローゼンタール著、今井祥智訳、サンマーク出版)に、はまってしまいました。

 インターネット上で使えるものを検索しているときに、この絵本の英語版の読み聞かせの動画に出合いました。★ 読み聞かせ自体は1分10秒という短さなので、あっという間に終了です。
 
(たった1分10秒なので、百聞は一見にしかずで、ブログの最後に書いたURLで楽しんでください!)

 見えている動物が、アヒルなのかウサギなのか、アヒルと思っている子どもとウサギを思っている子どもとのやりとり、それだけです。

 (最初に見はじめたときは、「最後にどちらでもない第3の動物がでてきて、どっちも間違っていた、で終わる」と勝手に予想しましたが、私の予想は、見事にはずれました。)

 これを楽しんでいて、3つのことを思い出しました。

(1)ブッククラブのためには、知人は「1回目は楽しむために読む、2回目はブッククラブで語りたいポイントを意識して読みなおす」と、言っていることを思い出しました。そう思って見直すと、たとえ1分の本でも、語りたいポイントがあることに気づきます。

 上に書いたような予想を裏切られるのもいいですし、 アヒルとウサギという、実際には見間違うことがありえない設定もいいなと思います。はたから見るとありえないようなバカバカしいことでお互いに譲らないということは、大人でもありそうですし、お互いに主張しているだけでは、どこにも行きつかないこともよくわかります。

(2)少し前に「作家について調べる」というテーマを扱い、そのときに書かれていた以下のことを思い出しました。★★
 小学校では「作家について学ぶ」ときには、次3つのタイプがあり、それぞれにメリットはあるものの、先生はどれか一つに限定せずに、この3つすべてを意識して、「作家について学ぶ」を扱うとよいと書いてありました。

①作家について調べて、作家の生涯と作品とのつながりを考える。
②作家の生涯については特に注目せずに、その作家の作品に焦点をあてて、テーマ、登場人物などを論じる。
③作家の作品について、そこから自分が得たことや自分への影響など、自分自身との関わりから考える。

 まずは①ということで、この作家について調べてみたくなりますし、他の本を読んでみたくもなります。そこで、さっそく、この作家のウエブサイトを見たりしています。検索している間に、今年3月に51歳でなくなったということも知りました。


(3)絵本は短時間で完結できるので、メンター・テキストやミニ・レッスンにとても使いやすいです。特に1分強という短さは魅力なので、この本から使えるミニ・レッスンを考え始めています。



*****

 たった1分の読み聞かせでも、そこからいろいろ思い出したり、広がりが生まれたりと、本との関わりが、より楽しめる気がしますが、これも、RWの魅力かもしれません。


★ 英語版の読み聞かせは以下で見れます。1分強ですし、何よりも楽しい!です。この絵本の場合は字幕も出ます。
https://www.youtube.com/watch?v=hPCoe-6RRks&feature=youtu.be
なお、これは Storytime Online というサイトでの読み聞かせですが、Youtube にもいくつかあがっているこの絵本の、他の読み聞かせビデオと比較すると、少し話を短くし、終わり方も少し異なるようです。なお、Storytime Online のサイトでは、英語ですが、この絵本以外にも100冊以上の読み聞かせが見れます。

★★ 教師や親向けのリーディングについてのサイト Reading Rockets の中に、The Author Study Toolkit というのがあり、その4ページに載っていました。この部分はpdfでダウンロードもできます。
http://www.readingrockets.org/content/pdfs/authortoolkit_rr.pdf

2017年6月16日金曜日

物語を書くための本に物語を理解する秘訣を学ぶ!


 キーンの『理解するってどういうこと?』では「推測する」を「本や文章から自分独自の意味をつくり出すプロセス」であり、「読んだ内容とそれまでに自分がもっている知識を結びつける形でつくり出される」としています。しかし「推測する」は、読者が「自分独自の意味をつくり出すプロセス」ではありますが、自分勝手に妄想を広げることではもちろんありません。読み手と書き手との対話的な共同作業のなかで営まれる行為なのです。
 リサ・クロン(府川由美恵訳)『脳が読みたくなるストーリーの書き方』(フィルムアート社、2016年)という本を読んで、そのような思いを強くしました。たとえば、読み手の「推測する」行為をいざなう書き手に「伏線」がありますが、クロンの本には次のように述べられています。

伏線を見つけ、何が起きるかを予測し、そのとおりになれば、賢くなったような気分を味わえる。伏線は、人が持つあらゆる感覚のなかでも最古のもののひとつ、関心という感覚で読者を誘い込む。伏線によって、読者はそこに自分も関わっているという感覚、目的意識の感覚を感じ、何かの一部になったような気持ちを覚える--内部事情を知った気になれる。作者が読者に伝える暗号、それが伏線だ。伏線を見つけた瞬間から、読者は伏線回収につながるパターンを熱心に追うのが自分の仕事だと認識する。そして奔放にそれに取り組み、その時間を余すところなく味わう。寝る時刻を大幅に過ぎても、物語を読み続けてしまう。(『脳が読みたくなるストーリーの書き方』320ページ)

 伏線とは「事実、行動、人、出来事など、将来の動きを暗示するもの」のこと。
 小学校5年生の国語教科書に出てくる、杉みき子の「わらぐつの中の神様」という物語をご存知でしょうか。雪国に暮らすマサヨという女の子(ヒロインです)が、雪が積もっているので「わらぐつ」を履くように言われ、「みっともない」といやがったところ、祖母から「わらぐつ」にまつわるあたたかい話を聞くことになります。この話の場合、冒頭でマサヨが「わらぐつ」を履くのをなぜ嫌がったということが「伏線」となるでしょうし、冒頭のシーンで祖父がお風呂に出かけて不在であるということも「伏線」となるでしょう。祖母の話が終わるころまで、これらの「伏線」は回収される(読者が「つながり」を見つける)はずです。「わらぐつ」を履くのを嫌がっていたマサヨが祖母の話の聞き手になったことやその間の祖父の不在と、マサヨの変化とのつながりを見つけることが「伏線回収」であり、「わらぐつの中の神様」を意味づける行為となります。
 「伏線」だけではありません。『脳が読みたくなるストーリーの書き方』には次のようなことも書かれています。

面白い物語が脳に喜びを解き放ち、人間を混乱のたえない日常生活からきっぱりと切り離してくれるのは、生き残りの観点からみてどんな理由があるのだろう? 答えは明快だ。ほかの誰かが自分の代理として、飛んでくる運命の石や矢に苦しめられているところをのんびりとながめ、その矢が自分に向かってきたらどう避ければいいかを学ぶためだ。(『脳が読みたくなるストーリーの書き方』289ページ)

 どうして面白い物語を私たちが求めて読むのか、それを読む喜びは人生の何の役に立つのかということについての筆者なりの回答が、さりげなくこのようなかたちで随所に置かれているところも、この本の魅力です。そしてクロンの本は、物語を読むことについての本ではなくて、あくまでも物語を書くことについての本なのです! だからこそ、物語を書こうとする「あなた」に対して呼びかけるかたちで書かれているこの本から、読み手として本や文章のどこに着眼すればよいのかということについてのたくさんのヒントをもらいました。この本を読むことで、「推測する」をはじめとする理解するための方法が、読み/書きの両方にかかわるものだということを改めて実感したのです。

2017年6月9日金曜日

「何が大切かを見極める」ことは、生きていく上で欠かせない!


いま、『「読む力」はこうしてつける』(新評論、2010年)のネットでのブッククラブをしています。その第10章「何が大切かを見極める」のやり取りを紹介します。
あなたは、Aさん~Cさんの書き込みや反応に、どのようなフィードバックをしますか?

Aさんの書き込み:
 僕は、「何が大切かを見極める」は読書とか学習とかよりももっと大きな枠で、生きていく上で大切なのだと思います。
 強引に言い換えれば、「決める」ということかな。目の前にある情報や、人に言われたこととか、自分に影響を与えることは、自分にも処理しきれないぐらい多くあって、それでも「決める」ということをしていなかなければならない。自分の体力も気力も時間も空間も有限だし、あれもこれもと選んでいると、自分の中がゴミ屋敷のようになってしまう。そうならないために、「何が大切かを見極める」をして、「決める」をしなければならない。
 学校って、あらすじだけ書かれた読書感想文のようだと感じる時があります。主体者がいない。知らず知らずのうちに、授業の中に学び手である「自分」がいなくなってしまう。黒板にかかれているものは全部大切で、テストに出ることは全部大切。でも、本当に大切なのは、自分にとって大切なことであり、その大切なことから自分が考え出したこと。当たり前だけど、それをやるのはとても大変だから、右耳から入って左耳へと通り抜けるように、自分を希薄にしているのだと思います。
 もっと「自分で決める」ということを大切にした学校を作っていかなければならないですね。
 話が随分変な方向にいってしまいました。
 読み方というのを、もっと学生のときに早く教わりたかったです。精読だけでなくて、速読とか芋づる読書とか。本当の本を使わないで授業を受けてきたから、そういうものに出会うのが遅れてしまったのだと思います。
 自分が大学生とか社会人に成りたてのとき、整理整頓の仕方の本に出会って、本当にびっくりしました。本ってこんなものまであるのか!と。当たり前と思うかもしれませんが、あらゆるテーマの本があるということすら、真剣に考えたことがなかったんです。本は勉強のことしか書いてないと思っていた。自分に日常生活をちょっと楽しくする本もあることを知らなかったのです。(みなさんもそう言う経験ないですか?)
 だから、本の読み方の本を見たときも、びっくりしました。速読なんて考えもしなかったです。せいぜい、早く読むというのは、熟読を早く行うぐらいのレベルでしか考えていなかった。学校で、生の本を使って授業が行われていれば、選書とか、速読とか、そういうものにも触れ合えていたのだと思います。

Bさんのコメント:
「決める」に関係するのですが、人生は選択の連続だと感じています。進路や就職、仕事の進め方。大人になるにつれて「自分が」何を大切にするかを知ることが重要になっていくと思いました。
自分が大切にすること
他人が大切だと言っていること
この2つを区分することは、私自身最近自覚しだしたように思います。もっとそれは早く気づきたかったなと思います。
自己中心になるわけではなくて、自他を区別するんだと伝えることはできるんじゃないかな?と思っています。
特に強く感じるのは、司書の役目として、レポート作成方法を教えるような時です。
小学生の調べ学習は、作者の意見を盲目的に要約しているだけで自身の考えを論じるところまで至らないものが多くて、「これは…レポートではなくて下調べに過ぎないのでは?」と感じることが多いです。それで先生がよろしい、としているのなら、私にそれ以上は口を出せません。引用や出典のことを話しても、あまりピンときていない。とても大切なことなのに。

Aさんの反応:
自分の考えを表す環境に置かれていないと、子どもはなかなかできないですね。親や教師も意図して考えを表現するように言っていかないと、易きに流れると思います。外国の学校はこういうところ、しっかりやってるから、うちの学校も頑張らないとね。
話を聞きなさいと言い過ぎているのかなあ。教師としては、難しいところです。引用や出典は大切にしたいね。図書館でそういうことを伝えていくことって本当に大切だと思う。

Cさんのコメント:
皆さん、司書の方が、「調べ学習」と「探究学習」の違いを、うまく整理してくれました。司書の方々が出しくれている本の多くは、残念ながら、「調べ学習」に対応するレベルのものですが・・・・・ぜひ早く「探究」の方にシフトしないと!★

「何が大切かを見極め」られないことの練習をあえてやり続けているのが、https://www.facebook.com/TheGiverJapan/ の5月31日の「改めるべき成果出ない長時間練習」で、その結果が、6月1日の「森友問題、そして加計問題」や6日の「いまの政権の道徳教育」という形で表れている気がします。
要するに、世の中に蔓延しています。
少なくとも学校や大学の期間中を通して(いや、幼稚園から?!)練習し続けているのですから、他のやり方があるとはなかなか気づけません! 文科省の優秀な官僚たちですら?(ましてや、政治家たちでしょうか?)

★ これは、作家のサイクルや読書のサイクルと基本的には同じの「探究のサイクル」を回し続けることを意味します。イベント的にやっても、身につくものではありませんから。


2017年6月2日金曜日

詩の美味しい食べ方(お行儀悪くてもOK!)

 2013年9月13日のRWWW便りのブログで、ビリー・コリンズ(Billy Collins)という詩人が、「詩とは」という題名の詩で書いている、最後の5行を紹介しました。読者が詩を読むときに「したがる」ことが描かれています。


   <略>

         しかし読者がしたがるのは
       ロープでイスに詩を縛りつけて
        告白させようと拷問すること

           ホースで詩をたたき
        本当に意味しているものを見つけようとする

 (この詩は『ビリー・コリンズ詩選集 エミリー・ディキンスンの着衣を剥ぐ』小泉純一訳、国文社、2005年、42-43ページにあります。)

上の5行は「しないほうがいいこと」かと思いますが、 最近、「詩はおいしく食べれる!」と思える、子どもが楽しめそうな詩に出合って、なんだか嬉しくなりました。

ご存じの方も多いと思いますが、以下のイブ・メリアムの書いた、「詩の食べ方」という詩です。

「詩の食べ方」

   お行儀なんか気にしなくていい。
 そのまま指でつまんで、
 がぶっとかぶりついて大丈夫
 もし汁がでて、あごからたれたら
 ペロッとなめちゃえばいい。
 すっかり熟して、もう食べごろだから
 いつもで好きなときにどうぞ。
 ナイフもフォークも
 スプーンもお皿も
  いらない。
 もちろんナプキンもテーブルクロスも。
 皮とか茎とか芯とか、ペッと
 はきだす種とか、
 捨てるところは
 なんにもないはず。

 『ガラガラヘビの味 アメリカ子ども詩集』
  アーサー・ビナード/木坂 涼編訳 12-13ページ

 個人的には、この短い詩、数回読み直して、楽しんでいます。最初はがぶっとお行儀悪くかぶりついて、全体を楽しみました。

  それから最後の4行がちょっと、分かりにくくて読み直しました。

  そうしていいる間に、最後の2行「捨てるところは/なんにもないはず」が頭に響き、そこから中学レベルのRWとWWの優れた実践者、ナンシー・アトウェル氏が自分の授業で、自分の詩を書くプロセスを子どもに伝えるレッスンを思いだしました(2017年4月7日のRWWW便り「12ページのメモや下書きの価値 ⇒ 子どもに出す課題に真剣に取り組み、その過程を見せる」参照)。

  このプロセスでは、アトウェル氏の詩はさらっと書かれているようで、実は一語一語の選択まで、とても丁寧に推敲されていることがわかります。それで「捨てるところはない」ことに納得です。

 こんな短い詩なのに、この詩でブッククラブ(ポエム・クラブ?)ができると思えるぐらい、短時間でいろいろな考えが浮かびました。

 「詩」って、美味しくて楽しいもの!」なんですね、と思わせてくれた詩でした。